明治時代 / 明治6年
明治6年
明治六年政変
朝鮮への使節派遣をめぐる政府内対立で、西郷隆盛・板垣退助ら参議が辞職。大久保利通を中心とする内政優先の政権へ移った。
単純な『征韓派対平和派』ではない。西郷を使節として派遣する手順、武力衝突の危険、留守政府の政策、国内改革の優先順位が重なった政変だった。
- 場所
- 東京府・皇居
- 天皇
- 明治天皇第122代天皇
- 関係人物
- 5名

OVERVIEW
明治六年政変を4段階で理解する
岩倉使節団の外遊中、留守政府は徴兵・地租・学制などを急速に進めた
帰国した岩倉・大久保らは財政負担と国内の混乱を見て、改革の整理を優先しようとしました。留守政府との人事・政策上の摩擦が強まっていました。
国交問題を解くため西郷を朝鮮へ派遣する案が、武力衝突の危険を含んだ
西郷は自ら使節となることを主張し、板垣らは強硬策を支持。岩倉・大久保は使節派遣が戦争へ進む可能性と、国内整備の遅れを懸念しました。
一度決まった派遣方針が天皇裁可の過程で覆り、参議らが一斉に辞職した
岩倉が太政大臣代理として派遣延期を上奏し、明治天皇が裁可。西郷、板垣、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らが政府を去りました。
大久保中心の政府が内務省を軸に改革を進め、下野組は反乱と民権運動へ分かれた
板垣は民撰議院設立建白書と自由民権運動へ、江藤は佐賀の乱、西郷は西南戦争へ向かいました。政府内の権力構成も大きく変わりました。
DEEP DIVE
明治六年政変は、西郷が朝鮮征服を主張して敗れた事件なのか。
それだけでは説明できません。西郷の使節案が戦争を誘発するか、閣議決定をどう裁可するか、外遊組と留守政府の主導権をどう調整するかが絡みました。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
日朝関係
国書の書式と外交関係をめぐり交渉が停滞していました。
使節団の帰国
海外視察組は国力差を見て国内整備を重視しました。
留守政府の改革
外遊中の急速な制度改革と人事が帰国組との対立を生みました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
西郷使節案
参議の間で朝鮮派遣を議論しました。
派遣を閣議決定
岩倉帰国後に最終裁可するとしました。
派遣延期を裁可
岩倉の上奏が採用されました。
参議が辞職
政府外の政治運動と反乱へ分岐しました。
KEY PEOPLE
明治六年政変を動かした人物
RELATIONSHIP
明治六年政変 人物相関図
朝鮮使節派遣をめぐる政府内の二つの判断を整理します。
西郷 隆盛自ら使節を希望
板垣 退助強硬論から下野
岩倉 具視延期を上奏
大久保 利通内治優先を主張
明治天皇延期を裁可西郷 隆盛政策対立大久保 利通朝鮮使節派遣と国内整備の優先順位
岩倉 具視延期派大久保 利通帰国後に派遣延期で連携
明治天皇上奏と裁可岩倉 具視岩倉案を天皇が裁可
QUESTIONS
よくある疑問
西郷は死ぬために使節を望んだのか
書簡から自己犠牲的な表現は読めますが、外交方針と政治戦略を含むため動機を一つに断定できません。
天皇が独自に政策を覆したのか
岩倉と大久保ら政府指導者の上奏・調整を経た裁可で、天皇個人だけの判断としては捉えられません。
IMPACT
その後、何が変わったか
大久保政権
内務省を軸に殖産興業と治安政策が進みました。
自由民権運動
板垣らが政府外から国会開設を求めました。
士族反乱
佐賀の乱から西南戦争へ不満が噴出しました。
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