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坂本 龍馬の肖像
肖像の出典 ↗Public Domain

PERSONAL FILE / 政治家

さかもと りょうま

坂本 龍馬

薩長間を仲介し新政権構想を示した土佐藩出身者

土佐藩を脱藩し、勝海舟のもとで海軍を学んだ。長崎で亀山社中・海援隊を率い、薩摩と長州の接近を仲介。大政奉還後まもなく京都で暗殺された。

生没年
1836—1867
主な所属
土佐藩・海援隊
関わった出来事
2件

QUICK GUIDE

まず3分でわかる、坂本 龍馬

WHAT

藩を越えて人・武器・情報をつないだ

土佐を脱藩後、勝海舟から海軍を学び、長崎の亀山社中・海援隊で交易と政治活動を結びつけました。

POLITICS

薩長の交渉と大政奉還構想に関与

薩摩と長州の会談を仲介し、後藤象二郎らと幕府が政権を朝廷へ返す構想を進めました。

CAUTION

明治維新を一人で起こしたのではない

西郷隆盛、木戸孝允、小松帯刀、後藤象二郎、中岡慎太郎ら多数の行動が重なった政治変動です。龍馬の役割を過大にも過小にも扱いません。

LIFE TIMELINE

坂本 龍馬の生涯年表

  1. 土佐藩の郷士・坂本家に生まれる

    旧暦では天保6年11月15日。高知城下で育った。

  2. 江戸で剣術修行

    黒船来航の年に江戸へ出て、千葉定吉の道場で学んだ。

  3. 土佐藩を脱藩

    藩の許可なく国を出て、各地の志士や幕臣との接点を広げた。

  4. 勝海舟のもとで海軍を学び、亀山社中を組織

    神戸海軍操練所に関わり、閉鎖後は長崎で交易組織をつくった。

  5. 薩長同盟の成立に関与

    西郷隆盛ら薩摩側と木戸孝允ら長州側の会談を仲介し、合意を保証した。

  6. 海援隊・船中八策・大政奉還

    交易組織を海援隊とし、後藤象二郎と新政権構想を練った。

  7. 京都・近江屋で暗殺

    中岡慎太郎と襲撃され、大政奉還の約1か月後に亡くなった。

BIOGRAPHY

坂本 龍馬は、どんな生涯を送ったか

01

土佐藩士から脱藩者へ

龍馬は土佐藩の郷士の家に生まれ、江戸で剣術を学びました。黒船来航と条約締結で政治が揺れる中、土佐勤王党に参加しますが、1862年に脱藩します。

脱藩は自由な全国活動を可能にする一方、藩の保護を失う危険な行為でした。龍馬は長州・薩摩の志士だけでなく、幕府軍艦奉行の勝海舟とも結びつき、攘夷一辺倒から海軍・交易を重視する方向へ進みます。

02

亀山社中と薩長同盟

神戸海軍操練所が閉鎖されると、龍馬らは長崎で亀山社中を組織しました。薩摩藩の支援を受け、交易と航海を行い、長州の武器調達にも関わります。

薩摩と長州は京都政局をめぐって深く対立していました。龍馬と中岡慎太郎らは両者の接触を支え、1866年の会談後、木戸孝允が確認を求めた合意内容に龍馬が朱書で保証を加えました。

03

政権を返し、新しい仕組みをつくる構想

1867年、亀山社中は土佐藩の外郭組織・海援隊となりました。龍馬は後藤象二郎と協議し、幕府が政権を朝廷へ返したうえで、公議による新政府をつくる構想をまとめます。

いわゆる船中八策の原本は現存せず、後に書かれた新政府綱領八策などから内容が知られます。大政奉還は山内容堂、後藤象二郎、徳川慶喜ら複数の政治判断で実現したもので、龍馬一人の発明ではありません。

04

近江屋で途切れた次の構想

大政奉還後も、龍馬は新政府の人事、海軍、蝦夷地開発などを考えていました。しかし1867年11月、京都の醤油商・近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃されます。

実行者は京都見廻組だったとする説が有力ですが、事件の指示系統まで含めて完全には解明されていません。死後、自由に藩を越えた人物像が広く支持され、国民的英雄となりました。

HISTORICAL ROLE

坂本 龍馬は、その時何をしたか

ACHIEVEMENTS & LIMITS

何を成し遂げ、何が分からないか

ACHIEVEMENT

対立する組織の間を動く仲介者だった

藩の公式代表だけでは難しい接触を支え、人物・物資・情報をつなぎました。

VISION

海軍・交易と政治改革を一体で考えた

外国と向き合うには、武力だけでなく航海、商業、公議による新政府が必要だと考えました。

LIMIT

英雄化で他の関係者が見えにくくなった

薩長同盟も大政奉還も多数の人物と藩の交渉で成立しました。龍馬一人の功績に集約しないことが重要です。

RELATIONSHIPS

坂本 龍馬を取り巻く人と組織

師・海軍構想の指導者

勝海舟

幕臣でありながら龍馬を受け入れ、神戸海軍操練所で学ぶ機会を与えた。

大政奉還構想の協議相手

後藤象二郎

土佐藩の政治路線として政権返上案を山内容堂へ進言した。

盟友・同じ事件の被害者

中岡慎太郎

薩長接近を進め、近江屋で龍馬とともに襲撃された。

MYTHS & UNCERTAINTIES

伝承と史実を分けて見る

?

龍馬が薩長同盟を一人で成立させた?

会談の仲介と合意の保証で重要な役割を果たしましたが、小松帯刀、西郷隆盛、木戸孝允、中岡慎太郎ら多数の交渉が前提でした。

?

船中八策の原本はある?

龍馬自身が船上で書いた八項目の原本は確認されていません。内容は新政府綱領八策など関連史料から再構成されます。

?

龍馬は大政奉還を考案した?

政権返上論や公議政体論は幕臣・諸藩にも存在しました。龍馬は後藤象二郎らと構想を具体化し、政治ルートへ乗せた一人です。

?

暗殺犯は誰?

京都見廻組の関与が有力視されますが、誰が命令したかを含め異説があり、事件の全体像は確定していません。

READ, THEN WALK

坂本 龍馬の時代を、京都でたどる

京都御所・平安宮跡から二条城、本能寺跡・現在の本能寺、木屋町・高瀬川まで、政治の舞台を一日でつなぎます。

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FAMILY TREE

坂本 龍馬の家系図

父坂本 八平
姉坂本 乙女
本人坂本 龍馬
妻楢崎 龍

龍馬の活動に関わる主要家族を抜粋。直系の子はいません。

PLACES

坂本 龍馬の足跡を現地でたどる

生誕地

坂本龍馬誕生地

高知市上町に碑が立ち、周辺に龍馬の生まれ育った町の史跡が残る。

交易と政治活動の拠点

長崎・亀山社中跡

日本最初の商社とも呼ばれるが、実態は航海・交易・政治を行う結社だった。

襲撃事件の舞台

京都・寺田屋

1866年、伏見奉行所の捕方に襲撃され、龍馬が負傷した。現在の建物と事件当時の建物の関係には議論がある。

暗殺の現場

近江屋跡

京都市中京区河原町通蛸薬師付近。現在は碑がある。

墓所

京都霊山護国神社

坂本龍馬と中岡慎太郎の墓が並ぶ。

RELATED PEOPLE

FAQ

坂本 龍馬についてよくある質問

Q01坂本龍馬は何をした人ですか?

勝海舟から海軍を学び、亀山社中・海援隊を運営し、薩長の交渉や大政奉還につながる新政権構想に関わった土佐出身の人物です。

Q02坂本龍馬は薩長同盟を作ったのですか?

両藩の会談を仲介し、合意内容を保証する重要な役割を果たしました。ただし同盟は薩摩・長州双方と複数の仲介者による交渉の結果です。

Q03坂本龍馬は海援隊で何をしたのですか?

船を使った交易・輸送、航海人材の育成、政治活動を行いました。藩に属しつつ比較的自由に活動する組織を目指しました。

Q04坂本龍馬を暗殺したのは誰ですか?

京都見廻組の関与が有力とされますが、実行の指示者や背景を含め、すべてが確定したわけではありません。

SOURCES

この記事の主な史料・参考資料