明治時代 / 慶応4年
慶応4年
五箇条の御誓文
明治天皇が神前で誓う形式で新政府の基本方針を示した。公議、上下の協力、旧来の悪習打破、海外知識の摂取などを掲げた。
近代憲法や国民への直接の権利宣言ではない。新政府が諸侯・官人をまとめ、開かれた政策方針を示す政治文書として後の改革を正当化した。
- 場所
- 山城国・京都御所
- 天皇
- 明治天皇第122代天皇
- 関係人物
- 3名

OVERVIEW
五箇条の御誓文を4段階で理解する
新政府は内戦の最中に、何を目指す政権か示す必要があった
王政復古で旧制度を廃しても、新政府の組織と政策は未確定でした。諸藩の支持をつなぎ、外国にも新政権の継続性を示す基本方針が求められました。
参与の由利公正・福岡孝弟らの案を木戸孝允が修正した
公議世論の尊重、身分を越えた協力、知識の海外への追求など、諸案を調整して五か条にまとめました。天皇が公家・諸侯を率いて神前で誓う形式が採られました。
京都御所の紫宸殿で、天皇が新政府の方針を誓った
1868年3月14日、天神地祇へ誓う儀式が行われ、三条実美が文を読み上げました。翌日には民衆統制を示す五榜の掲示も出され、開明性と統制が並存しました。
公議・開国・改革の理念として繰り返し参照された
廃藩置県、教育・産業政策、議会開設要求など異なる立場が御誓文を根拠にしました。ただし直ちに身分差や言論統制がなくなったわけではありません。
DEEP DIVE
御誓文は、日本初の憲法だったのか。
憲法ではありません。国家機関の権限や国民の権利を定める法ではなく、新政府が政治の方向を示した基本方針です。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
政権の正統化
成立直後の政府が諸藩へ共通方針を示す必要がありました。
公議の思想
諸侯会議や広い議論を重視する幕末の政治論を引き継ぎました。
開国への転換
攘夷を離れ、海外の知識を学ぶ方針を明確にしました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
鳥羽・伏見の戦い
新政府と旧幕府の内戦が始まりました。
御誓文宣布
紫宸殿で誓約の儀式を行いました。
五榜の掲示
民衆向けの禁止事項を掲示しました。
政体書へ
新政府の官制整備が進みました。
KEY PEOPLE
五箇条の御誓文を動かした人物
RELATIONSHIP
五箇条の御誓文 人物相関図
草案作成と宣布を担った新政府中枢の関係を整理します。
明治天皇神前で誓う
岩倉 具視新政府の公家指導者
木戸 孝允草案を修正明治天皇宣布と起草木戸 孝允木戸らの案を天皇の誓約として発表
岩倉 具視新政府木戸 孝允公家と藩士が政権を構成
QUESTIONS
よくある疑問
『万機公論』は民主主義を意味したか
広い合議を掲げましたが、普通選挙や議会制度が直ちに約束されたわけではありません。
なぜ翌日に五榜の掲示が出たのか
新理念を示す一方で、キリスト教・徒党・逃散などへの従来型統制も維持したからです。
IMPACT
その後、何が変わったか
改革の根拠
新政府が旧制度を改める理念的根拠になりました。
海外知識の重視
留学・使節・技術導入を正当化しました。
公議をめぐる議論
自由民権派も御誓文を国会開設要求の根拠に用いました。
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