
PERSONAL FILE / 武将
あしかが たかうじ足利 尊氏
二つの政権を倒し室町幕府を築いた初代将軍鎌倉幕府の有力御家人から倒幕側へ転じ、1333年に京都の六波羅探題を攻略した。後醍醐天皇の建武政権とは、中先代の乱後の独自行動と恩賞・軍事指揮をめぐって決裂。光明天皇の北朝を支え、1336年に建武式目を定め、1338年に征夷大将軍となった。弟・直義との分業で政権を動かしたが、観応の擾乱では兄弟が争い、南北朝の内乱をさらに複雑にした。
- 生没年
- 1305—1358
- 主な所属
- 足利氏・北朝
- 関わった出来事
- 8件
QUICK GUIDE
まず3分でわかる、足利 尊氏
二つの政権を倒し、新たな武家政権を築いた初代将軍
鎌倉幕府の有力御家人から倒幕側へ転じ、1333年に京都の六波羅探題を攻略しました。その後は後醍醐天皇の建武政権と争い、北朝を支えて1338年に征夷大将軍となりました。
単純な『裏切り』より、所領・恩賞・軍事指揮の衝突を見る
尊氏は建武政権で全く冷遇されていたわけではありません。中先代の乱への対応、鎌倉での恩賞、武士を誰が統率するかをめぐる対立が重なり、決裂へ進みました。本人の動機を一つに断定できる史料はありません。
幕府を開いた英雄であり、長い内乱を生んだ当事者でもある
京都を軸に全国の武士を結ぶ政権の基礎を築く一方、南北朝の戦乱と幕府内部の観応の擾乱を招きました。創業者としての実行力と、戦争を拡大した責任の両方から見る人物です。
LIFE TIMELINE
足利 尊氏の生涯年表
足利貞氏の子として生まれる
清和源氏を称する足利氏の嫡流に生まれた。足利氏は北条氏と婚姻を重ねた有力御家人だったが、尊氏の正確な出生地には複数の説がある。
元服して高氏と名乗る
鎌倉幕府の得宗・北条高時から一字を受けたとされ、足利高氏を名乗った。赤橋登子と結婚し、幕府中枢の北条氏とも結びついた。
幕府軍として上洛した後、篠村で倒幕へ転じる
元弘の乱では当初幕府方として動いたが、1333年に丹波国篠村八幡宮で倒幕を掲げ、京都の六波羅探題を攻略した。
建武政権に加わり、尊氏へ改名
後醍醐天皇から諱の一字を受けて高氏から尊氏へ改名した。鎮守府将軍などの地位を得て軍事にも関与しており、当初から政権外に置かれていたわけではない。
中先代の乱を鎮圧し、鎌倉に留まる
北条時行が鎌倉を奪うと、尊氏は朝廷の許可を待たず東下して鎮圧した。鎌倉で独自に恩賞を与え、帰京命令に従わなかったことから決裂が表面化した。
京都で敗れ、九州へ退いて多々良浜で再起
新田義貞らに敗れて京都から西へ退いたが、九州の多々良浜で菊池氏側を破り、西国の武士を集めて東上する力を得た。
湊川に勝利し、光明天皇を擁立・建武式目を制定
湊川で楠木正成・新田義貞らを破って京都を制圧した。光明天皇の即位を支え、11月に新しい武家政権の方針を示す建武式目を定めた。
後醍醐天皇が吉野へ移り、南北朝が並立
京都の朝廷と尊氏方に対し、後醍醐天皇は吉野で自らの正統を主張した。二つの朝廷をめぐる内乱が全国の武士を巻き込んだ。
征夷大将軍となる
北朝から征夷大将軍に任じられ、三条坊門高倉の邸宅を政務の拠点とした。後世、この政権が室町幕府と呼ばれる。
天龍寺創建と安国寺・利生塔事業を進める
後醍醐天皇の追善を掲げて天龍寺を開き、夢窓疎石の勧めで諸国の戦没者供養を名目とする寺塔整備を進めた。
弟・直義との二頭政治が観応の擾乱へ崩れる
高師直と直義の対立から幕府が分裂した。尊氏は直義を追うため一時南朝へ降り、正平一統で北朝を停止させるなど、朝廷の正統性も内戦に利用した。
京都で死去する
京都の邸宅で亡くなり、等持院に葬られた。幕府は2代将軍義詮へ継承されたが、南北朝の内乱は終わっていなかった。
BIOGRAPHY
足利 尊氏は、どんな生涯を送ったか
有力御家人・足利氏――北条氏と近く、同時に競争力も持つ家
足利尊氏は1305年、足利貞氏の子として生まれました。足利氏は源氏の名門を称し、鎌倉幕府の御家人の中でも高い家格を持っていました。代々北条氏と婚姻を重ね、尊氏自身も最後の執権・赤橋守時の妹にあたる赤橋登子を妻とします。倒幕以前の尊氏は、幕府から遠い反体制派ではなく、その秩序の中心に近い武将でした。
元服後は足利高氏を名乗りました。『高』は得宗・北条高時から与えられた一字とみられます。一方、出生地を京都府綾部市、栃木県足利市など特定する伝承には検討が必要です。確実なのは、関東に所領と一族の基盤を持ちながら、京都の政治・軍事にも動員される全国級の御家人だったことです。
篠村の決断――幕府軍から離れ、六波羅探題を攻める
後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱が広がると、高氏は幕府軍として上洛しました。しかし1333年4月、丹波国の篠村八幡宮で倒幕の意思を示し、京都へ進軍します。京都を支配する幕府の六波羅探題は攻撃を受けて崩壊し、ほぼ同じ時期に新田義貞が鎌倉を攻めたことで鎌倉幕府は滅びました。
なぜこの時に幕府へ背いたのか、本人が理由を一つにまとめた記録は残りません。北条得宗家への反発、後醍醐方との連絡、足利氏の家格と将来、各地で進んだ倒幕の戦況が重なったと考えられます。篠村八幡宮へ納めた願文は、源氏再興と敵対勢力の打倒を祈る当事者の痕跡として亀岡市文化資料館に寄託されています。
建武政権の尊氏――最初から冷遇されたという物語では足りない
倒幕後、高氏は後醍醐天皇の諱・尊治から一字を受け、尊氏へ改名しました。鎮守府将軍となり、武蔵国などの所領や官位も得ます。国立国会図書館で紹介される研究は、尊氏が建武政権から完全に排除されたという従来像を見直し、九州方面の軍事などを任された面を指摘しています。
一方で、新政権は没収地の処理、恩賞、訴訟を京都へ集中させ、多数の申請を短期間で裁く必要がありました。武士に不満があったことは確かでも、『公家ばかり優遇されたので尊氏が怒った』という一文では政治過程を説明できません。尊氏自身も政権内で地位を得ながら、足利家臣と武士の所領を誰が保障するのかという別の権力基盤を育てていました。
中先代の乱――鎌倉救援が、朝廷からの離反へ変わる
1335年、北条高時の遺児・北条時行が鎌倉を占領する中先代の乱が起きます。尊氏の弟・直義は鎌倉を離れ、尊氏は征夷大将軍への任命を求めましたが認められないまま東下しました。乱を鎮圧した後も京都へ戻らず、鎌倉で従った武士へ独自に所領を与え始めます。
この時点でも、尊氏が1333年から周到に新幕府を計画していたと断定はできません。東国の軍事危機へ対応し、集まった武士へ恩賞を約束する行動が、結果として朝廷の命令系統を破ることになりました。後醍醐天皇が新田義貞へ尊氏追討を命じ、箱根・竹ノ下などの戦いを経て、倒幕時の同盟者同士が敵となります。
京都敗退から再起――多々良浜と湊川で兵を集め直す
尊氏は一度京都へ入りますが、1336年初めに北畠顕家・新田義貞・楠木正成らに敗れて西へ退きました。九州では多々良浜の戦いで菊池武敏らを破ります。兵力や合戦経過には史料差がありますが、この勝利と九州武士への所領安堵によって、再び東上できる軍事連合を作ったことが重要です。
同年5月、足利軍は海陸から兵庫へ進み、湊川で楠木正成・新田義貞らと戦いました。楠木正成は敗死し、新田勢は退きます。尊氏は京都を押さえましたが、これは一度の決戦で全国を統一した勝利ではありません。各地では南朝方・反足利方との戦いが続き、政権の成立そのものが長期内戦の始まりでもありました。
北朝と建武式目――『室町幕府はいつ始まったか』に幅がある理由
京都を制圧した尊氏は光厳上皇の院政を支え、光明天皇の即位を実現しました。1336年11月には中原章賢らへ諮問して得た答申をもとに、17か条の建武式目を示します。倹約、裁判、寺社、悪党取締りなど新しい武家政権の方針を掲げた文書で、1336年を幕府成立とみる有力な根拠です。
1338年、尊氏は北朝から征夷大将軍に任じられました。この将軍就任を成立年とする説明もあります。さらに尊氏の政庁は三条坊門高倉の邸宅にあり、3代義満が1378年に室町の『花の御所』へ移る前です。したがって『1338年に室町の場所へ幕府を置いた』のではなく、後世の名称である室町幕府の初代将軍になった、と表すのが正確です。
尊氏と直義の二頭政治――役割分担が幕府を動かした
草創期の幕府を尊氏一人で運営したわけではありません。弟・足利直義は行政・裁判を担い、尊氏は軍事指揮、武士への恩賞、将軍としての権威を担いました。1336年の清水寺願文で尊氏が現世の果報を直義へ譲りたいと記したことは、当時の兄弟関係と政務委任を考える重要な史料です。
しかし役割の境界は固定されず、尊氏の執事・高師直が軍事と恩賞を通じて力を伸ばします。直義の裁判・秩序を重視する側と、師直ら戦場で武士を束ねる側の対立は、家臣団と地方の紛争を巻き込みました。二頭政治は創業期の強みであると同時に、どちらの命令を優先するかという構造的な弱点も持っていました。
寺院と追善――戦争を起こした側が、死者を弔う
1339年に後醍醐天皇が亡くなると、尊氏は夢窓疎石の勧めを受け、京都嵐山に天龍寺を開きました。造営費を得るため元へ送った貿易船は天龍寺船と呼ばれます。また尊氏・直義は、各国に安国寺と利生塔を設け、戦乱の死者を弔う事業を進めました。
これらを『敵にも優しい尊氏が戦争を反省した』だけで読むことはできません。寺院造営は追善であると同時に、夢窓派の禅僧・地域寺院・新政権を結び、支配の正統性を示す国家的事業でした。尊氏は後醍醐天皇を弔いましたが、両朝をめぐる戦争を終わらせたわけではありません。信仰、政治、責任を切り離さずに見る必要があります。
観応の擾乱と正平一統――弟を倒すため南朝へ降る
1349年から高師直と直義の対立が表面化し、1350年以後は全国規模の内戦である観応の擾乱へ進みました。尊氏は師直側に立ち、直義は一時南朝と結んで優位に立ちます。師直兄弟が殺害された後も兄弟は和解できず、今度は尊氏と直義が直接戦いました。
1351年、尊氏は直義追討の綸旨を得るため南朝へ降伏し、北朝を一時停止させました。これが正平一統です。尊氏は南朝の正統を恒久的に受け入れたのではなく、内戦に勝つため皇統問題を政治的に利用しました。一統は翌年に崩れ、直義も尊氏に敗れた後に急死します。『太平記』などが伝える毒殺説はありますが、尊氏が毒殺を命じたと確定できる証拠はありません。
死と評価――創業者、朝敵、内乱の当事者という複数の顔
尊氏は1358年、京都で54年の生涯を終えました。墓所は等持院にあり、2代将軍義詮が政権を継ぎます。しかし南北朝の統一は1392年、3代義満の時代まで実現しませんでした。尊氏が作った幕府は約240年続く一方、本人の生涯では安定した全国支配に到達していません。
南朝を正統とする歴史観が強まった時代には、後醍醐天皇へ背いた『朝敵』として厳しく評価されました。一方、幕府創業者として称える像や、気前がよく家臣を引きつけた人物像も伝わります。現代の研究では忠臣か逆賊かを決めるより、幕府・朝廷・武士の利害を結んだ能力と、戦争と政権分裂を拡大した選択を史料から検討します。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
足利高氏願文
1333年
篠村八幡宮で倒幕へ転じた際の願文とされ、源氏の再興と戦勝を祈った高氏時代の文書です。原本は亀岡市文化資料館に寄託されています。
足利尊氏自筆清水寺願文
1336年8月17日重要文化財
尊氏が現世の果報を弟・直義へ譲り、自らは来世の安楽を願う内容です。兄弟で政権を担う直前の関係を示します。
足利尊氏御判御教書
1336—1337年
九州から東上する時期の祈願や、寺領寄進などを伝える尊氏発給文書です。花押を含む実物から、軍事行動と寺社政策を確認できます。
木造足利尊氏坐像
14世紀重要文化財
広島県安国寺に伝わる尊氏像です。制作年代と伝来から、現存する尊氏像の中でも成立期に近い重要な作例です。
足利尊氏自筆地蔵菩薩像
1350年頃
尊氏自筆と伝わる墨画の地蔵菩薩像です。観応の擾乱期に近い時期の信仰を伝える資料として栃木県立博物館に収蔵されています。
HISTORICAL ROLE
足利 尊氏は、その時何をしたか
鎌倉幕府の滅亡
幕府軍として上洛した後、丹波国篠村八幡宮で倒幕を掲げ、京都の幕府拠点を攻めた。新田義貞の鎌倉攻略と並び、幕府滅亡を決定づけた。
建武の新政
後醍醐天皇から諱の一字を受けて高氏から尊氏へ改名し、鎮守府将軍などの地位を得た。冷遇だけでなく、政権内で役割を持ちながら武士統率をめぐる緊張が深まった。
中先代の乱
朝廷の許可を待たず東下して北条時行を破った。鎌倉に留まり、従った武士へ恩賞を与えたことで後醍醐天皇との決裂が表面化した。
湊川の戦い
多々良浜で再起した後、海陸から兵庫へ進み、楠木正成・新田義貞らを破った。京都制圧と新しい武家政権の成立へつながった。
南北朝の分裂
京都を制圧して光明天皇の即位を支え、武家政権の方針を示す建武式目を定めた。後醍醐天皇が吉野で南朝を開き、二つの朝廷をめぐる内乱が始まった。
足利尊氏、征夷大将軍に
征夷大将軍に任じられ、三条坊門高倉の邸宅を政務拠点とした。後世に室町幕府と呼ばれる政権の初代将軍となった。
観応の擾乱
高師直と直義の対立から幕府が分裂し、尊氏と直義も直接戦った。各地の武士と南北両朝を巻き込む全国的な内戦となった。
正平一統
南朝から直義追討の綸旨を得るため北朝を停止させた。皇統の恒久統一ではなく、幕府内戦のための政治取引で、一統は翌年に崩れた。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
京都を軸とする武家政権の基礎を築いた
北朝の権威と武士への恩賞・裁判を結び、鎌倉幕府とは異なる全国政権の枠組みを作りました。後の義満期へ続く室町幕府の出発点です。
敗北後にも武士を集め直す力を持った
京都から九州へ退いた後、多々良浜を経て再び東上しました。家格、所領安堵、恩賞、人的関係を組み合わせる連合形成が尊氏の大きな力でした。
直義との分業で政務と軍事を動かした
将軍の権威・軍事・恩賞を尊氏、行政・裁判を直義が主に担いました。一人の独裁ではなく分業型の創業政権でしたが、権限の重なりが内戦の原因にもなりました。
南北朝と幕府内戦を長引かせた責任がある
新政権の成立は全国を巻き込む戦争と同時進行でした。直義を倒すため南朝へ降るなど、正統性を軍事目的に使った選択も含め、創業の成果だけでは評価できません。
英雄か逆賊かの二択を越えて読むべき人物
時代ごとの正統観によって評価が大きく変わりました。本人文書、制度、寺院、戦場を合わせると、信仰心、寛容さ、権力闘争が同居する複雑な姿が見えます。
RELATIONSHIPS
足利 尊氏を取り巻く人と組織
足利貞氏
足利氏嫡流の当主。尊氏は有力御家人家の地位と所領を継いだ。
赤橋登子
北条氏一門の赤橋家出身で、義詮・基氏らの母。尊氏と幕府中枢の北条氏を婚姻で結んだ。
後醍醐天皇人物詳細 →
尊氏へ諱の一字を与えたが、中先代の乱後に決裂した。
注:尊氏は後醍醐天皇の死後、天龍寺を建立して追善した。足利直義人物詳細 →
行政・裁判を担い幕府創業を支えたが、観応の擾乱で兄と戦った。
注:毒殺説は確定していない。高師直人物詳細 →
尊氏方の軍事と恩賞を担い、直義派との対立の中心となった。
足利義詮
尊氏の後継者として京都の幕府を継ぎ、南朝との戦争を続けた。
足利基氏
関東統治を担い、鎌倉府の基礎を作った。
足利直冬
九州などで直義派の軍事的中心となり、尊氏と戦った。
注:父子関係も観応の擾乱の分裂に巻き込まれた。新田義貞人物詳細 →
1333年には鎌倉を攻略したが、建武政権下では尊氏追討軍を率いた。
楠木正成人物詳細 →
1336年の湊川の戦いで尊氏方と戦い、敗死した。
光明天皇人物詳細 →
1336年に即位し、尊氏の武家政権へ朝廷側の権威を与えた。
夢窓疎石
天龍寺建立や安国寺・利生塔の整備を勧め、戦没者追善と政権の寺院政策をつないだ。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
足利尊氏は、なぜ後醍醐天皇を裏切った?
中先代の乱へ許可を待たず出陣し、鎌倉で独自に恩賞を与え、帰京命令へ従わなかったことが直接の決裂につながりました。武士の所領保障、足利家の自立、軍事危機などが重なり、本人の動機を『冷遇への怒り』一つに断定できません。
建武政権で尊氏は全く評価されなかった?
いいえ。尊氏は官位・所領を得て鎮守府将軍となり、軍事上の役割も与えられました。ただし、武士の恩賞・所領裁判を朝廷が主導する仕組みと、尊氏が武士を束ねる力の間には緊張がありました。
高氏から尊氏へ改名したのはなぜ?
倒幕後、後醍醐天皇の諱・尊治から一字を受けて改名したとされます。高氏の『高』は北条高時からの一字とみられ、改名は主従関係と政治秩序の転換を象徴します。
室町幕府は1336年と1338年のどちらに始まった?
建武式目を定めた1336年を実質的成立、征夷大将軍となった1338年を制度上の成立とするなど、基準で年が変わります。どちらかが単純な誤りというより、『政権成立』の何を重視するかの違いです。
尊氏は1338年から室町の御所にいた?
いいえ。尊氏の政務拠点は三条坊門高倉の邸宅でした。3代義満が室町の花の御所へ移ったのは1378年で、尊氏の時代より後です。
教科書で見た騎馬武者像は足利尊氏?
長く尊氏像と呼ばれた騎馬武者像は、現在も人物比定が議論されています。従者の家紋などから高師直・高師詮父子に関係する人物とする見方もあり、確実な尊氏の肖像としては扱えません。
清水寺願文は、尊氏に権力欲がなかった証拠?
願文は現世の果報を直義へ譲りたいという信仰上の意思と兄弟関係を示しますが、その後の政治行動すべてを説明するものではありません。信仰心と将軍としての権力行使は両立します。
尊氏は弟・直義を毒殺した?
直義が尊氏に敗れた後まもなく急死し、『太平記』などは毒殺を疑わせます。しかし尊氏の命令や死因を確定できる同時代の証拠はなく、毒殺を事実として断定できません。
正平一統で尊氏は本当に南朝方になった?
直義を追討する綸旨を得るため一時的に南朝へ降り、北朝を停止させました。恒久的な皇統統一ではなく、観応の擾乱を戦うための政治取引で、一統は翌年に崩れました。
足利尊氏は英雄、それとも逆賊?
どちらも後世の価値判断です。幕府を築いた成果、後醍醐天皇へ背いた行動、南北朝内乱の犠牲、家臣を集める力を分けて検討すると、一語では説明できません。
READ, THEN WALK
足利 尊氏の時代を、京都でたどる
京都御所・平安宮跡から二条城、本能寺跡・現在の本能寺、木屋町・高瀬川まで、政治の舞台を一日でつなぎます。
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足利 尊氏の家系図
室町幕府の成立と観応の擾乱に関わる主要関係を抜粋しています。肖像は尊氏と伝わる作品で、人物比定には留保があります。
PLACES
足利 尊氏の足跡を現地でたどる
篠村八幡宮
1333年、高氏が幕府方から離れて倒幕を掲げた場所です。願文や旗立楊などの伝承が残ります。
亀岡市文化資料館
篠村八幡宮に伝来した足利高氏願文の原本を寄託管理する市立資料館です。
足利尊氏邸・等持寺跡
三条坊門高倉の邸宅で政務を行い、尊氏没後は等持寺となった場所です。現在地の石碑から、初期幕府が後の室町御所とは別の場所にあったことを確認できます。
天龍寺
尊氏が夢窓疎石を開山として建立した禅寺です。法堂には尊氏木像が安置され、嵐山の庭園とともに創業期の宗教政策を伝えます。
等持院
尊氏の墓と、歴代足利将軍の木像を伝える寺院です。現在の伽藍・庭園には後世の再建も含まれます。
清水寺
重要文化財の尊氏自筆願文が伝わる寺院です。願文は常時見られる展示物ではないため、参拝と資料閲覧は分けて考えます。
鑁阿寺・足利氏宅跡
栃木県足利市に残る足利氏館跡で、方形の堀と土塁が中世武士の居館の姿を伝えます。尊氏個人の出生地と断定する場所ではなく、一族の基盤を知る史跡です。
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足利 尊氏と関わる人々
FAQ
足利 尊氏についてよくある質問
Q01足利尊氏は何をした人ですか?
鎌倉幕府を倒す戦いに加わった後、後醍醐天皇の建武政権と対立し、京都で北朝を支えて新しい武家政権を築いた人物です。1338年に征夷大将軍となり、室町幕府初代将軍とされます。
Q02足利尊氏はなぜ後醍醐天皇を裏切ったのですか?
中先代の乱への無許可出陣、鎌倉での独自恩賞、帰京命令への不服従が決裂の直接過程です。武士の所領と軍事指揮を誰が握るかという対立があり、単なる冷遇や個人的な恨みだけでは説明できません。
Q03足利尊氏が室町幕府を開いたのは何年ですか?
1336年の建武式目を実質的成立とする見方と、1338年の征夷大将軍就任を成立とする見方があります。学校教育では1338年と説明されることが多い一方、政権形成は段階的でした。
Q04室町幕府なのに、尊氏は室町に住んでいなかったのですか?
尊氏の政務拠点は三条坊門高倉の邸宅でした。室町に花の御所を造ったのは3代将軍義満で1378年のことであり、『室町幕府』は後世の呼称です。
Q05足利尊氏と足利直義はどのように政治を分担しましたか?
尊氏が将軍として軍事・恩賞・権威を主に担い、弟の直義が行政・裁判を担いました。この二頭政治は幕府創業を支えましたが、高師直との対立を経て観応の擾乱へ崩れました。
Q06観応の擾乱とは何ですか?
1349年頃から1352年にかけて続いた室町幕府内部の全国的内戦です。尊氏・高師直側と直義側が争い、南朝・北朝の対立や各地の武士の紛争も重なりました。
Q07足利尊氏は南朝へ降伏したのですか?
1351年、弟・直義を追討するため南朝へ一時降伏し、正平一統で北朝を停止させました。しかし恒久的な統一ではなく、一統は翌年に崩れました。
Q08足利尊氏は弟を毒殺したのですか?
直義は尊氏に敗れた後に急死し、毒殺説が伝わりますが、尊氏が命じたと証明する同時代史料はありません。死因は断定できません。
Q09有名な騎馬武者の絵は足利尊氏ですか?
かつて尊氏像として広く知られましたが、現在は人物比定に異論があります。家紋や伝来から高師直・高師詮父子に関係する人物とみる説もあり、確実な尊氏像とは扱えません。
Q10足利尊氏の墓はどこにありますか?
京都市北区の等持院に墓所があります。等持院には歴代足利将軍の木像も伝わりますが、建物や像の一部には後世の再建・再制作が含まれます。
SOURCES



