南北朝時代 / 建武2年
建武2年
中先代の乱
北条高時の遺児・時行が信濃から挙兵して鎌倉を奪還。足利尊氏が朝廷の許可を待たず東下して鎮圧し、そのまま鎌倉に留まったことで建武政権との対立が決定的になった。
『先代』鎌倉幕府と『後代』室町幕府の間に鎌倉を占領したため、北条時行は中先代と呼ばれます。乱そのものは短期間でしたが、尊氏に独自の軍事行動と東国武士への恩賞配分を行わせた政治的転機でした。
- 場所
- 相模国・鎌倉
- 天皇
- 後醍醐天皇第96代天皇
- 関係人物
- 3名

OVERVIEW
中先代の乱を4段階で理解する
幕府滅亡後も北条氏の旧基盤と東国武士の不満が残った
北条時行は諏訪氏に保護され、信濃・上野・武蔵の反建武勢力を集めました。鎌倉将軍府は足利直義が成良親王を補佐していました。
時行軍が急速に南下し、直義方を破って鎌倉へ入った
直義は鎌倉を退き、護良親王を殺害させたとされます。建武政権の東国支配の弱さが露呈しました。
尊氏が征夷大将軍任官を求め、許可を待たず東海道を下った
尊氏は各地の武士を集めて時行軍を破り、約20日で鎌倉を奪回しました。戦功者への恩賞も自ら配り始めます。
尊氏が帰京命令に従わず、後醍醐天皇が新田義貞を追討へ送った
局地反乱の鎮圧が、建武政権と足利氏の全面戦争へ転化しました。以後、東国と京都を往復する内戦が続きます。
DEEP DIVE
中先代の乱は、なぜ南北朝時代の転機なのか。
尊氏が朝廷から独立して出兵・恩賞配分を行い、武士を自分のもとへ集めたからです。北条氏の反乱鎮圧が、建武政権に代わる武家政権づくりへ直結しました。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
幕府滅亡後も北条氏の旧基盤と東国武士の不満が残った
北条時行は諏訪氏に保護され、信濃・上野・武蔵の反建武勢力を集めました。鎌倉将軍府は足利直義が成良親王を補佐していました。
時行軍が急速に南下し、直義方を破って鎌倉へ入った
直義は鎌倉を退き、護良親王を殺害させたとされます。建武政権の東国支配の弱さが露呈しました。
尊氏が征夷大将軍任官を求め、許可を待たず東海道を下った
尊氏は各地の武士を集めて時行軍を破り、約20日で鎌倉を奪回しました。戦功者への恩賞も自ら配り始めます。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
北条時行挙兵
信濃から鎌倉へ進みました。
鎌倉占領
足利直義が東国を退きました。
尊氏が東下
時行軍を破って鎌倉を奪回しました。
恩賞配分
尊氏が独自に所領を安堵しました。
箱根・竹ノ下の戦い
新田軍を破り尊氏が京都へ向かいました。
KEY PEOPLE
中先代の乱を動かした人物
RELATIONSHIP
中先代の乱 勢力変化
北条時行の鎌倉占領を、尊氏が鎮圧した後に建武政権へ離反する流れです。
後醍醐天皇東国支配と帰京を命じる
新田 義貞尊氏追討へ
足利 尊氏乱鎮圧後に鎌倉へ留まる後醍醐天皇命令違反から対立足利 尊氏東下・恩賞・帰京をめぐる
新田 義貞追討軍足利 尊氏箱根・竹ノ下へ進軍
QUESTIONS
よくある疑問
なぜ『中先代』なのか
鎌倉幕府の北条氏を先代、後の足利幕府を後代と見て、その間に鎌倉を占領した時行を指します。
最初から反乱するつもりだったのか
出兵時点の意図は断定できません。鎮圧後の帰京拒否と恩賞配分で対立が明確になりました。
短い乱なのになぜ重要か
占領期間ではなく、尊氏が独自の軍事政権を作る契機になった点が重要です。
IMPACT
その後、何が変わったか
建武政権の崩壊
倒幕連合の最大勢力だった足利氏が離反しました。
東国武士の結集
尊氏の恩賞配分が新たな主従関係を作りました。
南北朝分裂への加速
京都争奪と持明院統擁立へ内戦が進みました。
SOURCES

