江戸時代 / 慶応3年
慶応3年
大政奉還
15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷へ返上すると表明。朝廷は翌日これを受理し、約260年続いた江戸幕府の統治原理が転換した。
大政奉還は慶喜の無条件降伏ではありません。将軍職を返しても徳川家の軍事・領地・官位は残り、慶喜は新しい諸侯会議で主導権を保つ構想を持っていました。
- 場所
- 山城国・二条城
- 天皇
- 明治天皇第122代天皇
- 関係人物
- 5名

OVERVIEW
大政奉還を4段階で理解する
長州征討の失敗と将軍家茂の死で、幕府単独の統治が限界を見せた
薩長の連携、諸藩の自立、朝廷の政治参加が進みました。慶喜は軍制・行政を改革しましたが、倒幕の密勅を得ようとする動きも迫っていました。
土佐藩の建白を受け、慶喜は政権返上で倒幕の大義を失わせようとした
後藤象二郎らは将軍が政権を返し、朝廷のもとで諸侯会議を開く案を提示。慶喜は徳川家の実力を背景に新体制でも中心になれると判断しました。
二条城で諸藩重臣へ意向を示し、朝廷へ上表した
1867年10月13日、慶喜は二条城で大政奉還の方針を説明。14日に朝廷へ上表し、15日に勅許されました。
王政復古で幕府廃止が宣言され、徳川処遇をめぐって戊辰戦争へ進んだ
12月9日の政変で将軍職・京都守護職などが廃止されました。辞官納地要求と鳥羽・伏見の戦いを経て、軍事的な政権交代になります。
DEEP DIVE
慶喜はなぜ、自ら幕府を終わらせる決断をしたのか。
政権返上によって倒幕派の攻撃理由を弱め、徳川家の巨大な領地・軍事力・政治経験を使って新しい諸侯会議の中心に残る戦略でした。幕府という制度を手放しても実権を失わない計算です。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
幕府の軍事的失敗
第二次長州征討の敗北で、幕府が全国の諸藩を動員する力は大きく低下しました。
土佐藩の建白
後藤象二郎らは政権返上と諸侯会議を組み合わせ、内戦回避を目指しました。
倒幕の密勅
薩長は武力倒幕の大義を整えつつあり、慶喜には先手を打つ必要がありました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
土佐藩で建白案
政権返上と公議政体が検討されました。
二条城で意見を聞く
慶喜が在京諸藩の重臣へ方針を示しました。
大政奉還を上表
朝廷へ政権返上を申し出ました。
朝廷が勅許
返上は受理されましたが行政は当面幕府が担いました。
王政復古
新政府が将軍職と幕府機構の廃止を宣言しました。
KEY PEOPLE
大政奉還を動かした人物
RELATIONSHIP
大政奉還 人物相関図
政権返上を選んだ幕府と、その後の政権実体をめぐる朝廷・薩長の関係です。
徳川 慶喜政権返上を上表
坂本 龍馬政権返上・新体制論を推進
明治天皇大政奉還を勅許
木戸 孝允長州側で新政権を構想
西郷 隆盛薩摩側で王政復古を推進徳川 慶喜政権返上明治天皇将軍が統治権を朝廷へ返す
坂本 龍馬政権返上構想徳川 慶喜土佐藩の建白につながる構想を推進
徳川 慶喜新政権の主導権西郷 隆盛返上後の徳川処遇をめぐり対立
QUESTIONS
よくある疑問
10月15日に江戸幕府は完全消滅したのか
政権返上は決定的ですが、幕府役所は当面実務を続け、将軍職廃止と新政府成立は王政復古で進みました。
内戦は避けられたのか
京都政局では流血を避けましたが、徳川領地・官位・軍事力の処分をめぐり戊辰戦争へ進みました。
龍馬が慶喜を説得したのか
龍馬が慶喜へ直接決断させた証拠はありません。土佐藩の建白、幕府内部の判断、薩長の圧力を総合して考えます。
IMPACT
その後、何が変わったか
幕府統治原理の終結
将軍が朝廷から委任された政権を返すことで、徳川幕府の正統性が失われました。
王政復古の政変
薩長側は返上後も残る徳川の実力を排除するため新政府を樹立しました。
近代国家への移行
諸藩連合か中央政府かをめぐる競争が、明治政府の中央集権化へつながりました。
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