645年の宮中政変は蘇我本宗家の政治力を失わせた。ただし、土地・民衆支配や行政制度の再編は一度に完成したのではなく、後世まで続く長い国家形成の一段階だった。
王権を支える蘇我氏の力が、皇族をしのぐほど大きくなっていた
6世紀末以来、蘇我氏は仏教受容や対外関係を進め、王権の有力な支柱となりました。入鹿の父・蝦夷の代には大臣家として政治を主導する一方、皇位継承をめぐる対立が深まり、中大兄皇子らは蘇我本宗家を排除する計画を進めます。
皇位継承と政治主導権をめぐる対立が、宮中での武力行使へ至った
中大兄皇子は神祇官を辞した中臣鎌足と接近し、蘇我氏に対抗できる皇族・官人の連携を組み立てました。古人大兄皇子らをめぐる継承問題や、蘇我氏による山背大兄王一族滅亡などが緊張を高めましたが、改革理念だけを動機として単純化はできません。
外国使節を迎える儀式の場で、入鹿が襲撃された
皇極天皇の飛鳥板蓋宮で、朝鮮三国の使者から表文を受け取る儀式が開かれました。そこで中大兄皇子らが入鹿を襲撃。翌日、父の蘇我蝦夷は自邸に火を放って自害し、蘇我本宗家は政治の中心から退きました。
譲位と改元を経て、新政権が支配制度の再編を掲げた
皇極天皇は弟の軽皇子へ譲位し、孝徳天皇が即位。中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣となり、難波へ都を移して新政を進めました。公地公民や地方行政を掲げる改新詔は646年に出されますが、文言の成立時期や実施範囲には研究上の議論があります。

