
PERSONAL FILE / 武将
とくがわ いえやす徳川 家康
Read this biography in English →江戸幕府を開いた大将軍三河の大名から勢力を伸ばし、関ヶ原の戦いで東軍を勝利へ導いた。1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開く。
- 生没年
- 1543—1616
- 主な所属
- 徳川家
- 関わった出来事
- 6件

QUICK GUIDE
まず3分でわかる、徳川 家康
関ヶ原後に江戸幕府を開いた
東海から関東へ勢力を広げ、1600年の関ヶ原で主導権を握り、1603年に征夷大将軍となりました。
同盟・臣従・待機を使い分けた
信長と同盟し、秀吉に臣従し、豊臣政権では最大大名として力を蓄えるなど、状況に応じて生存と拡大を両立しました。
勝利を一代の天下で終わらせなかった
将軍職を秀忠へ早く譲り、法令・大名配置・城と街道を整えて徳川家の政権継承を制度化しました。
LIFE TIMELINE
徳川 家康の生涯年表
三河の松平広忠の子として生まれる
幼名は竹千代。今川・織田の勢力が争う地域に生まれた。
人質として織田・今川勢力下で育つ
最終的に駿府で今川義元のもとに置かれ、松平元康として軍役を担った。
岡崎へ戻り、今川氏から自立
桶狭間後に三河へ戻り、信長と同盟して徳川家康と改名した。
三方ヶ原で武田信玄に大敗
敗北後も浜松城を維持し、武田氏との戦いを続けた。
本能寺後に伊賀越え
堺から少人数で伊賀・甲賀を抜けて三河へ帰還した。
江戸へ入る
秀吉の小田原征伐後、東海から関東へ移され、江戸を本拠にした。
関ヶ原に勝利し、将軍となる
全国の大名配置を主導し、江戸幕府を開いた。
大坂の陣後に死去
豊臣宗家を滅ぼし、翌年駿府城で死去した。
BIOGRAPHY
徳川 家康は、どんな生涯を送ったか
人質時代と三河統一
家康は織田氏と今川氏の間で人質となり、駿府で今川義元の支配下に育ちました。人質は単なる牢獄生活ではなく、有力家の政治文化と軍事を学び、家臣団との関係を維持する時間でもありました。
1560年、今川方として大高城へ兵糧を入れた直後、義元が桶狭間で討たれます。家康は岡崎へ戻り、信長と同盟し、三河の統一を進めました。
敗北しながら生き残る
1572年の三方ヶ原で家康は武田信玄に大敗しました。後世の『しかみ像』や脱糞逸話は史実として確定できませんが、壊滅的敗北から城と家臣団を維持した経験は重要です。
本能寺の変では堺に滞在しており、少人数で伊賀・甲賀を通って三河へ帰りました。その後、旧武田領をめぐる争いで甲斐・信濃へ勢力を広げ、信長死後の有力大名となります。
秀吉への臣従と江戸の建設
小牧・長久手では秀吉方に局地的勝利を収めましたが、全国的な勢力差を覆せず、交渉を経て秀吉に臣従しました。1590年には関東へ移され、江戸城と城下町、河川、街道を整えます。
秀吉の死後、家康は最大大名として政務を主導し、1600年の関ヶ原で反対勢力を破りました。1603年に将軍となり、1605年には秀忠へ職を譲って徳川家による世襲を早く示しました。
大坂の陣と政権の完成
1614年・1615年の大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼし、全国で徳川政権に対抗できる中心をなくしました。武家諸法度や禁中並公家諸法度を整え、大名と朝廷の関係を制度化します。
家康は1616年に駿府で死去し、東照大権現として日光東照宮などに祀られました。死後の神格化も、徳川政権の正統性を支える政治の一部でした。
OBJECTS & DOCUMENTS
残された物から、徳川 家康を見る
肖像だけでは見えない人物像を、甲冑・装束・書状・所用品からたどります。「当時の実物」「後世の作品」「伝承品」を区別し、分からないことも明記します。
01 / 甲冑・装束徳川家康所用・歯朶具足
久能山東照宮に伝わる家康所用の「伊予札黒糸威胴丸具足」、通称・歯朶具足。前立の歯朶は、繁栄や長寿を連想させる意匠です。
史料上の注意:1915年刊行物に掲載された古写真です。現在の展示状態や色彩をそのまま示すものではありません。HISTORICAL ROLE
徳川 家康は、その時何をしたか
桶狭間の戦い
当時は松平元康を名乗り、今川方として丸根砦を攻めて大高城への補給を成功させた。義元の死後は岡崎へ戻り、今川氏からの自立を進めた。
長篠・設楽原の戦い
武田勝頼軍に包囲された長篠城を救うため信長へ援軍を求め、織田軍とともに設楽原へ布陣。三河の防衛線を守った。
本能寺の変
事件当時は和泉国堺に滞在していた。信長横死の報を受けると、少人数の供と危険な伊賀・甲賀の道を抜けて三河へ帰国し、6月4日に岡崎城へ到着した。
小田原征伐
豊臣軍の一員として出陣。後北条氏降伏後、三河・遠江などから旧北条領の関東へ移され、江戸を新たな本拠として城下町建設を始めた。
豊臣秀吉の死
秀吉から秀頼の後見を託された有力大名の一人。最大の領地と官位を背景に政務を主導し、婚姻政策などをめぐって奉行らとの緊張を深めた。
大坂夏の陣
天王寺口で真田信繁隊の突撃を受け、本陣が一時混乱するほど追い込まれた。徳川方が持ち直して大坂城を落とし、豊臣宗家を滅ぼした。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
約260年続く幕府の継承構造をつくった
勝者として大名を再配置し、将軍職の世襲、法令、城・街道・都市を組み合わせました。
敗北・臣従・移封を次の基盤へ変えた
常に勝った人物ではなく、失敗後の再建と政治的妥協に強みがありました。
政権安定のため豊臣家と大名を厳しく統制した
大坂の陣で豊臣宗家を滅ぼし、領地没収と大名配置で反対勢力を抑えました。平和の基盤と強制の両面があります。
RELATIONSHIPS
徳川 家康を取り巻く人と組織
織田信長人物詳細 →
清洲同盟以後、武田氏など共通の敵に対して協力した。
豊臣秀吉人物詳細 →
小牧・長久手後に臣従し、豊臣政権の五大老筆頭となった。
石田三成人物詳細 →
豊臣政権内の反家康勢力をまとめたが、関ヶ原で敗れた。
徳川秀忠人物詳細 →
1605年に将軍職を譲り、徳川家の世襲を示した。
豊臣秀頼人物詳細 →
秀吉の子。大坂の陣で敗れ、豊臣宗家は滅亡した。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
『鳴かぬなら鳴くまで待とう』と言った?
江戸時代後期に広まった三英傑を比較する句で、家康本人の発言ではありません。
三方ヶ原の敗北後に『しかみ像』を描かせた?
有名な肖像を三方ヶ原直後の自戒像とする説明は後世に成立した可能性が高く、制作経緯は確定していません。
天ぷらを食べて死んだ?
鯛の揚げ物を食べた後に病んだという記録から生まれた説です。発病から死まで時間があり、胃がんなど別の病気も推測されますが確定できません。
家康はただ我慢して天下を待った?
実際には三河・遠江・駿河・甲信・関東で積極的に戦い、交渉し、領国を再編しました。受動的な忍耐だけでは説明できません。
READ, THEN WALK
徳川 家康の時代を、東京でたどる
日本橋、江戸城跡の皇居東御苑、小石川養生所跡、桜田門を巡り、幕府政治と城下町の歴史を一日で読み直します。
HISTORY MODEL COURSE江戸東京歴史1日モデルコース約8時間/4地点/自主散策・ツアー比較モデルコースを見る →FAMILY TREE
徳川 家康の家系図
主要な直系を抜粋。家康にはほかにも多くの子女・側室がいます。
PLACES
徳川 家康の足跡を現地でたどる
岡崎城
家康生誕の城とされ、今川氏から自立した後の初期拠点。
浜松城
三方ヶ原を含む遠江支配の中心。
江戸城跡・皇居東御苑
1590年の関東移封後に整備し、江戸幕府の政庁となった。
駿府城跡
将軍職を秀忠へ譲った後の政治拠点。
日光東照宮
東照大権現として祀られ、徳川政権の象徴となった。
RELATED PEOPLE
徳川 家康と関わる人々
FAQ
徳川 家康についてよくある質問
Q01徳川家康は何をした人ですか?
関ヶ原の戦い後に全国の主導権を握り、1603年に江戸幕府を開いて徳川家の長期政権の基礎をつくった人物です。
Q02徳川家康はなぜ江戸を選んだのですか?
秀吉の命で関東へ移されたことが直接の契機です。広い関東平野、水運、江戸湾、街道を生かして城下町を大規模に整備しました。
Q03徳川家康は関ヶ原で何をしたのですか?
東軍の中心として諸大名を組織し、上杉氏への対応から西へ転じ、関ヶ原で石田三成ら西軍を破りました。
Q04徳川家康の死因は天ぷらですか?
食後に体調を崩した記録はありますが、天ぷらが直接の死因とは確定できません。別の病気だった可能性が考えられています。
SOURCES



