
PERSONAL FILE / 武将
さなだ のぶゆき真田 信之
沼田・上田・松代を約70年治めた真田家の継承者真田昌幸の長男で信繁の兄。第一次上田合戦では父と徳川軍を退け、1590年から沼田を治めた。徳川家重臣・本多忠勝の娘である小松姫との婚姻を経て、1600年は父弟と分かれて東軍に残る。戦後は破却された上田城に代わる藩主屋敷、城下、農村、用水を整え、1622年に松代へ移封。1656年に隠居するまで、戦国の国衆を近世大名家へ作り替えた。
- 生没年
- 1566—1658
- 主な所属
- 真田家・豊臣家・徳川家・松代藩
- 関わった出来事
- 9件
QUICK GUIDE
まず3分でわかる、真田 信之
戦う後継者から、三つの領地を治める大名へ
第一次上田合戦では父と徳川軍を退け、小田原攻め後は沼田城主となりました。関ヶ原後は上田、1622年からは松代を治めます。
城下・農村・用水・家臣団を約70年動かした
破却された上田城の代わりに藩主屋敷を置き、農村復興と城下整備を進め、松代では寺社と家臣団を含む城下町を再編しました。
『家を残すための東西分け』は結果から作られた物語
信之が東軍、昌幸・信繁が西軍へ分かれた事実は確実です。しかし犬伏で最初から家名存続を示し合わせた会話は同時代史料で確認できません。
LIFE TIMELINE
真田 信之の生涯年表
真田昌幸の長男として生まれる
幼名を源三郎といい、のち信幸と名乗った。生母は山手殿とされる。
父・昌幸が真田宗家を継ぐ
長篠で伯父の信綱・昌輝が戦死し、昌幸が宗家へ戻ったため、信幸は次代の後継者となった。
武田氏滅亡後の混乱を父と生きる
武田・織田の支配が相次いで崩れ、真田氏が北条・徳川・上杉との関係を変える中で、信幸も小県・沼田を守る側に立った。若年期の細かな行動は後世史料に依存する。
第一次上田合戦で戸石城を守る
徳川軍が上田へ攻めると、父・昌幸とともに戦った。信幸は上田城背後の戸石城を守ったと伝わり、初陣とする地元資料もある。
徳川家康の与力大名となる
昌幸が豊臣政権下で家康の与力に置かれると、信幸も徳川方へ出仕する関係が強まった。
本多忠勝の娘・小松姫と婚姻
徳川家の養女という形で迎えた政治婚だった。1585・86年とする通説は早すぎるとする研究があり、1588年婚約・1589年入輿説が有力だが確定しない。
小田原攻めで碓氷峠筋へ出陣
豊臣秀次の返書は、源三郎信幸が北国衆の一員として碓氷峠方面へ在陣したことを伝える。
沼田2万7千石の城主となる
北条氏滅亡後、沼田を与えられた。検地を行い、二の丸・三の丸、堀、門、城下町の整備を進めた。
従五位下伊豆守に叙任
豊臣政権の大名として官位を得た。以後、書状では『豆州』『伊豆守』とも呼ばれる。
沼田城の天守を整える
五重天守を建てたと伝わるが、完成年には1597年説と1607年説があり、建物そのものは現存しない。
会津征伐の途上で父弟と進路を分ける
信幸は徳川方に残り、昌幸・信繁は上田へ帰って西軍に加わった。父子会談の場所と発言内容は確定しない。
第二次上田合戦で戸石城を受け取る
秀忠軍の一員として上田へ進み、信繁側から戸石城を明け渡された。兄弟が直接戦わないため示し合わせたという細部は後世の叙述を含む。
沼田・上田合わせて9万5千石となる
父の旧領と加増を得たが、上田城中枢は徳川軍に破却された。信之は沼田に在城しながら小県も統治した。
家臣・社寺の所領を再編する
数日間に安堵状・宛行状を相次いで発給し、生島足島神社へ40貫文を寄進。戦後の家臣団と地域秩序を文書で組み直した。
沼田城と城下を拡張
二の丸・三の丸、水手門、三階櫓などを整え、近世城郭と城下町の形を作った。
生島足島神社の造営を支える
社殿造営料を預ける朱印状と、信幸の寄進を記した棟札が残る。領国支配と祈願・造営が結びついていた。
九度山の父・昌幸が死去
弔いを望んだ信之に、本多正信は流罪人である父を公然と弔うには幕府の許可が必要だと返答した。家族関係も公儀の統制下にあった。
大坂の陣へ二人の息子を送る
信之は病気のため、信吉・信政を家康方へ出陣させた。弟・信繁が豊臣方で戦う中、家として幕府への軍役を果たした。
本拠を沼田から上田へ移す
長男・信吉を沼田城主に置き、自らは上田へ移った。破却城の代わりに藩主屋敷を用い、城下と農村の復興を進めた。
正室・小松姫が死去
江戸から草津へ向かう途中、武蔵国鴻巣で没した。信之は松代移封後に大英寺を菩提寺として整えた。
松代10万石へ移封
将軍から北国の要衝・松城を任された。信之書状には加増の栄誉と、老年に先祖の地を離れる複雑な思いの両方がにじむ。
松代藩初代藩主として35年
上田から寺社・家臣団を移し、既存の城下町を再編。幕府の普請・警備・取次などにも対応し、真田十万石の体制を整えた。
次男・信政へ家督を譲り隠居
松代城下郊外の柴村へ退いた。上田市の解説には1657年とするものもあるが、真田宝物館は1656年としている。
信政の死と幼い幸道の継承を見届けて死去
2月に信政が先立ち、2歳の孫・幸道が第3代藩主となった。同年10月、信之も柴村で死去した。
BIOGRAPHY
真田 信之は、どんな生涯を送ったか
『生き残った兄』になる前―第一次上田合戦を戦った後継者
信之は1566年、真田昌幸の長男として生まれ、源三郎、のち信幸と名乗りました。1575年に父が真田宗家を継ぐと、その嫡男として小県・吾妻・沼田を結ぶ家の次代を担います。武田氏滅亡後の信幸個人の動きは記録が限られ、父の外交をそのまま本人の意思として語ることはできません。
1585年、沼田領問題から徳川軍が上田へ攻めると、数え20歳の信幸も父と戦いました。地元資料は上田背後の戸石城を守ったと伝えます。後世には昌幸の知略だけが強調されますが、信幸、家臣、周辺国衆、上杉の支援を含む地域防衛でした。
小松姫との婚姻と沼田城主―徳川の婿であり豊臣大名でもある
豊臣政権が徳川家康を臣従させると、昌幸も家康の与力大名へ位置づけられ、信幸は本多忠勝の娘・小松姫を徳川家の養女として迎えました。これは恋愛逸話より先に、豊臣政権が大名間の関係を組み替える政治婚でした。婚姻年には1586・1587・1589・1590年説があり、1588年婚約・1589年入輿とする伝えが時期的に有力です。
1590年の小田原攻めでは北国衆として碓氷峠筋へ在陣し、戦後に沼田2万7千石を与えられました。信幸は検地を行い、城の曲輪・堀・門、城下の町割りを整えます。真田氏にとって沼田は父から借りた支城ではなく、信幸自身が近世領主へ進む最初の領国でした。
関ヶ原の選択―家を残す密約より、異なっていた政治的立場
1600年、真田父子は徳川家康の会津征伐へ参加する途中で、西軍決起を知りました。昌幸と信繁は上田へ戻り、信幸は徳川方に残ります。三人が会談したこと自体は考えられますが、犬伏の薬師堂で『どちらが勝っても家が残るよう東西へ分かれよう』と示し合わせた会話を伝える同時代文書はありません。
信幸には沼田領、本多・徳川との主従と婚姻、妻子という東軍側の具体的な基盤がありました。昌幸・信繁にも豊臣・上杉・大谷氏との関係がありました。結果として信之の家が残ったことから、最初から完成した生存計画を逆算しない方が、三人それぞれの選択を理解できます。
破却された上田を治める―9万5千石と戦後復興
第二次上田合戦で信幸は秀忠軍の一員となり、父弟と敵味方に分かれました。戸石城は信幸へ明け渡されますが、兄弟間の細かな交渉は後世の物語を含みます。関ヶ原後、昌幸・信繁は流罪となり、信幸は沼田と上田を合わせて9万5千石の領主となりました。助命に尽力したと伝わるものの、交渉の全過程と本多忠勝の役割を確定できる同時代記録は限られます。
上田城は本丸・二の丸が破却されていたため、信之は現在の上田高校付近に藩主屋敷を置きました。1601年8月の安堵状・宛行状・寄進状は、戦後の家臣団、社寺、軍役を短期間に再編した仕事を伝えます。農民の逃亡を抑える年貢減免、荒地の復旧、用水堰・ため池整備も、合戦後の大名に必要な統治でした。
九度山と大坂の陣―家族への援助も幕府の秩序の中で
九度山の昌幸・信繁と信之の間には書状と使者の往来がありました。信繁書状は、信之が配所生活の様子を尋ね、取りなしを試みていたことを示します。しかし『毎年いくら仕送りした』という具体額や頻度は史料ごとに異なり、無制限に父弟を支援できたわけではありません。
1611年に昌幸が死去すると、信之は弔いを望みました。本多正信の返書は、流罪人である父を弔うにも幕府の許可が必要だったと伝えます。大坂の陣では病気の信之に代わって息子の信吉・信政が徳川方へ出陣し、豊臣方の叔父・信繁と敵対しました。家族の情と大名としての軍役は同時に存在しました。
松代35年―先祖の地を離れ、真田十万石を次代へ渡す
1622年、信之は上田から松代10万石へ移封されます。家臣・出浦昌相への本人書状は、将軍から北国の要衝を任された『家の面目』を述べる一方、追伸で老後に移ること、子孫のため命令に従うことを記します。栄転と望郷のどちらか一方ではありません。
松代では上田から寺社・家臣団を移し、既存の城下町を再編し、幕府の普請・警備・取次役へ対応しました。1656年に次男・信政へ家督を譲りましたが、1658年に信政が先立ち、2歳の孫・幸道が継承します。信之も同年93歳で死去。劇的な一戦ではなく、約70年に及ぶ領国運営と継承こそ最大の仕事でした。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
豊臣秀次書状 真田源三郎宛
天正18年(1590)3月8日
小田原攻めの最中、信幸が送った陣中見舞いへの秀次の返書。信幸が北国衆として碓氷峠筋へ在陣していたことを確認できる。
真田信幸寄進状 下郷之六供・社人衆宛
慶長6年(1601)8月11日国指定重要文化財・生島足島神社文書
上田領を継いだ信幸が、下之郷大明神へ40貫文の土地を寄進した折紙。戦後に社寺・家臣の所領を再編した一連の文書に位置づく。
真田信之朱印状 飯島市之丞宛
慶長6年(1601)8月7日
鉄砲の者20人を飯島市之丞へ預け、武具を改めて役を命じるよう指示した文書。信之期の軍役編成の一端が分かる。
真田信幸朱印状 工藤長七宛
慶長13年(1608)6月13日国指定重要文化財・生島足島神社文書
下郷明神の社殿造営費を生む土地15貫文を神主へ預け、修理経費の明細を奉行へ出すよう定めた。
本多正信書状 真田信之宛
慶長16年(1611)6月13日
昌幸死去を受け、父を弔いたいと相談した信之への返書。流罪人の弔いには幕府の許可が必要だと伝える。
真田信之書状 出浦対馬守宛
元和8年(1622)10月13日
江戸で松城10万石への移封を命じられ、帰路の鴻巣宿から重臣へ送った書状。本文で栄誉を述べ、追伸で老後の移住と家臣の不安を気遣う。
萌黄絲毛引威二枚胴具足
年代未詳(信之所用と伝承)
萌黄色の威毛と、中国の冠を模した唐冠形兜を備える具足。真田宝物館に初代藩主・信之所用と伝わる。
真田信之画像
江戸時代
松代の大鋒寺に伝わる信之像。大名家・寺院が藩祖の記憶を継承したことを示す。
HISTORICAL ROLE
真田 信之は、その時何をしたか
第一次上田合戦
20歳の信幸は父・昌幸とともに徳川軍を迎え、戸石城を守った。後世の『生き残った兄』像だけでなく、自ら上田防衛を担った武将としての出発点である。
小松姫との婚姻
本多忠勝の娘を徳川家の養女として正室に迎えた。婚姻年は複数説があるが、真田氏が豊臣政権下で徳川与力となった後の縁組と考えられる。
小田原征伐と沼田城主就任
豊臣秀次の返書から碓氷峠筋への在陣が確認できる。北条氏滅亡後は沼田2万7千石を与えられ、検地と城・城下の整備を進めた。
関ヶ原で東軍を選ぶ
会津征伐の途上で昌幸・信繁は西軍へ転じ、信幸は徳川方に残った。結果として家は存続したが、最初から三人で家名存続を設計した会話は同時代史料で確認できない。
第二次上田合戦
今度は徳川方として父弟と対立した。信繁が守る戸石城は信之へ明け渡されたが、兄弟間の具体的な会話や無血退去の意図には後世の物語も含まれる。
沼田・上田9万5千石
父の旧領と加増を合わせて9万5千石となった。上田城の中枢は破却されたため藩主屋敷を置き、社寺・家臣への安堵状と宛行状を相次いで発給した。
父の死と上田への本拠移転
昌幸死去の弔いにも幕府の許可が必要だったことが、本多正信の返書に残る。1616年頃には長男・信吉を沼田に置き、自らは上田へ本拠を移した。
松代10万石へ移封
将軍から松城を『北国かな目の要害』として任された。本人の書状は栄誉を述べる一方、老後に故地を離れる不安を家臣へ気遣っている。
隠居と死去
1656年に信政へ家督を譲り柴村へ退いた。信政が先に死去すると2歳の幸道が家督を継ぎ、信之も同年93歳で死去した。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
第一次上田から大坂の陣まで軍役を担った
若年期は自ら上田・小田原で戦い、晩年は息子を代理に送って幕府への軍役を果たしました。戦わなかった生存者ではありません。
沼田・上田・松代を文書と城下整備でつないだ
検地、知行、軍役編成、社寺寄進、農村復旧、用水、城下再編を積み重ね、領地が変わっても統治を作り直しました。
戦国の国衆を幕末まで続く大名家へ変えた
東軍選択だけでなく、徳川・本多家との関係、約70年の奉公、息子・孫への継承によって松代真田家の基盤を固めました。
父弟と幕府の間に立ち続けた
九度山との連絡と助命・弔いの働きかけは確認できますが、幕府秩序を越えて救出できたわけではありません。その限界も信之の立場を示します。
長期統治は移封・軍役・年貢負担を伴った
上田から松代への移住では家臣と寺社が移され、幕府の普請・警備は領民の負担にもつながりました。家の成功だけで領国社会を評価しません。
RELATIONSHIPS
真田 信之を取り巻く人と組織
真田昌幸人物詳細 →
信之を後継者として育てたが、1600年に西軍へ転じた。配流後も書状を送り、信之は生活と弔いに関わった。
山手殿
昌幸正室で信之・信繁の母とされ、のち寒松院。出自には複数説があり、大坂からの退避経緯も伝承を含む。
真田信繁人物詳細 →
1600年に父と西軍へ転じ、配流後も信之との連絡を求めた。大坂の陣では信之の息子たちと敵味方になった。
小松姫
本多忠勝の娘で徳川家の養女として嫁いだ。婚姻は政治的結合であり、沼田城留守居の逸話は後世史料と分けて扱う。
本多忠勝
小松姫の父。婚姻で真田家と結びつき、関ヶ原後の昌幸・信繁助命にも関わったと伝わる。
徳川家康人物詳細 →
信幸を与力として用い、本多家との婚姻を介して結びつけた。関ヶ原後に上田を加増した。
徳川秀忠人物詳細 →
信幸は秀忠軍として父弟の上田を攻めた。1622年の松代移封も将軍の命令として本人書状に記される。
豊臣秀次
1590年、碓氷峠筋に在陣する信幸へ返書を送り、北国衆としての軍役を確認した。
真田信吉
大坂の陣へ父の代理で出陣し、1616年頃から沼田を任された。1634年に父より先に死去した。
真田信政
兄と大坂の陣へ出陣し、沼田を経て1656年に父から松代を継いだが、1658年に先立った。
真田幸道
信政の六男。父の死後2歳で家督を継ぎ、信之晩年の継承問題の中心となった。
出浦昌相
昌幸以来の家臣。1622年の信之書状は、移封時の家臣団の動揺を気遣う文面を残す。
本多正信
1611年、昌幸を弔うには幕府の許可が必要だと信之へ返答した。
細川忠利
島原の乱などをめぐる往復書状が伝わり、信之が幕府大名間の情報網にいたことを示す。
仙石忠政
1622年に信之が松代へ移ると上田へ入封し、破却されていた上田城の復興に着手した。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
真田家存続のため、犬伏で計画的に東西へ分かれた?
結果として信之の家が残りましたが、『どちらが勝ってもよいように分かれた』という会話を証明する同時代文書はありません。三人の主従・領地・婚姻関係が異なったことを先に見ます。
会談は犬伏新町薬師堂で行われた?
信之は犬伏、昌幸・信繁は天明宿に在陣し、信之が父の宿所へ呼ばれたとする研究があります。現在の薬師堂は重要な伝承地ですが、会談の正確な建物とは確定しません。
小松姫との結婚は1586年?
従来は1585・1586年説もありましたが、当時の真田・徳川関係と合いにくいと指摘されています。1588年婚約・1589年入輿説や1590年説もあり、年を一つに断定しません。
小松姫は自分で信之を夫に選んだ?
並んだ武将の髷をつかんで顔を見て信之を選んだという話は、勇ましい人物像を表す後世の逸話です。確認できるのは徳川・本多・真田を結ぶ政治婚だったことです。
小松姫は昌幸の沼田城入城を拒んだ?
沼田・上田の地域史で広く伝えられますが、同時代文書で場面の会話や行動を確認できません。信之留守中の城を守った女性像として後世に育った伝承です。
第二次上田合戦で信之と信繁は戦わない約束をした?
戸石城が秀忠方の信之へ明け渡されたことは徳川秀忠書状などから確認できます。一方、兄弟が示し合わせた具体的な約束や会話は後世の軍記・物語を含みます。
信之と本多忠勝だけで昌幸・信繁を助命した?
信之らの嘆願は広く伝わり、死罪を免れた結果は確かです。ただし交渉の全過程を記す同時代文書は限られ、誰の一言で決まったかまで断定できません。
信之は関ヶ原直後、父を嫌って『幸』を捨てた?
関ヶ原後に『信之』表記が増え、父の名をはばかったという説があります。しかし1608年の朱印状と1610年の棟札にも『信幸』が残るため、劇的な一回の絶縁改名とは扱いません。
九度山へ毎年多額の仕送りを続けた?
書状から信之が生活を案じ、使者や贈物を通じて連絡したことは分かります。しかし援助額・頻度には伝承や後世の推測があり、確定値のように示しません。
信之は36万両を残した大富豪?
莫大な遺金を残したという伝承・後世資料はありますが、額には23万両、36万両など差があります。財政運営の成果は認めつつ、一つの数字を確定しません。
1657年まで藩主だった?
上田市資料には1657年隠居とする記述がありますが、真田宝物館の歴代藩主解説は1656年に信政へ家督を譲ったとします。このページは家督年を1656年とし、史料間の表記差を残します。
掲載肖像は本人の顔を正確に伝える?
主画像は江戸時代の個人蔵伝承像で、作者不明です。本人を前に描いた同時代肖像とは確認できないため、『江戸時代の伝承肖像』と表示します。
FAMILY TREE
真田 信之の家系図
主要な直系・婚姻関係を抜粋。信之は当初『信幸』と書き、関ヶ原後は『信之』表記が増えますが、1608年の朱印状と1610年の棟札にも『信幸』が残ります。父の『幸』をはばかったという説明は一説であり、一度に完全改名したとは扱いません。主画像は江戸時代の伝承肖像です。
PLACES
真田 信之の足跡を現地でたどる
戸石城跡
1585年は信幸が上田背後を守ったとされ、1600年は東軍の信之へ明け渡された。城跡は急斜面の山城で、上田平・沼田道・松代道を見渡せる。
沼田城跡(沼田公園)
1590年から城主となり、曲輪・堀・門・櫓と城下町を整えた。天守完成年には異説があり、現存建物はないため、土塁・堀跡と絵図から近世城郭をたどる。
上田城跡・上田藩主屋敷跡
関ヶ原後の上田城は中枢を破却され、信之は現在の上田高校敷地に藩主屋敷を置いた。今見える櫓・石垣の多くは後任仙石氏以降の復興である。
生島足島神社・摂社諏訪社
1601年の40貫文寄進状、1608年の造営料朱印状、1610年の寄進を記す棟札が伝わる。合戦後の領国秩序と社寺造営を現地で結びつけられる。
芳泉寺・小松姫の墓
1620年に鴻巣で死去した小松姫は分骨され、鴻巣・沼田・上田に墓が伝わる。芳泉寺の墓は上田市指定史跡。
松代城跡
武田氏の海津城を前身とする北信濃の要衝。信之は上田から移り、真田家は明治まで10代約250年にわたり松代を治めた。
真田宝物館
信之・信繁・昌幸関係文書、伝信之所用具足、歴代藩主の武具・調度などを収蔵する。展示替えがあるため、見たい資料の出品時期は事前確認したい。
長国寺・真田信之霊屋・松代藩主真田家墓所
長国寺には信之墓と国重要文化財の霊屋があり、歴代藩主墓所と一体で真田家の継承を伝える。公開・拝観状況は現地案内を確認したい。
大鋒寺・柴の隠居地
1656年に隠居した柴村にあり、信之画像・木像と墓が伝わる。長国寺の霊屋・墓所と競合する『本当の墓』探しではなく、複数の供養・顕彰地として見る。
大英寺
信之が正室・大蓮院の菩提寺として整えた。現本堂と表門は1624年建立の霊屋を転用した県宝で、松代移封後の家族供養と城下再編を伝える。
FAQ
真田 信之についてよくある質問
Q01真田信之は何をした人ですか?
第一次上田合戦を戦い、小田原攻め後に沼田城主となり、関ヶ原後は上田、1622年からは松代を治めた大名です。検地、家臣団、城下町、農村、用水、幕府役務を約70年運営しました。
Q02真田信之と真田幸村は兄弟ですか?
兄弟です。信之が兄、幸村の名で知られる真田信繁が弟です。1600年に信之は東軍、信繁は父・昌幸と西軍へ分かれました。
Q03真田信之は父・昌幸を裏切ったのですか?
単純な親子の裏切りではありません。信之には徳川・本多家との主従・婚姻と沼田領があり、昌幸・信繁には豊臣・上杉・大谷氏との関係がありました。異なる政治条件から別の軍を選びました。
Q04犬伏で真田家を残す計画を立てたのですか?
東西へ分かれた結果、信之の家が残ったことは確かです。しかし家名存続のため最初から示し合わせたという会話は、同時代史料で確認できません。
Q05真田信之は上田合戦で戦いましたか?
1585年の第一次上田合戦では父と徳川軍を退けました。1600年の第二次では立場が逆転し、秀忠軍の一員として父弟の守る上田へ進み、戸石城を受け取りました。
Q06小松姫はどんな人ですか?
徳川家重臣・本多忠勝の娘で、徳川家の養女という形で信幸へ嫁いだ正室です。沼田・上田の領主夫人となり、1620年に鴻巣で亡くなりました。
Q07信之と小松姫はいつ結婚しましたか?
1589年とする自治体資料が多い一方、1587年頃・1590年説もあります。1588年12月婚約・1589年9月入輿という伝えが政治状況には合いますが、確定年とはしません。
Q08小松姫が昌幸を沼田城へ入れなかった話は本当ですか?
有名な地域伝承ですが、場面の会話と行動を確認できる同時代文書はありません。関ヶ原期に城を守る領主夫人像として後世に発展した物語です。
Q09なぜ信幸から信之に改名したのですか?
父・昌幸の『幸』をはばかって『之』へ変えたという説があります。ただし1608年の朱印状と1610年の棟札にも『信幸』が残り、一度の改名で完全に切り替えたとは言えません。
Q10関ヶ原後、上田城を再建しましたか?
上田城の本丸・二の丸は徳川方に破却され、信之は藩主屋敷を別の場所に置いて統治しました。現在見える櫓・石垣の多くは、後任の仙石氏以後の復興を含みます。
Q11信之は九度山の父と弟を助けましたか?
書状から生活を案じ、使者・贈物・取りなしを通じて関わったことは分かります。ただし援助額や頻度には不確かな伝承があり、父の弔いにも幕府許可が必要でした。
Q12なぜ上田から松代へ移されたのですか?
1622年、将軍から北国の要衝である松城と10万石を任されました。加増を伴う栄転でしたが、本人書状には老年に先祖の地を離れる複雑な心情も記されています。
Q13真田信之は何歳まで生きましたか?
1566年生まれ、1658年没で数え年93歳です。1656年に隠居し、次男・信政と幼い孫・幸道への継承を見届けました。
Q14真田信之の肖像は本人の顔ですか?
よく使われる画像は江戸時代に描かれた伝承肖像です。本人を前に描いた確実な同時代肖像ではないため、このページでも『江戸時代の伝承肖像』と表示しています。
Q15真田信之ゆかりの場所はどこですか?
上田市の戸石城・上田城・生島足島神社、群馬県の沼田城、長野市松代の松代城・真田宝物館・長国寺・大鋒寺・大英寺が主な場所です。
SOURCES