南北朝時代 / 暦応元年/延元3年
暦応元年/延元3年
足利尊氏、征夷大将軍に
足利尊氏が北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられた。建武式目と京都の政権機構を基礎に室町幕府が成立し、南朝との内戦下で武家支配を進めた。
1338年は尊氏の将軍任官という明確な節目ですが、室町幕府も一日で完成したわけではありません。1336年の建武式目、評定・引付・侍所などの整備、守護への軍事権限付与が重なって成立しました。
- 場所
- 山城国・京都
- 天皇
- 光明天皇北朝第2代天皇
- 関係人物
- 3名

OVERVIEW
足利尊氏、征夷大将軍にを4段階で理解する
尊氏は京都を押さえたが、吉野の南朝と全国の反対勢力が残った
光明天皇を擁立して建武式目を定めた後も、新田義貞・北畠顕家らとの戦いが続きました。1338年に両者が敗死し、尊氏方が優位になります。
北朝の権威と武家の軍事統率を結びつける官職が必要だった
征夷大将軍は尊氏の武家棟梁としての地位を公的に示しました。同時に尊氏は後醍醐天皇の冥福を祈る天龍寺建立も進めます。
尊氏が将軍、弟直義が政務を担う二頭政治が形づくられた
尊氏は恩賞と軍事、直義は裁判・行政を主に担当しました。守護は地域軍事と所領支配で権限を強めます。
幕府は成立したが、二頭政治の亀裂が観応の擾乱へ発展した
執事高師直と直義の対立が深まり、幕府内部が南朝も巻き込んで分裂しました。制度成立と政治安定は別問題でした。
DEEP DIVE
室町幕府の成立は1336年か1338年か。
どちらも重要です。1336年は建武式目と京都支配、1338年は征夷大将軍任官です。鎌倉幕府と同じく、軍事・制度・官職が段階的に整いました。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
尊氏は京都を押さえたが、吉野の南朝と全国の反対勢力が残った
光明天皇を擁立して建武式目を定めた後も、新田義貞・北畠顕家らとの戦いが続きました。1338年に両者が敗死し、尊氏方が優位になります。
北朝の権威と武家の軍事統率を結びつける官職が必要だった
征夷大将軍は尊氏の武家棟梁としての地位を公的に示しました。同時に尊氏は後醍醐天皇の冥福を祈る天龍寺建立も進めます。
尊氏が将軍、弟直義が政務を担う二頭政治が形づくられた
尊氏は恩賞と軍事、直義は裁判・行政を主に担当しました。守護は地域軍事と所領支配で権限を強めます。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
建武式目
新政権の基本方針を示しました。
南朝が吉野へ
二つの朝廷が並立しました。
義貞・顕家敗死
尊氏方が軍事的優位を得ました。
将軍任官
光明天皇から宣下されました。
直義と師直が対立
観応の擾乱へ進みました。
KEY PEOPLE
足利尊氏、征夷大将軍にを動かした人物
RELATIONSHIP
室町幕府成立時の権威
北朝が将軍職を与え、尊氏が武士を統率する一方、南朝が正統性を争う構図です。
光明天皇尊氏を征夷大将軍に任命
足利 尊氏武家政権を組織
後醍醐天皇皇位の正統性を主張光明天皇将軍宣下足利 尊氏北朝と幕府が相互に支える
足利 尊氏政権と皇統の対立後醍醐天皇京都と吉野に分裂
QUESTIONS
よくある疑問
最初から花の御所にいたのか
花の御所は3代義満期です。尊氏期の政庁は京都内の別地点にありました。
鎌倉幕府をそのまま復活したのか
評定などを継承しつつ、守護権限と京都の朝廷関係を組み替えました。
尊氏一人で政治したのか
弟直義が裁判・行政を大きく担う二頭政治でした。
IMPACT
その後、何が変わったか
室町幕府の成立
京都を本拠とする武家政権が始まりました。
守護大名の成長
内乱の軍事動員を通じ守護が地域支配を強めました。
公武の相互依存
幕府は北朝の権威を必要とし、北朝は幕府の軍事力に支えられました。
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