地図と人物でたどる、日本の時間。

真田 昌幸の肖像
肖像の出典 ↗Public Domain

PERSONAL FILE / 武将

さなだ まさゆき

真田 昌幸

大勢力の間で上田を守り抜いた真田氏当主

武田信玄・勝頼に仕え、武田氏滅亡後は織田・北条・徳川・上杉・豊臣の間で従属先を変えながら真田領を守った武将。上田城を築き、二度にわたって徳川軍の進撃を阻んだ。関ヶ原では次男・信繁と西軍に属して敗れ、九度山で晩年を送った。

生没年
1547—1611
主な所属
武田家・真田家・西軍
関わった出来事
4
真田 昌幸の家紋・六文銭
家紋・紋章六文銭古典意匠を当サイトで再描画/CC0 1.0

出典 ↗ CC0 1.0

QUICK GUIDE

まず3分でわかる、真田 昌幸

WHAT

武田滅亡後の信濃で真田領を守った

織田・北条・徳川・上杉・豊臣という大勢力の間で従属と交渉を重ね、小県と上野の一部を維持しました。

BATTLE

上田城で二度、徳川軍と戦った

1585年と1600年に徳川方の軍を迎え撃ちました。城、川、城下、家臣・領民を組み合わせた防御でした。

CAUTION

すべてを一人の奇策で説明しない

知略は重要ですが、地形、相手の事情、家臣団、周辺勢力の支援も結果を左右しました。

LIFE TIMELINE

真田 昌幸の生涯年表

  1. 真田幸綱の三男として生まれる

    武田氏に従う真田家の一員として育った。

  2. 長篠後に真田家を継ぐ

    兄たちが戦死し、昌幸が家督を担った。

  3. 武田氏滅亡後の領国争い

    織田・北条・徳川・上杉の間で従属先を変え、領地を守った。

  4. 上田城を築く

    小県の新たな政治・軍事拠点を整えた。

  5. 第一次上田合戦

    徳川軍を上田城周辺で退けた。

  6. 第二次上田合戦と西軍敗北

    秀忠軍と戦ったが、関ヶ原後に領地を失った。

  7. 九度山で死去

    信繁と蟄居を続け、赦免されないまま没した。

BIOGRAPHY

真田 昌幸は、どんな生涯を送ったか

01

武田氏の家臣から、独自の領主へ

昌幸は父・幸綱や兄たちと同じく武田氏に仕えました。1575年の長篠の戦いで兄たちが戦死すると、真田家を継ぎます。

1582年に武田氏と織田信長が相次いで滅びると、信濃・上野は徳川、北条、上杉らの争奪地となりました。昌幸は従属先を変えながら城と領地を確保します。現代の感覚では裏切りに見えても、小領主が家と領民を守るための外交でした。

02

上田城と二度の徳川戦

昌幸は上田城を築き、千曲川と城下を利用した防御拠点を整えました。1585年、沼田領の処分をめぐって徳川氏と対立し、上田へ来た軍を退けます。

1600年には関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍と再び戦いました。秀忠軍の到着が遅れた理由には上田での戦闘だけでなく、行軍計画、天候、情報伝達なども関わります。

03

親子が分かれた関ヶ原と九度山

関ヶ原では昌幸と次男・信繁が西軍、長男・信之が東軍につきました。家を残すため事前に分かれたという説明は有名ですが、具体的な密約を示す同時代史料はありません。徳川家と婚姻関係を持つ信之と、豊臣政権下の立場を持つ昌幸の政治判断が分かれました。

西軍敗北後、昌幸と信繁は死刑を免れ、紀伊九度山へ移されました。昌幸は赦免されずに死去し、信繁はのちに大坂城へ入ります。

HISTORICAL ROLE

真田 昌幸は、その時何をしたか

徳川軍を上田で退ける

第一次上田合戦

徳川家康が送った軍と上田城周辺で戦い、地形と城下を利用して撃退した。真田氏の独立性を示す戦いとなった。

徳川秀忠軍を足止め

第二次上田合戦

関ヶ原へ向かう秀忠軍と交戦し、上田城を守った。秀忠の遅参は複数の事情が重なったもので、昌幸一人の策略だけに帰すことはできない。

ACHIEVEMENTS & LIMITS

何を成し遂げ、何が分からないか

ACHIEVEMENT

大勢力の境界で領国を維持した

軍事だけでなく、従属、離反、婚姻、城郭、国衆との関係を組み替え、真田家を大名へ押し上げました。

DEFENCE

上田の地形と人を防御へ結びつけた

城そのものだけでなく、川、道、城下、家臣と領民の動員が徳川軍への抵抗を支えました。

LIMIT

最終的には西軍敗北で領地を失った

関ヶ原での判断は真田宗家を信之へ残す一方、昌幸自身の領主としての道を終わらせました。

RELATIONSHIPS

真田 昌幸を取り巻く人と組織

従属と対立を繰り返した大名

徳川家康人物詳細 →

武田滅亡後に従ったが、沼田領などをめぐって対立し、上田で戦った。

一時従属・西軍の大名

上杉景勝

徳川・北条との対立の中で上杉方へ接近し、関ヶ原でも同じ西軍側となった。

MYTHS & UNCERTAINTIES

伝承と史実を分けて見る

?

表裏比興の者と恐れられた?

情勢に応じて従属先を変えた評価として知られますが、用語の史料上の文脈を離れ、単なる褒め言葉や悪口にしないことが必要です。

?

親子は真田家存続のため計画的に分かれた?

結果として家は残りましたが、事前に三人で示し合わせたことを確定できる史料はありません。

?

秀忠の関ヶ原遅参は昌幸一人のせい?

上田での抵抗は影響しましたが、中山道の行軍、情報、天候、家康の命令など複数の要因があります。

FAMILY TREE

真田 昌幸の家系図

真田 幸綱/幸隆
本人真田 昌幸
正室山手殿

主要な直系を抜粋。関ヶ原では昌幸・信繁が西軍、信之が東軍に分かれました。家を残すための計画だったという説明は有名ですが、事前に示し合わせたことを確定する史料はありません。

PLACES

真田 昌幸の足跡を現地でたどる

真田氏の本拠

上田城跡

昌幸が築き、二度の上田合戦の舞台となった。現在の遺構には江戸時代以降の改修も含まれる。

地図で見る ↗
真田氏の地域資料

真田氏歴史館

上田市真田地域で真田氏の歴史と資料を紹介する。

地図で見る ↗
蟄居地

九度山・真田庵

関ヶ原後に昌幸と信繁が暮らした高野山麓の地域。

地図で見る ↗

FAQ

真田 昌幸についてよくある質問

Q01真田昌幸は何をした人ですか?

武田氏滅亡後、大勢力の間で真田領を維持し、上田城を築き、二度の上田合戦で徳川軍と戦った武将です。

Q02真田昌幸と真田幸村は親子ですか?

親子です。昌幸の次男が真田信繁で、後世に幸村の名で広く知られます。

Q03真田昌幸は徳川秀忠を関ヶ原に遅らせましたか?

上田で秀忠軍と戦ったことは遅参の一因です。ただし行軍計画や天候なども関わり、昌幸一人の策略だけでは説明できません。

Q04真田昌幸はどこで亡くなりましたか?

関ヶ原後の蟄居地である紀伊国九度山で、1611年に亡くなりました。

SOURCES

この記事の主な史料・参考資料