
PERSONAL FILE / 政治家
おおくぼ としみち大久保 利通
制度改革と殖産興業を進めた明治政府の中心人物薩摩藩士。王政復古の政変で新政府樹立に関わり、版籍奉還・廃藩置県など中央集権化を推進した。岩倉使節団の副使を務め、帰国後は内務卿として殖産興業を進めた。
- 生没年
- 1830—1878
- 主な所属
- 薩摩藩・明治政府
- 関わった出来事
- 6件
QUICK GUIDE
まず3分でわかる、大久保 利通
藩を廃し、中央政府を動かす制度を作った
薩摩藩の政治家として王政復古を進め、明治政府では版籍奉還・廃藩置県に関与しました。欧米視察後は内務卿となり、地方行政、警察、殖産興業、地租改正などを政府中枢から進めました。
1873年、西郷の朝鮮使節案に反対した
岩倉使節団から帰国すると、国力と制度の整備を優先し、西郷隆盛らが支持した朝鮮使節派遣の延期を主張しました。西郷らの辞職後、大久保を中心とする政権が形づくられます。
『近代化の英雄』と『独裁者』の一語では足りない
行政と産業の基盤を急速に整えた一方、反乱の武力鎮圧、台湾出兵、強い官僚統制も担いました。大久保一人が明治国家を設計したわけでも、すべてを単独決定したわけでもありません。
LIFE TIMELINE
大久保 利通の生涯年表
鹿児島城下に生まれる
旧暦の天保元年8月10日、薩摩藩士・大久保利世の長男として生まれた。幼名は正袈裟、のち正助・一蔵と称し、号を甲東とした。
藩の書役となり、父の処分で一時失職
記録所書役助として藩務に入ったが、1850年の嘉永朋党事件で父が処分されると職を失った。1853年に復職し、藩政中枢へ進む足場を取り戻した。
島津久光の側近となる
小納戸役、御側役へ進み、久光の率兵上京と公武合体政策を支えた。幕府を直ちに倒す立場ではなく、朝廷・幕府・有力藩の再編を模索した。
薩長同盟の形成に関わる
西郷隆盛、小松帯刀らと長州との提携を進めた。禁門の変で敵対した両藩が、幕府の長州再征に対抗する協力関係へ転じた。
王政復古と新政府樹立を進める
岩倉具視らと王政復古の政変を準備し、参与として新政府に入った。徳川慶喜の政権返上だけでは残る政治・軍事力を処理できず、戊辰戦争へ進んだ。
版籍奉還から廃藩置県へ
参議、大蔵卿として木戸孝允らと中央集権化を進めた。版籍奉還で旧藩主を知藩事とした後、1871年の廃藩置県で藩を府県へ置き換えた。
岩倉使節団の副使として欧米を巡る
条約改正交渉と制度・産業の視察に参加した。早期の条約改正は実現せず、帰国後は欧米で見た行政・産業基盤を国内で整える方針を強めた。
明治六年政変後、内務卿となる
朝鮮使節派遣の延期を主張し、西郷隆盛・板垣退助らが辞職した後に参議兼内務卿へ就任した。新設の内務省へ地方行政、警察、産業政策などを集めた。
反乱鎮圧、台湾問題、大阪会議に対応
佐賀の乱の鎮圧を現地で指揮し、台湾出兵後は清国との交渉を担当した。1875年には木戸孝允・板垣退助と大阪会議を行い、漸進的な立憲政体へ合意した。
西南戦争で政府側の中枢を担う
鹿児島から進軍した西郷らを政府に対する反乱として扱い、軍事・警察・財政の動員を支えた。盟友だった二人は、近代国家の秩序をめぐり敵味方に分かれた。
紀尾井坂付近で暗殺される
赤坂仮皇居へ向かう途中、島田一郎ら石川県士族6人に襲撃され死亡した。現場近くの清水谷公園には後に哀悼碑が設けられた。
BIOGRAPHY
大久保 利通は、どんな生涯を送ったか
下加治屋町の藩士から、島津久光の政治担当へ
大久保利通は1830年、鹿児島城下に生まれました。西郷隆盛より約2歳年下で、両家は同じ下加治屋町周辺に暮らしていました。大久保は1846年に記録所書役助となり、文書と行政の実務から藩士としての経歴を始めます。
1850年、藩主後継をめぐる嘉永朋党事件で父・利世が処分され、大久保も職を失いました。島津斉彬の藩主就任後に復職し、若手藩士の集まりを通じて藩政改革を求めます。ただし、西郷が斉彬に直接登用されたのに対し、大久保が本格的に藩中枢へ入るのは島津久光の側近となってからでした。
公武合体から倒幕へ――最初から一直線ではない
1861年以後、大久保は島津久光の小納戸役・御側役となり、朝廷と幕府を有力藩が仲介する公武合体政策を支えました。1862年の久光の率兵上京と幕政改革要求は、幕府の枠内で政治の主導権を組み替えようとするものでした。
しかし、長州再征と幕府の軍事的弱体化が進むと、薩摩藩の方針は変化します。大久保は西郷隆盛、小松帯刀らと長州との提携を進め、1867年には岩倉具視らと王政復古を準備しました。後世の倒幕という結末から、初期の公武合体を単なる偽装と決めつけないことが重要です。
王政復古――政権返上後も残る徳川の実力を排除する
徳川慶喜が大政奉還を上表しても、徳川家の領地・軍事力・官僚組織は残りました。大久保と岩倉らは1867年12月の王政復古で幕府と将軍職の廃止を宣言し、天皇を中心とする新政府を作ります。小御所会議では慶喜の官位と領地の扱いが争点となりました。
大久保は新政府の成立を進めた中心人物ですが、政治過程は彼一人の計画ではありません。岩倉具視、西郷隆盛、木戸孝允、各藩の代表、朝廷、そして徳川側の判断が重なりました。政変で解決しなかった軍事・領地問題は鳥羽・伏見から戊辰戦争へ続きます。
版籍奉還と廃藩置県――藩の連合から中央政府へ
新政府は成立直後、各藩が別々に軍隊・財政・領地を持つ構造の上にありました。1869年の版籍奉還では薩摩・長州・土佐・肥前の藩主が先行して土地と人民の返上を申し出、旧藩主は知藩事に任命されます。主権の名目を中央へ移しましたが、旧藩の行政はまだ残りました。
1871年の廃藩置県は知藩事を免じ、藩を府県へ置き換えました。大久保と木戸らは制度設計を進め、西郷は御親兵という軍事的な条件を支えました。大久保だけの改革でも、西郷と対立する前から別々の道だったわけでもありません。二人は旧大名支配を解体する同じ政府の当事者でした。
岩倉使節団――条約改正の失敗と国家比較の経験
1871年12月、大久保は岩倉具視を大使とする使節団の副使として横浜を出発しました。米国で条約改正交渉を始めようとしましたが、権限を示す委任状の不足が判明し、大久保と伊藤博文が一時帰国します。委任状を得ても交渉は進まず、不平等条約の早期改正は実現しませんでした。
一方、使節団は米国・英国・ドイツなどの政治、工場、交通、教育を比較しました。大久保は単に西洋を称賛したのではなく、産業と行政を支える制度・資本・技術の差を見ます。帰国後の政策は欧米の一国を丸ごと模倣するより、日本の中央政府が利用できる仕組みを選び取る方向へ進みました。
明治六年政変――西郷との別れを『征韓か平和か』に縮めない
使節団帰国時、留守政府では朝鮮との国交問題が争われていました。西郷は自ら使節として赴く案を主張しましたが、大久保は財政と軍事の負担、国内制度の未整備を理由に派遣延期へ動きます。岩倉具視の上奏が裁可され、西郷、板垣退助、副島種臣らが辞職しました。
大久保を平和主義者、西郷を即時侵略論者とだけ描くのは不正確です。西郷案は使節派遣でしたが開戦につながる危険な想定を含み、大久保は内治優先を主張しながら翌1874年の台湾出兵を止めませんでした。争点は外交の方法だけでなく、帰国組と留守政府の主導権、国家資源の優先順位にもありました。
内務卿の権力――殖産興業と警察・地方統治を一つに集める
1873年11月に内務省が設置され、大久保は内務卿となりました。初期の内務省は地方行政、警察、勧農、産業振興、土木など広い分野を扱います。府県を中央政府の行政へ組み込み、道路・港・工場・博覧会・農業振興を進める装置でした。
その力は近代化を速める一方、中央の官僚と警察が地域社会を管理する力も強めました。地租改正は土地所有と金納税を全国制度へ変え、安定財源を目指しましたが、地域によっては負担増や反対一揆を生みます。成果だけでなく、誰が費用と統制を引き受けたかを見る必要があります。
佐賀・台湾・大阪会議――強権と合議の両方を使う
1874年の佐賀の乱では、大久保は内務卿として現地に入り、政府軍の反撃と事後処分を指揮しました。江藤新平ら13人が死刑となった迅速で厳しい処分は、反乱を許さない政府の姿勢を示します。同年の台湾出兵後には全権弁理大臣として清国へ渡り、撤兵と賠償をめぐる交渉をまとめました。
一方、政府内の孤立が深まると、大久保は1875年の大阪会議で木戸孝允・板垣退助と協議し、元老院・大審院・地方官会議を設けて漸進的に立憲政体へ進む合意を作りました。大久保の政治は命令だけではなく、必要に応じて対立者を政府へ戻す交渉も用いています。
西南戦争と紀尾井坂――国家の秩序を守った者への報復
1877年、西郷隆盛を擁する鹿児島私学校勢力が進軍すると、大久保は政府側の中枢で対応しました。山県有朋らが軍事を担い、内務省の警察・地方行政と政府財政が戦争を支えます。大久保の日記は西郷軍を『鹿児島暴徒』として記し、かつての盟友を政府秩序への反乱として扱いました。
翌1878年5月14日、大久保は赤坂仮皇居へ向かう途中、紀尾井坂近くの清水谷で島田一郎ら6人に襲われ、47歳で亡くなりました。襲撃者は政府の専制や士族処分などを批判しましたが、政治的不満は暗殺を正当化しません。死後、大久保は近代国家の設計者、冷徹な権力者、西郷の敵という複数の記憶で語られ続けています。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
大久保利通の肖像写真
1878年以前
大久保本人を撮影した複数の肖像写真が残り、髭をたくわえた広く知られる姿を確認できます。本人写真が確認されない西郷隆盛とは史料の性格が異なります。
大久保利通関係文書
幕末—1878年
長州再征、明治初年の意見書、台湾出兵・対清交渉、佐賀事件、西南事件などに関わる文書群です。国立国会図書館は原資料425点を所蔵しています。
地租改正各県景況
明治前期
内務省罫紙に記された各県の地租改正状況です。大久保が地租改正事務局総裁として、全国の実施状況を把握する行政の現場を示します。
台湾出兵賠償金ニ関スル意見書
1874年12月15日
大久保が三条実美へ宛てた台湾出兵後の賠償金に関する意見書です。内治優先の政治家が、対外出兵の事後処理も担ったことを原資料から確認できます。
大久保利通日記
1927年刊
安政6年から明治10年までの日記を収めた刊本で、政策判断と日々の政務を追う基本史料です。
大久保公哀悼碑
1888年建立
暗殺現場近くの清水谷公園に建てられた碑です。事件そのものの当時資料ではなく、死後に大久保を顕彰した東京の記憶を示します。
HISTORICAL ROLE
大久保 利通は、その時何をしたか
薩長同盟
西郷隆盛・小松帯刀らと長州との協力を進め、幕府の長州再征に対抗する政治・軍事連合の形成を支えた。
版籍奉還
木戸孝允らと有力藩の返上建白を進め、旧藩主を知藩事とする移行制度を作った。
廃藩置県
木戸孝允らと中央集権化を進め、西郷隆盛らが支えた御親兵を背景に知藩事を免じ、旧藩主を地方統治から切り離した。
岩倉使節団
条約改正交渉と産業・行政制度の視察を担い、帰国後は内務卿として殖産興業を進めた。
明治六年政変
岩倉具視と連携して朝鮮使節の延期を進め、西郷隆盛らの下野後は政府中枢を担った。
西南戦争
内務卿として軍事・警察・財政の動員を支えた。かつての盟友西郷が率いる勢力と政府が戦うことになった。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
藩の集合を中央政府へ組み替えた
版籍奉還・廃藩置県を木戸孝允、西郷隆盛、岩倉具視らと進め、政府が全国の地方行政を動かす前提を作りました。
政策を実施する内務行政を集中した
産業振興、地方行政、警察、土木などを内務省へ集め、理念を全国政策へ変える官僚機構を強化しました。
欧米視察と対清交渉を政策へ結びつけた
岩倉使節団で制度を比較し、台湾問題では清国との交渉を担当しました。内治優先でも対外軍事行動を否定しなかった矛盾を含みます。
反対を武力と強い統制で抑えた
佐賀の乱と西南戦争の鎮圧、警察・地方統治の集中を担いました。国家統一の成果と、反対者・地域社会に課した犠牲を同時に評価する必要があります。
西郷の敵役だけでは見えない制度政治家
二人は維新と廃藩置県まで協働し、1873年以後に分かれました。友情の破局だけでなく、どの国家制度をどの速度で作るかという政策対立として読む人物です。
RELATIONSHIPS
大久保 利通を取り巻く人と組織
西郷隆盛人物詳細 →
薩長提携、王政復古、廃藩置県をともに進めたが、1873年の朝鮮使節案で分裂し、西南戦争では政府側と薩軍側に分かれた。
注:個人的な愛憎だけで政府分裂と内戦を説明しない。島津久光
大久保を小納戸役・御側役に登用し、公武合体と率兵上京を進めた。維新後は急進的改革への不満を強めた。
岩倉具視人物詳細 →
王政復古を準備し、岩倉使節団では大使と副使、1873年には朝鮮使節延期を進める関係となった。
木戸孝允人物詳細 →
版籍奉還・廃藩置県で協働しながら政策や権力集中をめぐって対立し、1875年の大阪会議で再び合意した。
明治天皇人物詳細 →
大久保は参与・参議・大蔵卿・内務卿として仕え、王政復古後の政策を天皇の裁可を受ける国家制度へ組み込んだ。
伊藤博文人物詳細 →
米国で条約交渉の委任状を得るため大久保と一時帰国し、のちに内務行政・憲法制定を担う指導者へ進んだ。
大隈重信人物詳細 →
地租改正や近代財政を支え、内務省と大蔵省が進める国家事業の財政面を担った。
板垣退助人物詳細 →
朝鮮使節派遣をめぐり政府を去った後、民撰議院設立建白を提出。1875年に大久保・木戸と立憲政体への段階的移行で合意した。
江藤新平
明治六年政変で下野後に佐賀で反政府勢力の中心となり、大久保が現地で鎮圧・処分を指揮した。
島田一郎ら6人
政府の専制や士族政策などを批判して大久保を暗殺した。政治的主張と暴力行為は分けて扱う必要がある。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
大久保利通は『維新の三傑』の一人?
西郷隆盛・木戸孝允と並べる後世の総称です。当時の正式な官職名ではなく、三人だけで明治維新を成し遂げたという意味でもありません。
大久保と西郷は最初から正反対だった?
二人は薩長提携、王政復古、廃藩置県まで協働しました。決定的な政治上の分裂は1873年で、幼なじみ対決という物語だけでは政策と制度の違いが見えません。
大久保が西郷を西南戦争へ追い込んだ?
士族処分、私学校勢力、政府による武器移送、学生の襲撃など複数の要因があります。大久保の中央集権政策は背景の一つですが、一人の陰謀として説明できません。
征韓論を退けた大久保は反戦主義者?
1873年には国内整備を優先して朝鮮使節派遣に反対しましたが、1874年の台湾出兵を政府中枢で担い、清国との事後交渉にも赴きました。個別の時期と政策で判断する必要があります。
大久保一人が廃藩置県を作った?
木戸孝允らの制度構想、西郷隆盛らが支えた御親兵、岩倉具視を含む政府首脳、有力藩の協力が必要でした。大久保は中心人物ですが単独の発案・実行ではありません。
大久保は日本最初の独裁者だった?
内務卿として強大な行政権を持ちましたが、当時は太政官制で、三条実美・岩倉具視・木戸孝允・各省の政治家との合議と対立がありました。権力集中の実態を示す表現としても、単独支配と同一視できません。
大久保は西郷の暗殺を命じた?
西郷は1877年の城山戦で政府軍の攻撃を受けて死亡しましたが、大久保が個人的に暗殺を命じたとする確かな史料は確認できません。政府による反乱鎮圧と個人的暗殺説を分けます。
紀尾井坂の変は紀尾井坂の坂上で起きた?
一般に紀尾井坂の変と呼ばれますが、千代田区は清水谷前の道で起きたと案内しています。現在の坂名と事件名だけで一点を断定せず、清水谷公園の哀悼碑を現地の手掛かりにします。
READ, THEN WALK
大久保 利通の時代を、明治東京でたどる
皇居外苑、法務省旧本館、国会前庭・国会議事堂、上野公園を巡り、近代国家の制度と内戦の記憶を一日でつなぎます。
HISTORY MODEL COURSE明治東京歴史1日モデルコース約7時間/5地点/自主散策・ツアー比較モデルコースを見る →FAMILY TREE
大久保 利通の家系図
主要な直系・婚姻関係を抜粋しています。明治政府では身分制再編と行政機構づくりに関わりました。
PLACES
大久保 利通の足跡を現地でたどる
大久保利通誕生地・生い立ちの地
鹿児島市加治屋町周辺に誕生地と生い立ちの地の碑があります。西郷隆盛ら同じ地域の若者が薩摩藩政から全国政治へ進んだ環境をたどれます。
大久保利通銅像
高見橋近くに立つ大久保の銅像です。西郷像とは別の場所にあること自体が、鹿児島での二人の記憶のされ方を考える入口になります。
清水谷公園・大久保公哀悼碑
1878年に大久保が襲撃された清水谷前の道に近く、園内に哀悼碑があります。事件名の『紀尾井坂』と実際の地形を現地で確かめられます。
旧江戸城・皇居周辺
王政復古後、東京へ移った政府が政治を行った中心です。明治東京歴史ガイドでは皇居外苑、法務省旧本館、国会前庭などを歩き、中央集権と制度形成をたどれます。
青山霊園・大久保利通墓所
暗殺後に葬られた大久保の墓所です。参拝時は霊園の開園情報と現地案内を確認し、他の墓所を含む静かな環境に配慮します。
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大久保 利通と関わる人々
FAQ
大久保 利通についてよくある質問
Q01大久保利通は何をした人ですか?
薩摩藩の政治家として王政復古を進め、明治政府では版籍奉還・廃藩置県に関わりました。岩倉使節団帰国後は内務卿として地方行政、警察、殖産興業、地租改正などを推進し、中央集権国家の基盤を作りました。
Q02大久保利通と西郷隆盛はどんな関係でしたか?
鹿児島城下で育った同郷の盟友で、薩長提携、王政復古、廃藩置県をともに進めました。1873年の朝鮮使節派遣をめぐって分裂し、1877年の西南戦争では大久保が政府側、西郷が薩軍側となりました。
Q03大久保利通はなぜ征韓論に反対したのですか?
岩倉使節団から帰国した大久保は、財政・軍事・産業など国内制度の整備を先に進めるべきだと考え、西郷の朝鮮使節派遣案の延期を主張しました。ただし翌年の台湾出兵には関与しており、単純な反戦論ではありません。
Q04大久保利通は明治政府でどんな改革をしましたか?
版籍奉還・廃藩置県による中央集権化に関わり、内務卿として地方行政、警察、勧農、殖産興業、土木などを統括しました。地租改正事務局総裁として全国の税制転換にも関与しました。
Q05岩倉使節団で大久保利通は何をしましたか?
特命全権副使として欧米を訪れ、条約改正交渉と制度・産業の調査を行いました。条約改正は実現しませんでしたが、工場・行政・教育などの比較経験を帰国後の内政へ生かしました。
Q06大久保利通は独裁者だったのですか?
内務卿として強い権力を持ち、警察・地方行政・産業政策を集中しました。一方、太政官制のもとで三条実美、岩倉具視、木戸孝允らとの合議や対立があり、大久保一人の単独支配とするのは正確ではありません。
Q07大久保利通はなぜ暗殺されたのですか?
1878年5月14日、政府の専制や士族政策などに反発した島田一郎ら石川県士族6人に、赤坂仮皇居へ向かう途中で襲撃されました。事件は紀尾井坂の変と呼ばれます。
Q08大久保利通の本物の写真はありますか?
あります。国立国会図書館の『近代日本人の肖像』には本人を撮影した複数の肖像写真が掲載されています。本人写真が確認されていない西郷隆盛の肖像とは区別できます。
SOURCES



