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とくがわ ひでただ徳川 秀忠
徳川の天下を制度へ変えた二代将軍徳川家康の三男。1600年の関ヶ原では東山道軍を率い、上田城攻めなどで本戦に間に合わなかった。1605年に二代将軍となって徳川世襲を示し、大坂の陣後は武家諸法度の公布、大名・朝廷統制、家光への生前継承を進めた。
- 生没年
- 1579—1632
- 主な所属
- 徳川家
- 関わった出来事
- 4件

QUICK GUIDE
まず3分でわかる、徳川 秀忠
徳川の天下を、継続できる制度へ変えた2代将軍
1605年に父・家康から将軍職を継ぎ、徳川家による世襲を早くも示しました。大坂の陣後は武家諸法度などを公布し、大名・朝廷を統制する幕府の枠組みを強めました。
関ケ原の遅参だけで、後継者失格にはならなかった
秀忠軍は上田で真田昌幸らと戦い、本戦に間に合いませんでした。ただし別働軍として東山道沿いを制圧する任務もあり、遅れは上田攻撃、行軍、連絡の遅延が重なった結果です。秀忠は戦前から徳川の有力な後継者でした。
『無能な遅刻将軍』でも『家康の操り人形』でもない
政策の多くは家康、金地院崇伝らとの共同作業で、秀忠一人の創案ではありません。一方、家康死後も大名改易、朝廷政策、家光への継承を進めており、名目的な将軍だけでもありませんでした。
LIFE TIMELINE
徳川 秀忠の生涯年表
浜松で家康の三男として生まれる
徳川家康と西郷局の子として生まれた。浜松城下の下屋敷と城内の二説があり、正確な出生地点は確定していない。
江と結婚する
浅井長政と市の娘で、豊臣秀吉の養女となっていた江と結婚した。のちに家光、忠長、千姫、和子らが生まれ、将軍家と大名・朝廷を結ぶ婚姻網が広がった。
東山道軍を率いて西へ進む
会津の上杉景勝に備えて宇都宮へ入り、その後は中山道方面から西上した。家康本隊とは別の大軍を任されたこと自体が、後継者としての位置を示す。
上田で真田昌幸と戦い、関ケ原本戦に遅れる
小諸を拠点に上田城を攻めたが、真田昌幸・信繁らの抵抗を受けた。撤収と西進、家康からの命令到着も遅れ、9月15日の本戦に間に合わなかった。
戦後の大坂へ入り、徳川政権を支える
関ケ原後に家康と合流し、大坂城二の丸に入った。佐竹義重へ家康の大坂入城を伝える秀忠書状も残り、遅参後に政治の場から排除されたわけではない。
家康が初代将軍となる
家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。秀忠は次代を担う存在として、徳川政権を一代限りで終わらせない役割を負った。
2代将軍に就任する
家康が就任から約2年で将軍職を譲り、秀忠が2代将軍となった。家康は駿府で実権を保ち、江戸の秀忠と二つの政治拠点が並ぶ大御所政治が始まった。
大坂冬の陣・夏の陣を戦う
現職将軍として徳川方の総大将を務めた。夏の陣では岡山口方面に布陣し、大坂城落城と秀頼・淀殿の死によって豊臣宗家が滅亡した。
武家諸法度・禁中並公家諸法度を公布する
大坂の陣後、大名統制の基本法と朝廷・公家の行動規範を相次いで示した。起草や合議には家康、金地院崇伝、公家側も関わり、秀忠は将軍として公布の中心を担った。
家康の死後、将軍として政権を主導する
大御所家康が死去し、秀忠が徳川政権の最高責任者となった。江戸城を中心に大名・幕臣・朝廷への統制を続けた。
福島正則を改易する
広島城の無断修築を理由に福島正則を安芸・備後から移し、領地を大幅に減らした。法令に基づく大名統制を実際の処分で示した事例となった。
娘・和子が後水尾天皇へ入内する
和子の入内によって徳川将軍家と天皇家の婚姻関係が成立した。のちに生まれた興子内親王は明正天皇となる。
本多正純を失脚させる
日光参詣の帰途、宇都宮を治める本多正純を改易した。秀忠暗殺用の釣天井があったという話は、後世に作られた物語である。
家光へ将軍職を譲り、大御所となる
嫡男・家光を3代将軍にし、父と同じように生前継承を行った。秀忠は大御所として政務を続け、完全に引退したわけではない。
孫の明正天皇が即位する
後水尾天皇が譲位し、秀忠の外孫・興子内親王が明正天皇となった。将軍家と朝廷の結びつきが強まる一方、幕府の朝廷統制は緊張も生んだ。
江戸城で死去し、増上寺に葬られる
家光政権を支えたまま死去し、増上寺の台徳院霊廟に葬られた。霊廟の大部分は1945年に焼失したが、惣門などが残る。
BIOGRAPHY
徳川 秀忠は、どんな生涯を送ったか
浜松で生まれた三男――なぜ徳川家の後継者になったのか
徳川秀忠は1579年、徳川家康の三男として浜松で生まれました。母は西郷局です。浜松市の資料では、出生地には浜松城下の下屋敷と浜松城内という二説があり、現在の「秀忠公誕生の井戸」はゆかりの地ではあっても、地点を確定する証拠とはされていません。幼名は長丸、のちに秀忠と名乗ります。
三男が将軍家の後継になった背景には、兄たちの立場がありました。長兄・信康は秀忠が生まれた年に死去し、次兄・秀康は豊臣秀吉の養子を経て結城家を継いでいました。秀忠は家康のもとに残る男子として徳川宗家の継承に近づきます。後世には関ケ原遅参で廃嫡寸前になったという物語も生まれましたが、1600年の一度の失敗だけで、それまでの後継者としての位置が消えたわけではありません。
江との婚姻――将軍家の家族は政治のネットワークだった
1595年、秀忠は江と結婚しました。江は浅井長政と織田信長の妹・市の娘で、姉には淀殿、初がいます。豊臣秀吉の養女として秀忠へ嫁いだ婚姻は、豊臣政権下で徳川家を結ぶ政治的な意味を持ちました。江戸東京博物館の解説によれば、二人の間には2男5女が生まれています。
子どもたちは徳川政権の次代と全国的な婚姻関係を形づくりました。家光は3代将軍、忠長は駿河を治め、千姫は豊臣秀頼、珠姫は前田利常、勝姫は松平忠直、初姫は京極忠高へ嫁ぎました。和子は後水尾天皇へ入内し、明正天皇の母となります。一方、秀忠には静との間に生まれ、保科家で育てられた保科正之もいました。家族関係は私生活だけでなく、幕府・大名・朝廷を結ぶ統治の回路でもありました。
第二次上田合戦――関ケ原に遅れた理由を一つにしない
1600年、家康は上杉景勝に備えて東国へ軍を進めました。石田三成らの挙兵後、家康本隊は東海道、秀忠軍は東山道・中山道方面から西へ向かいます。秀忠は小諸城を拠点に、上田城の真田昌幸・信繁父子と戦いました。上田市の案内では秀忠軍約3万8000、真田方約2500とされ、大軍が数日間足止めされたと説明されます。ただし兵数は史料・研究によって幅があり、そのまま精密な実数とは扱えません。
国立国会図書館のレファレンス調査が示すように、遅参の評価には複数の見方があります。上田攻撃は秀忠の感情的な寄り道だけではなく、東山道沿いの敵対勢力を抑える作戦の一部だった可能性があります。戦闘、撤収判断、行軍速度に加え、家康の西進命令を運ぶ使者が増水などで遅れた事情も重なりました。9月15日の関ケ原本戦に間に合わなかった結果は重大ですが、「真田にだまされた無能な大将」の一言では、任務と連絡の問題が消えてしまいます。
遅参後も後継者――なぜ2代将軍になれたのか
秀忠は関ケ原の決戦に参加できませんでした。しかし、戦後には家康と合流して大坂城二の丸に入りました。岐阜関ケ原古戦場記念館が紹介する10月15日付の佐竹義重宛書状では、秀忠が家康の大坂入城を伝えています。これは、遅参後も外交・政務の一端を担っていたことを示す同時代文書です。
家康が後継を決める際、合戦一回の武名だけが基準だったわけではありません。徳川宗家に残る成人男子としての家格、すでに築かれた家臣団との関係、江との間に生まれた子どもたち、政権を安定して継承する必要がありました。関ケ原での遅参は秀忠の評価に残りましたが、東山道軍を任されたこと自体が、戦前から後継者として重く位置づけられていた証拠でもあります。
1605年の将軍継承――徳川政権は一代限りではないと示す
1603年に家康が初代将軍となってから約2年後、秀忠が2代将軍に就任しました。家康が生きているうちに将軍職を譲ったことで、豊臣秀頼や諸大名に対し、政権が家康個人の軍事的勝利ではなく徳川家に世襲されることを示しました。江戸東京博物館は、この継承が戦国の下克上を否定し、徳川の世襲政権を明確にしたと解説しています。
ただし、将軍になった瞬間に秀忠が全権を握ったわけではありません。家康は駿府に移って大御所として外交、大名配置、朝廷・豊臣家への政策を主導し、秀忠は江戸で幕臣と大名を統率しました。駿府と江戸の二元政治には役割分担と重複があり、史料ごとに誰の命令かを確かめる必要があります。「将軍だからすべて秀忠の政策」「家康が生きていたから秀忠は何もしなかった」のどちらも単純化です。
大坂の陣――現職将軍として豊臣家滅亡の責任を負う
大坂城の豊臣秀頼は、関ケ原後も豊臣秀吉の後継者として大きな権威と財力を持っていました。1611年に家康が二条城で秀頼と会見した後も、徳川と豊臣の政治的位置は解決しません。1614年、方広寺鐘銘事件を契機に対立が決裂し、豊臣方が浪人を集めると、秀忠は現職将軍として大坂へ出陣しました。
冬の陣は講和となりましたが、大坂城の堀が埋められ、翌1615年に再戦します。夏の陣で秀忠は幕府軍総大将として岡山口方面に布陣し、豊臣方の攻撃を受けながら最終的に大坂城を落としました。秀頼と淀殿は自害し、豊臣宗家は滅亡します。作戦では家康の経験と判断が大きくても、秀忠は現職の将軍であり、勝者の功績だけでなく戦争と豊臣家滅亡の政治的責任から外すことはできません。
武家諸法度――秀忠は法を『書いた人』ではなく『公布した将軍』
大坂夏の陣後の1615年7月、秀忠は伏見城に諸大名を集め、13か条の武家諸法度を公布しました。城郭修築や婚姻を幕府の許可・統制の下へ置き、大名に文武、儀礼、秩序を守らせる基本法です。同じ月には二条城で禁中並公家諸法度が定められ、天皇・公家の学問、官位、寺院などを規定しました。
二つの法令を秀忠一人が発案・執筆したわけではありません。国立公文書館の解説では、武家諸法度の草案は家康の命を受けた金地院崇伝が作成し、禁中並公家諸法度には公家側の二条昭実、家康、秀忠が署名しました。秀忠の役割は、共同で整えられた規範を現職将軍として諸大名へ示し、実際の統治へ移すことでした。作者探しより、誰が作り、誰が公布し、誰に適用したかを分ける方が制度の実態が見えます。
家康死後の統治――改易で示した法令の実効性
1616年に家康が死去すると、秀忠は政権の最高責任者となりました。1619年には広島城を幕府の許可なく修築したとして、関ケ原で東軍の先鋒を務めた福島正則を安芸・備後から改易し、信濃の小領へ移します。功臣であっても法と将軍の命令に従わせる姿勢を示した一方、処分の判断には外様大名の力を削る政治性もありました。
1622年には、家康の側近として権勢を持った本多正純を宇都宮から改易しました。のちに「日光参詣から戻る秀忠を釣天井で暗殺しようとした」と語られますが、宇都宮市のデジタルミュージアムは、この筋書きが江戸中期以後の物語・芝居から広まった伝説だと説明しています。実際の失脚は、幕府内の権力関係、所領・城普請をめぐる問題、複数の訴えと処分の過程から考える必要があります。
朝廷との婚姻と統制――和子入内が生んだ結びつきと緊張
秀忠は娘・和子を後水尾天皇へ入内させるため、朝廷との交渉を進めました。入内は一度延期された後、1620年に実現します。和子は中宮となり、1624年に興子内親王を生みました。将軍の娘が天皇の后となり、その子が皇位を継ぐ関係は、徳川家の権威を朝廷と結びつけました。
しかし婚姻は朝廷との対立をなくしません。武家官位、寺院の紫衣、天皇の行動を幕府がどこまで統制するかをめぐり、後水尾天皇側との緊張が続きました。1629年、後水尾天皇は秀忠・家光の幕府に事前承認を得ない形で譲位し、興子内親王が明正天皇となります。秀忠の外孫が即位した事実は徳川の成功に見える一方、婚姻と法による統制が朝廷の自律性と衝突した結果でもありました。
家光への継承と死――三代続いて初めて幕府になる
1623年、秀忠は家光へ将軍職を譲り、大御所となりました。1605年に家康から受けた方法を繰り返し、徳川の将軍職が三代へ続くことを示します。これで後継争いの余地を小さくし、家光のもとで老中を中心とする政治を整える時間を作りました。ただし秀忠は政務を続け、父と同じく将軍と大御所が並ぶ体制を取りました。
1632年、秀忠は江戸城で死去し、増上寺の台徳院霊廟に葬られました。壮大な霊廟は1945年の空襲で大部分を焼失しましたが、惣門などが残り、1910年に作られた精密模型も往時の姿を伝えます。秀忠の歴史的な役割は、関ケ原に遅れた一日より、家康の勝利を世襲、法令、婚姻、大名統制によって三代続く政権へ変えた約30年の方にあります。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
徳川秀忠書状・真田信之宛
1600年8月23日
関ケ原前、秀忠が真田信之へ小県攻撃への参加を命じた書状です。上田攻撃が秀忠の思いつきだけでなく、軍事命令として準備されていたことを示します。
徳川秀忠書状・佐竹義重宛
1600年10月15日
関ケ原後、家康が大坂城へ入ったことを佐竹義重へ伝えた書状です。遅参後も秀忠が政権の連絡・外交に関わっていたことを示します。
武家諸法度
1615年成立・1827年写
大名の規範を定めた元和令を含む法令の写本です。原文の内容を後世へ伝える一方、公開画像は秀忠が大名の前で読ませた原本そのものではありません。
禁中並公家諸法度
1615年成立・江戸時代の伝本
天皇・公家の学問、官位、儀礼などを定めた17か条の法令です。二条昭実、家康、秀忠が連署し、武家政権が朝廷秩序へ関与する根拠となりました。
台徳院殿霊廟模型
1910年
日英博覧会のため、秀忠の台徳院霊廟を10分の1で精密に再現した模型です。戦災で失われた霊廟の彩色・彫刻・配置を立体的に伝えます。
HISTORICAL ROLE
徳川 秀忠は、その時何をしたか
関ヶ原の戦い
中山道方面から西進し、小諸を拠点に上田城の真田昌幸・信繁と戦った。戦闘、撤収、行軍、家康の命令到着の遅れが重なり、9月15日の本戦に間に合わなかった。
江戸幕府の成立
家康から生前に将軍職を継ぎ、政権が家康一代ではなく徳川家に世襲されることを明確にした。家康は駿府の大御所、秀忠は江戸の将軍として政務を分担した。
大坂夏の陣
将軍として大軍を率い、岡山口方面に布陣。豊臣方を破って大坂城を落とし、戦後は武家諸法度などによる大名統制を進めた。
武家諸法度
伏見城に諸大名を集め、13か条の武家諸法度を公布した。草案は家康の命を受けた金地院崇伝が作成し、秀忠は将軍として制度を全国の大名統制へ移した。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
将軍職を二代、三代へつないだ
家康から生前に将軍職を受け、家光へも生前に譲りました。個人の軍事力ではなく徳川家が政権を継ぐことを、二度の継承で既成事実にしました。
共同で作られた法を、将軍の統治へ移した
武家諸法度や禁中並公家諸法度は家康、崇伝、公家側との共同作業です。秀忠は公布と運用を担い、福島正則らへの処分で実効性を示しました。
遅参だけでなく、大坂の陣の指揮と責任を見る
関ケ原本戦には間に合いませんでしたが、大坂の陣では現職将軍・総大将でした。豊臣家滅亡は徳川政権安定の契機であると同時に、秀忠が責任を負う戦争でした。
安定は、大名と朝廷への強い統制を伴った
改易、城郭統制、婚姻統制、朝廷法制によって対抗勢力を抑えました。長期安定の基盤を評価する時も、選択を奪われた大名・朝廷側の視点を外せません。
派手な創業者ではなく、制度化した継承者
家康のような創業の物語や家光の完成期に挟まれ、存在が薄く見えます。しかし勝利を世襲政権へ変える中継点がなければ、江戸幕府は家康一代で終わる可能性がありました。
RELATIONSHIPS
徳川 秀忠を取り巻く人と組織
徳川家康人物詳細 →
将軍職を秀忠へ譲った後も、駿府の大御所として外交・大名・朝廷政策を主導した。
注:二元政治を父子対立だけ、または完全な役割分担だけで説明できない。西郷局
家康の側室で、秀忠と松平忠吉を生んだ。秀忠が幼い時期の1589年に亡くなった。
江/崇源院
浅井長政と市の娘。秀忠との間に家光、忠長、千姫、和子ら2男5女をもうけた。
結城秀康
家康の次男だが豊臣秀吉の養子を経て結城家を継ぎ、関ケ原後に越前へ入った。
徳川家光人物詳細 →
1623年に秀忠から将軍職を継ぎ、秀忠死後に単独の最高権力者となった。
徳川忠長
駿河などを領したが、家光の将軍就任後に改易され、秀忠死後に自害した。
注:春日局の直訴だけで家光が後継に決まったとする逸話は慎重に扱う。保科正之
静との間に生まれ、武田信玄の娘・見性院に養育されて保科家を継いだ。のち会津藩主となり家光・家綱を支えた。
千姫
豊臣秀頼の正室となり、大坂城落城時に城外へ出た。のち本多忠刻と再婚した。
東福門院和子
1620年に入内し、明正天皇の母となって宮廷と徳川家を結んだ。
豊臣秀頼人物詳細 →
千姫の夫。大坂の陣で秀忠・家康の軍と戦い、大坂城で淀殿とともに自害した。
真田昌幸・信繁人物詳細 →
1600年に上田城で抵抗し、秀忠軍の西進を遅らせた。
注:遅参の原因を真田の戦術だけに絞らず、命令伝達と行軍も見る必要がある。真田信之人物詳細 →
昌幸の長男。秀忠の上田攻撃に参加し、戦後に上田領を与えられた。
金地院崇伝
家康の命を受け、1615年の武家諸法度草案を作成した。
福島正則人物詳細 →
関ケ原の東軍功臣だったが、広島城修築をめぐり1619年に大幅減封された。
本多正純
宇都宮城主。1622年に失脚した。
注:釣天井による秀忠暗殺計画は後世の伝説。後水尾天皇人物詳細 →
和子の夫。幕府による朝廷・寺院統制との緊張の中、1629年に譲位した。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
秀忠が生まれたのは浜松城内?
浜松生まれであることは共通しますが、出生地には城下の下屋敷説と城内説があります。現在の誕生井戸を、出生した部屋の位置まで示す確定史料とは扱えません。
関ケ原に遅れたのは、真田にだまされたから?
上田城攻撃が西進を遅らせたのは確かですが、それだけではありません。東山道沿いを抑える任務、撤収と行軍、家康の命令を運ぶ使者の遅れが重なりました。
秀忠軍3万8000対、真田軍2500は正確?
上田市の案内などで広く使われる数字ですが、動員軍全体と実際に上田で戦った兵を区別する必要があり、史料・研究で推計に幅があります。戦力差を示す目安として扱います。
遅参で家康に廃嫡されかけた?
家康の怒りや対面拒否を伝える話はありますが、秀忠は戦後すぐ政治活動を続け、1605年に将軍となりました。廃嫡が正式に進んだと確認できる同時代の決定文書は示されていません。
秀忠は家康の操り人形だった?
家康存命中は大御所の権限が大きく、重要政策は共同で進められました。一方、秀忠は江戸で幕臣・大名を統率し、家康死後には改易、朝廷政策、家光への継承を主導しました。
武家諸法度を書いたのは秀忠?
初代の草案は家康の命を受けた金地院崇伝が作成しました。秀忠は現職将軍として諸大名へ公布しました。起草者と命令者、公布者を分ける必要があります。
秀忠は大坂夏の陣で本当に恐怖して叱られた?
秀忠本陣が攻撃を受け、戦況が緊迫したことは確認できます。家康との劇的な会話や個人の心理は軍記による脚色を含むため、総大将としての行動と後世の逸話を分けます。
江が嫉妬深く、秀忠は側室を持てなかった?
江の性格を嫉妬だけで説明する逸話は後世の人物像に左右されています。秀忠と静の間に保科正之が生まれ、別家で育てられた事実はありますが、家庭内の動機は断定できません。
家光が将軍になれたのは春日局の直訴のおかげ?
春日局が家康へ直訴して家光の後継を決めたという有名な話は、後世の叙述の影響が大きいものです。嫡長子を軸に世襲を安定させる政治判断と、家臣団・家族の関係を合わせて考えます。
宇都宮城に秀忠暗殺用の釣天井があった?
宇都宮市の公式解説では、釣天井事件は本多正純失脚後に作られ、江戸中期の物語や芝居で広まった伝説です。改易の事実と暗殺装置の物語は分ける必要があります。
READ, THEN WALK
徳川 秀忠の時代を、東京でたどる
日本橋、江戸城跡の皇居東御苑、小石川養生所跡、桜田門を巡り、幕府政治と城下町の歴史を一日で読み直します。
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徳川 秀忠の家系図
主要な子女を抜粋。和子は後水尾天皇の中宮、保科正之は静との間の子で保科家に育ちました。秀忠にはほかにも子女がいます。
PLACES
徳川 秀忠の足跡を現地でたどる
徳川秀忠公誕生の井戸・浜松城周辺
秀忠は1579年に浜松で生まれました。井戸はゆかりを伝える史跡ですが、出生地点には下屋敷と浜松城内の二説があります。
小諸城跡・懐古園
1600年、秀忠は小諸城を拠点に上田攻略を進めました。現在は石垣、門、曲輪を残す懐古園として公開されています。
上田城跡公園
真田昌幸・信繁が籠城し、秀忠軍の西進を遅らせた城です。関ケ原後に破却され、現在の主な城郭遺構は仙石氏以後の復興を基礎とします。
皇居東御苑・江戸城本丸跡
秀忠が将軍・大御所として政務を行った江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部です。御殿は現存せず、石垣、濠、門、天守台などから城の規模を読み取ります。
大坂城跡
秀忠は大坂の陣で徳川方総大将を務めました。豊臣期の城は1615年に焼失し、現在見える石垣・縄張りの多くは秀忠期に始まった徳川大坂城再築によります。
元離宮二条城
1615年、禁中並公家諸法度が定められた政治の舞台です。現存する二の丸御殿は、将軍と朝廷・大名の関係を考える手がかりになります。
宇都宮城址公園
1600年に秀忠が上杉攻めへ備え、1622年には日光参詣帰途の宿泊予定と本多正純失脚に関わった城です。釣天井は後世の伝説で、現在の櫓・土塁は復元です。
増上寺・徳川将軍家墓所
秀忠夫妻を含む徳川将軍家の墓所です。台徳院霊廟の大部分は戦災で失われましたが、墓所、惣門、精密模型が記憶を伝えます。
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徳川 秀忠と関わる人々
FAQ
徳川 秀忠についてよくある質問
Q01徳川秀忠は何をした人ですか?
江戸幕府の2代将軍として、家康から将軍職を継いで徳川世襲を明確にし、大坂の陣後に武家諸法度などを公布しました。家光へ生前に将軍職を譲り、三代続く政権の基盤も作りました。
Q02徳川秀忠はなぜ関ケ原の戦いに遅れたのですか?
中山道方面から進んだ秀忠軍が上田城の真田昌幸・信繁と戦い、撤収と西進に時間を使ったためです。家康の命令を伝える使者の遅れや行軍条件も重なり、上田の戦い一つだけが原因ではありません。
Q03徳川秀忠は真田の2500人に3万8000人で負けたのですか?
上田市の案内ではその兵数が使われますが、秀忠軍全体と実際に上田で戦った兵を区別する必要があり、推計には幅があります。上田城を落とせず関ケ原本戦に間に合わなかった一方、秀忠軍全体が壊滅した戦いではありません。
Q04関ケ原に遅れたのに、なぜ2代将軍になれたのですか?
秀忠は戦前から徳川宗家の有力な後継者で、大軍を任される立場でした。家格、成人した後継者としての安定、家臣団、家族関係が重視され、一度の遅参だけで継承者としての位置は失われませんでした。
Q05徳川秀忠は何代目の将軍ですか?
江戸幕府の第2代将軍です。1605年に父・家康から将軍職を継ぎ、1623年に長男・家光へ譲りました。
Q06徳川秀忠は家康の言いなりだったのですか?
家康存命中は大御所の権限が大きく、重要政策を共同で進めました。しかし秀忠も江戸で大名・幕臣を統率し、家康死後には福島正則・本多正純の改易、朝廷政策、家光への継承を主導しました。
Q07武家諸法度を作ったのは徳川秀忠ですか?
秀忠は1615年に現職将軍として武家諸法度を公布しました。草案は家康の命を受けた金地院崇伝が作成しており、秀忠一人が書いた法令ではありません。
Q08徳川秀忠の妻と子どもは?
正室は江です。二人の間には家光、忠長、千姫、珠姫、勝姫、初姫、和子の2男5女が生まれました。ほかに静との間の子で、保科家に育った保科正之がいます。
Q09宇都宮城の釣天井で暗殺されかけたのですか?
釣天井による秀忠暗殺計画は史実とは確認されず、本多正純失脚後に作られて江戸中期の物語や芝居で広まった伝説です。正純が1622年に改易されたこととは分けて考えます。
Q10徳川秀忠の墓はどこですか?
東京・芝の増上寺にある徳川将軍家墓所です。秀忠の台徳院霊廟は江戸初期を代表する壮大な建築でしたが、大部分は1945年の空襲で焼失しました。
SOURCES



