
PERSONAL FILE / 武将
とくがわ よしのぶ徳川 慶喜
大政奉還を行った江戸幕府第15代将軍水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、一橋徳川家を継いだ。将軍継嗣問題では井伊直弼と対立し、安政の大獄で謹慎したが、1862年に将軍後見職として復帰。京都政局と幕政改革を担い、1866年に15代将軍となった。翌年の大政奉還は、幕府という制度を返して徳川家を諸侯会議の中心へ残す構想でもあった。王政復古後の鳥羽・伏見の戦いでは、大坂城から江戸へ退いて旧幕府軍を混乱させた。その後は恭順し、静岡で約30年にわたり政治から距離を置いた。
- 生没年
- 1837—1913
- 主な所属
- 徳川宗家・江戸幕府
- 関わった出来事
- 4件

QUICK GUIDE
まず3分でわかる、徳川 慶喜
幕府を立て直そうとし、自ら政権を返した最後の将軍
水戸徳川家から一橋家へ入り、将軍後見職として京都政局を動かした後、1866年に15代将軍となりました。軍制・行政を改革しながら、翌年には大政奉還を上表しました。
大政奉還は、ただの降伏ではなかった
幕府という制度を手放して倒幕の大義を弱め、徳川家の領地・軍事力・実務能力を背景に、新しい諸侯会議でも主導権を保つ構想でした。将軍職と幕府機構が廃止されたのは王政復古の政変です。
『英明な改革者』『戦場から逃げた将軍』の一語では足りない
短期間で改革を進めた政治力と、大坂城から江戸へ退いて旧幕府軍を混乱させた責任は両立します。退去の意図を本人の一つの言葉で確定できず、恭順後の戦争も慶喜自身の指揮とは分けて考える必要があります。
LIFE TIMELINE
徳川 慶喜の生涯年表
江戸の水戸藩邸に生まれる
水戸藩主・徳川斉昭と吉子女王の七男として、小石川の水戸藩邸に生まれた。幼名は七郎麿。幼少期は水戸で教育を受けた。
一橋徳川家を相続する
御三卿の一つで将軍家に後継者を出しうる一橋家へ養子に入り、家督を継いだ。のちに一橋慶喜と呼ばれる政治的基盤となった。
将軍継嗣問題で一橋派の候補となる
病弱な13代将軍家定の後継をめぐり、年長の慶喜を推す勢力と紀州の徳川慶福を推す南紀派が対立した。大老井伊直弼は慶福を14代将軍家茂に選んだ。
安政の大獄で隠居・謹慎となる
無勅許での通商条約調印や継嗣決定をめぐって井伊直弼へ不時登城で抗議し、処分された。桜田門外の変後に政治復帰への道が開く。
将軍後見職となり文久の改革へ
朝廷と有力諸藩の圧力を受けた幕府で将軍後見職に就き、松平慶永らと参勤交代緩和、京都守護職設置などの改革を進めた。
京都政局の中心に立つ
将軍家茂の上洛後も京都に残り、朝廷・会津・薩摩・長州・諸侯の間を調整した。禁門の変では御所防衛側に立ち、長州勢と対峙した。
徳川宗家を継ぎ、15代将軍となる
第二次長州征討中に家茂が死去すると徳川宗家を継承し、のちに将軍宣下を受けた。将軍として江戸城へ入らず、京都・大坂から政務を行った。
軍制・行政・外交の改革を急ぐ
フランスの支援も受けて陸軍を再編し、職制・財政・海軍などを整えた。弟・昭武を名代としてパリ万国博覧会へ送り、幕府の国際的地位維持も図った。
二条城で大政奉還を表明する
在京諸藩の重臣へ意向を示し、10月14日に朝廷へ政権返上を上表、翌日に勅許された。行政実務と将軍職はこの時点ですべて消えたわけではなかった。
王政復古で将軍職と幕府が廃止される
新政府は将軍職・摂政・関白などの廃止を宣言した。小御所会議では慶喜の辞官納地が議題となり、徳川家の新体制参加をめぐる対立が深まった。
鳥羽・伏見の敗戦後、大坂から江戸へ退く
旧幕府軍と新政府軍が衝突すると、慶喜は大坂城から軍艦で江戸へ戻った。総大将の退去は旧幕府軍の統一指揮と士気を大きく崩した。
寛永寺・水戸・駿府で恭順謹慎する
寛永寺で謹慎し、新政府へ敵対しない姿勢を示した。江戸城開城後は水戸の弘道館、続いて駿府の宝台院へ移り、1869年に謹慎を解かれた。
静岡で政治から距離を置く
駿府改め静岡で長く暮らし、写真、狩猟、油絵、自転車など多くの趣味に取り組んだ。旧臣の政治活動や内戦の指揮へ復帰しなかった。
東京へ移り、公爵となって死去する
東京へ移住し、1902年に徳川慶喜家を立てて公爵となった。1913年に死去し、谷中の徳川慶喜家墓所に葬られた。
BIOGRAPHY
徳川 慶喜は、どんな生涯を送ったか
水戸から一橋家へ――将軍候補として育てられた少年
徳川慶喜は1837年、水戸藩主・徳川斉昭の七男として江戸小石川の水戸藩邸に生まれました。母の吉子女王は有栖川宮家の出身です。父の教育方針で水戸へ移り、藩校・弘道館で学問と武芸を学びました。水戸学の尊王思想に触れたことは重要ですが、後年のすべての判断を幼少期の思想だけで説明することはできません。
1847年、御三卿の一橋徳川家を相続します。一橋家は領国を持つ大名家とは性格が異なり、江戸城内の政治と将軍家の継承に近い家でした。慶喜は水戸家の実子でありながら、将軍家に連なる一橋家当主という二つの立場を持ちます。この家格と年齢、学識への評価が、のちの将軍継嗣問題で彼を有力候補に押し上げました。
将軍継嗣問題と安政の大獄――政治の表舞台から謹慎へ
13代将軍・徳川家定に実子がいなかったため、後継をめぐる争いが起きました。島津斉彬、松平慶永、水戸の徳川斉昭らは、成人に近く政治能力を期待された一橋慶喜を推します。これに対して井伊直弼ら南紀派は、紀州徳川家の徳川慶福を推し、1858年に慶福が家茂と改名して14代将軍となりました。これは単なる年齢・能力の比較ではなく、幕府人事、条約、朝廷・諸藩の政治参加をめぐる争いでした。
日米修好通商条約の無勅許調印と継嗣決定へ抗議した斉昭・慶喜らは、不時登城を理由に処分されます。慶喜は隠居・謹慎となり、一橋派の大名・公家・志士にも安政の大獄が及びました。1860年に井伊直弼が桜田門外で暗殺された後も、慶喜が直ちに将軍となったわけではありません。幕府の権威回復策と朝廷・有力藩の圧力が重なる中で、段階的に復権します。
将軍後見職――改革の顔であり、京都政局の当事者でもあった
1862年、慶喜は将軍後見職に就きました。松平慶永が政事総裁職、松平容保が京都守護職となり、参勤交代の緩和や幕府人事の改革が進められます。慶喜は若い将軍家茂を補佐するだけでなく、朝廷と幕府の間をつなぐ政治代表として京都へ深く関与しました。幕末の政治中心が江戸だけでなく京都へ移る中、彼の活動拠点も西へ動きます。
京都では、攘夷実行を迫る朝廷、長州、会津、薩摩、有力諸侯の主張が交錯しました。慶喜は朝廷への尊重を示しながら、幕府の権限も守ろうとします。1864年の禁門の変では御所防衛側に立ちましたが、その後の長州処分や兵庫開港をめぐって立場を変化させました。『尊王の水戸出身だから常に朝廷側』『将軍だから一貫して幕府中心』という整理では、彼の調整と転換を捉えられません。
最後の将軍――江戸城へ入らず、京都・大坂から幕府を改造する
1866年、第二次長州征討の最中に将軍家茂が大坂城で死去します。慶喜は徳川宗家を継いだ後も将軍就任をためらいましたが、同年末に15代将軍となりました。在職は約1年で、将軍として江戸城へ入ることなく京都・大坂で政務を行います。江戸幕府最後の将軍の活動が江戸ではなく上方に集中したことは、幕末政治の構造変化をよく示しています。
慶喜は陸軍・海軍、職制、財政、外交の再編を急ぎました。フランス公使ロッシュの支援を受けた軍事改革、横須賀製鉄所などの事業、弟・徳川昭武を名代とするパリ万博派遣は、崩壊を待つだけの幕府像とは異なります。ただし、改革には財源と時間が必要で、第二次長州征討の失敗で明らかになった諸藩動員力の低下を短期間で覆すことはできませんでした。
大政奉還――幕府を捨て、徳川を新体制へ残す戦略
1867年、土佐藩は後藤象二郎らを通じ、将軍が政権を朝廷へ返し、その下に諸侯会議を置く案を建白しました。慶喜は10月13日に二条城で在京諸藩の重臣へ意向を示し、14日に大政奉還を上表、15日に朝廷が受理します。二条城二の丸御殿は、この方針が諸藩へ示された政治の現場として残っています。
大政奉還は幕府の失敗を認めた無条件降伏ではありません。幕府という攻撃対象をなくせば武力倒幕の大義を弱められます。朝廷には全国行政の実務組織が乏しく、徳川家には領地、軍事力、外交経験、官僚機構が残っていました。慶喜は公議政体の中で有力諸侯として中心に立てると考えたとみられます。『平和のためだけ』『権力に執着しただけ』のどちらか一方ではなく、内戦回避と政治的生存が重なった選択でした。
王政復古――政権を返しても、徳川の位置は決まっていなかった
大政奉還が勅許された後も、幕府の役所は当面行政を続け、慶喜は内大臣として政治的影響力を持っていました。薩摩・長州と岩倉具視らは、徳川家が諸侯会議を主導する展開を避けるため、12月9日に王政復古の政変を実行します。将軍職や幕府機構が廃止され、新政府の三職が置かれました。
同夜の小御所会議では、慶喜に官職辞任と領地返上を求める方針が争われました。慶喜は二条城から大坂城へ退きます。大政奉還によって統治権の名目は朝廷へ返っても、徳川家の所領・軍隊・官職をどう扱うか、誰を新政府の会議へ参加させるかは未解決でした。制度の変更と実力の移転の間に残った空白が、軍事衝突へつながります。
鳥羽・伏見――なぜ大坂城から江戸へ退いたのか
1868年1月、薩摩藩邸焼討ちなどで緊張が高まる中、旧幕府軍は『討薩』を掲げて大坂から京都へ向かい、鳥羽・伏見で新政府軍と衝突しました。慶喜自身は大坂城におり、戦場で直接軍を指揮していません。新政府軍に錦旗が掲げられ、旧幕府側が朝敵とされる可能性が現実になると、諸藩兵の動揺と離脱が広がりました。
慶喜は会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らとともに大坂城を出て、軍艦開陽丸で江戸へ戻りました。総大将が兵を残して退いたため、旧幕府軍の指揮と士気を大きく崩したことは否定できません。ただし本人の狙いを、恐怖だけ、あるいは内戦回避だけに断定できる決定的な記録はありません。朝廷への敵対を避ける判断、海路での再編、敗戦認識など複数の説明を検討しつつ、指揮官として残した混乱とは分けずに評価する必要があります。
恭順と江戸城開城――戦争を止めた範囲、止められなかった範囲
江戸へ戻った慶喜は、寛永寺の大慈院に入り恭順謹慎しました。山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛のもとへ送り、勝海舟と西郷の会談を経て江戸城総攻撃は中止されます。慶喜自身が西郷と直接交渉して無血開城を実現したのではなく、恭順方針を示した慶喜、交渉条件を詰めた山岡・勝、新政府側の西郷らの役割を区別する必要があります。
慶喜の恭順後も、彰義隊、東北諸藩、榎本武揚の艦隊は戦いを続け、戊辰戦争は箱館まで広がりました。これらすべてを慶喜の命令による抗戦とみなすことも、慶喜の恭順だけで内戦が終わったとみなすこともできません。徳川家の存続、旧幕臣の生活、各藩の防衛、新政府への反発という異なる目的が、旧幕府勢力の中で分かれていました。
静岡での後半生――沈黙は逃避か、政治的な選択か
江戸城開城後、慶喜は水戸の弘道館至善堂、駿府の宝台院で謹慎し、1869年に赦免されました。その後は静岡の旧代官屋敷などで暮らします。旧臣が明治政府、実業、教育などへ進む一方、慶喜は政治の第一線へ戻りませんでした。この長い距離の取り方は、敗者としての制約であると同時に、徳川家を再び政治対立の中心へ置かない選択でもありました。
写真、狩猟、鷹狩、油絵、手芸、自転車など多くの趣味が知られ、本人が撮影した写真も残ります。これを『趣味人になって過去を忘れた』とだけ捉えるのは単純です。政権返上と内戦の記憶について公に多くを語らなかったため、後世の証言や回想に依存する部分が大きくなりました。沈黙そのものが、慶喜像を英傑・臆病者・平和主義者へ分裂させる一因になっています。
名誉回復と死――最後の将軍を、勝者と敗者の二択から外す
1897年、慶喜は東京へ移り、1902年には徳川宗家とは別に徳川慶喜家を立てて公爵となりました。明治天皇との関係修復を示す出来事とされますが、かつての政治権力が戻ったわけではありません。1913年に76歳で亡くなり、歴代将軍の多くが眠る徳川霊廟ではなく、谷中の神式墓所に葬られました。
慶喜には、幕府を近代化しようとした実務能力、大政奉還で政治制度を転換した決断、鳥羽・伏見後に軍を残して退いた指揮責任、恭順して徳川家と江戸を全面戦争から遠ざけた側面が同居します。新政府に敗れた最後の将軍か、内戦を抑えた改革者かを決めるより、どの局面で何を守り、何を手放し、その結果を誰が負ったのかを追う方が人物像へ近づけます。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
大政奉還上意書
1867年重要文化財・一橋徳川家文書
慶喜が大政奉還の決断を家臣へ伝えた文書です。政権返上を本人の政治判断として示す同時代資料で、茨城県立歴史館の一橋徳川家記念室に伝わります。
大政奉還上表文(『法令全書』所収)
1887年刊
1867年10月14日に朝廷へ出された政権返上の上表文を、明治期の『法令全書』が収録しています。全文を確認できる公的なデジタル資料です。
徳川慶喜肖像写真
幕末—明治期
衣冠姿や洋装など複数の肖像写真が残ります。後世の想像画だけでなく、本人の容貌を写真で確認できる幕末人物です。
徳川慶喜題字『篇々深切』
明治時代
父・斉昭の書簡集『源烈公真筆』の巻頭に慶喜が記した題字です。父への記憶と、晩年の慶喜本人の筆跡を伝えます。
徳川慶喜撮影・静岡浅間神社大拝殿
明治期
写真を趣味とした慶喜が静岡で撮影した作品です。政治家としての公文書とは別に、長い静岡生活と本人の視線を伝えます。
HISTORICAL ROLE
徳川 慶喜は、その時何をしたか
桜田門外の変
年長の慶喜を推す一橋派と紀州慶福を推す南紀派が対立し、井伊直弼は家茂を後継に決定。慶喜は無勅許調印への抗議も重なって隠居・謹慎となった。1860年の直弼暗殺を慶喜が指示した事実はない。
大政奉還
将軍職を保ったまま政権を朝廷へ返し、徳川家を含む諸侯会議で主導権を保つ余地を探った。
明治維新
大政奉還後も徳川家の領地・軍事力・官位は残ったが、王政復古で幕府と将軍職が廃止された。辞官納地要求をめぐる対立が鳥羽・伏見の戦いへ進んだ。
戊辰戦争
大坂城を離れて江戸へ戻り、上野寛永寺で謹慎。旧幕府軍の統一指揮から退き、山岡鉄舟・勝海舟・西郷隆盛らの交渉を経た江戸城開城につながった。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
短い在職期間に幕府の近代化を急いだ
軍制・職制・財政・外交を再編し、フランスとの協力やパリ万博派遣も進めました。崩壊を待っただけの将軍ではありませんが、改革を定着させる時間と諸藩統制力が不足していました。
大政奉還で倒幕の前提を変えた
幕府という制度を返上し、徳川家を公議政体の有力勢力として残す構想でした。内戦回避と徳川の政治的生存を同時に狙った、高度だが未完の戦略です。
大坂退去が旧幕府軍へ与えた打撃は大きい
鳥羽・伏見の戦場に兵を残したまま江戸へ戻り、統一指揮と士気を崩しました。動機が一つに確定できなくても、最高指揮者としての結果責任は消えません。
恭順によって徳川家を全面抗戦から切り離した
寛永寺で謹慎し、旧幕府の総力戦を自ら指揮しませんでした。江戸城開城には山岡鉄舟・勝海舟・西郷隆盛らの交渉が必要であり、慶喜一人の功績ではありません。
近世と近代の境界を体現した人物
将軍として近代的軍制・外交を進めながら、将軍職そのものを返上しました。改革者、敗者、趣味人という別々の像を、局面ごとの史料でつなぐ必要があります。
RELATIONSHIPS
徳川 慶喜を取り巻く人と組織
徳川斉昭
慶喜を水戸で教育し、将軍継嗣問題では一橋派の中心となった。
注:父の尊王攘夷思想と慶喜の実際の外交・政治判断は同一ではない。吉子女王
有栖川宮家出身。慶喜は水戸徳川家と皇族家の血縁を持った。
一条美賀子
公家・一条家の出身で、慶喜の正室となった。
徳川家定
実子がなく、その後継問題で慶喜が一橋派の候補となった。
徳川家茂
南紀派に推されて将軍となった後、慶喜は将軍後見職として補佐した。
井伊直弼人物詳細 →
家茂を将軍に選び、慶喜ら一橋派を安政の大獄で処分した。
注:桜田門外の襲撃を慶喜が指示した事実はない。松平慶永
政事総裁職として、将軍後見職の慶喜と幕政改革を担った。
松平容保
京都守護職として朝廷・京都の警備を担い、鳥羽・伏見後に慶喜と大坂から江戸へ戻った。
徳川昭武
慶喜の名代として1867年パリ万博へ派遣され、渋沢栄一らが随行した。
後藤象二郎・山内容堂
政権返上と諸侯会議を組み合わせる案を幕府へ提出した。
明治天皇人物詳細 →
朝廷が大政奉還を勅許し、王政復古後は慶喜追討の新政府軍の正統性の中心となった。
西郷隆盛人物詳細 →
山岡鉄舟・勝海舟と江戸処分を交渉し、慶喜の恭順と徳川家の処遇を判断した。
勝海舟
慶喜の恭順方針を踏まえ、西郷隆盛と会談して江戸総攻撃の中止と城の引き渡しを進めた。
徳川家達
慶喜ではなく田安家の亀之助が徳川宗家を継ぎ、静岡藩主となった。
注:慶喜が後年立てた徳川慶喜家とは別系統。MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
徳川慶喜は『よしのぶ』と『けいき』のどちら?
正式な読みは『よしのぶ』です。『慶喜公』を音読みした『けいきこう』という呼称も同時代から広く用いられ、現在も関連施設や書名で見られます。
慶喜は最初から将軍になりたかった?
将軍継嗣問題では一橋派の候補となりましたが、本人の希望と周囲の政治運動は分ける必要があります。1866年には徳川宗家を先に継ぎ、将軍宣下まで時間を置きました。野心だけ、辞退だけの一語では説明できません。
大政奉還は坂本龍馬が慶喜を説得して実現した?
龍馬の政権構想と土佐藩の建白は重要ですが、龍馬が慶喜へ直接決断させた確実な証拠はありません。幕府内部の判断、土佐藩、薩長、朝廷、国際情勢を合わせて見る必要があります。
大政奉還の日に江戸幕府は完全に消えた?
10月15日に政権返上は勅許されましたが、幕府役所は当面実務を続け、慶喜の将軍職も残りました。将軍職と幕府機構の廃止は12月9日の王政復古で宣言されました。
慶喜は平和のためだけに大政奉還した?
内戦回避は重要な要素ですが、徳川家を新しい諸侯会議の中心へ残す政治戦略でもありました。利他的決断か権力維持かの二択では捉えられません。
鳥羽・伏見で慶喜は戦場から逃げた?
本人は大坂城におり、会津・桑名藩主らと軍艦で江戸へ退きました。兵を残した退去が軍を混乱させた事実はありますが、恐怖だけを理由とする本人の確実な記録はなく、朝敵化回避や戦争収拾など複数の説明があります。
錦旗を見ただけで慶喜は戦意を失った?
錦旗は旧幕府軍が朝敵とされる政治的衝撃を与えました。しかし敗退には指揮系統、装備運用、諸藩の離脱、戦況判断が重なっており、一つの旗だけで全過程を説明できません。
江戸城無血開城は慶喜の功績?
恭順方針は前提ですが、具体的な条件交渉は山岡鉄舟、勝海舟、西郷隆盛らが担いました。また上野戦争など江戸周辺の戦闘まで完全になくなったわけではありません。
戊辰戦争の旧幕府軍はすべて慶喜の命令で戦った?
慶喜は恭順し、統一指揮から退きました。彰義隊、奥羽越列藩同盟、榎本艦隊などはそれぞれ異なる目的で抗戦しており、慶喜の直接命令へ一括できません。
晩年の慶喜は政治を何も語らなかった?
公の政治活動からは退きましたが、家族・旧臣との交流や回想の聞き取りはありました。残る証言には後年の編集や記憶も含まれるため、幕末当時の文書と区別して使う必要があります。
READ, THEN WALK
徳川 慶喜の時代を、京都でたどる
京都御所・平安宮跡から二条城、本能寺跡・現在の本能寺、木屋町・高瀬川まで、政治の舞台を一日でつなぎます。
HISTORY MODEL COURSE京都歴史1日モデルコース約8時間/7地点/自主散策・ツアー比較モデルコースを見る →FAMILY TREE
徳川 慶喜の家系図
主要な親子・婚姻・家督関係を抜粋しています。慶喜の後、徳川宗家は田安家出身の家達が継ぎ、1902年に慶喜が立てた徳川慶喜家は七男・慶久が継ぎました。
PLACES
徳川 慶喜の足跡を現地でたどる
元離宮二条城
1867年10月、慶喜が在京諸藩の重臣へ政権返上の意向を示した場所です。二の丸御殿大広間は国宝ですが、後世の『大政奉還』絵画の座り方をそのまま当日の光景とは断定できません。
弘道館
水戸藩校として幼少期の慶喜が学び、1868年には至善堂で謹慎しました。教育の場と敗戦後の恭順が同じ建物に重なります。
大坂城跡
家茂死去後の政局、外国公使との会見、鳥羽・伏見後の江戸退去の舞台です。現在の天守閣は昭和期の復興で、慶喜がいた本丸御殿は現存しません。
東叡山寛永寺・葵の間
鳥羽・伏見後、慶喜が謹慎した部屋が伝わります。葵の間は登録有形文化財ですが通常非公開で、特別参拝の実施時だけ見学できます。
宝台院
水戸から駿府へ移った慶喜が謹慎した徳川家ゆかりの寺院です。静岡での長い後半生の入口となった場所です。
浮月楼庭園
謹慎解除後、旧代官屋敷を住まいとし、約20年間暮らした場所です。建物は火災・戦災で失われましたが、慶喜居住期の配置を受け継ぐ庭園が残ります。
谷中・徳川慶喜家墓所
1913年に亡くなった慶喜が神式で葬られた墓所です。東京都立谷中霊園と寛永寺墓地が入り組む地域にあり、歴代将軍の徳川霊廟とは別です。
RELATED PEOPLE
徳川 慶喜と関わる人々
FAQ
徳川 慶喜についてよくある質問
Q01徳川慶喜は何をした人ですか?
江戸幕府15代将軍として軍制・行政改革を進め、1867年に政権を朝廷へ返す大政奉還を行った人物です。王政復古後は新政府と対立しましたが、鳥羽・伏見敗戦後に恭順し、政治から退きました。
Q02徳川慶喜は何代目の将軍ですか?
江戸幕府の第15代、最後の将軍です。1866年に就任し、翌1867年に大政奉還を上表しました。将軍として江戸城へ入らず、主に京都・大坂で政務を行いました。
Q03徳川慶喜はなぜ大政奉還をしたのですか?
幕府という制度を返上して武力倒幕の理由を弱め、徳川家の領地・軍事力・官僚機構を使って新しい諸侯会議でも主導権を保つためです。内戦回避と徳川家の政治的生存が重なった戦略でした。
Q04大政奉還で江戸幕府はその日に終わりましたか?
政権返上は決定的な転換ですが、幕府役所は当面実務を続け、慶喜の将軍職も残りました。将軍職と幕府機構の廃止は、約2か月後の王政復古で宣言されました。
Q05徳川慶喜はなぜ鳥羽・伏見の戦いから逃げたのですか?
慶喜は戦場ではなく大坂城におり、敗報と朝敵化の危機の中で会津・桑名藩主らと江戸へ退きました。朝廷への敵対回避や戦争収拾などの説明がありますが、本人の意図を一つに断定できません。兵を残した退去が軍を混乱させた責任はあります。
Q06徳川慶喜が江戸城無血開城を決めたのですか?
慶喜の恭順方針は重要な前提ですが、具体的な交渉は山岡鉄舟、勝海舟、西郷隆盛らが担いました。慶喜一人の決断だけで成立したわけではありません。
Q07徳川慶喜は戊辰戦争を指揮しましたか?
鳥羽・伏見後は恭順し、旧幕府勢力の統一指揮から退きました。彰義隊、東北諸藩、榎本武揚らの抗戦は続きましたが、それぞれの目的があり、すべて慶喜の命令ではありません。
Q08徳川慶喜の読み方は?
『とくがわ よしのぶ』です。音読みの『けいき』を使った『慶喜公(けいきこう)』という呼び方も広く使われています。
Q09徳川慶喜は明治時代に何をしていましたか?
静岡で約30年にわたり政治から距離を置き、写真、狩猟、油絵、自転車など多くの趣味に取り組みました。1897年に東京へ移り、1902年に公爵となりました。
Q10徳川慶喜の墓はどこですか?
東京・谷中の徳川慶喜家墓所です。歴代将軍の多くが葬られた増上寺・寛永寺の徳川霊廟とは異なり、神式の墓所となっています。
SOURCES



