鎌倉時代 / 元弘元年
元弘元年
元弘の乱
後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、天皇は笠置山で挙兵。敗れて隠岐へ流されたが、楠木正成らの抵抗と各地の反幕府運動が1333年の幕府滅亡へつながった。
元弘の乱は1331年の敗北で終わりません。天皇配流後も楠木正成・護良親王らが抵抗を続け、悪党・寺社・御家人の不満が結びつき、足利高氏・新田義貞の離反へ連鎖した長い倒幕過程です。
- 場所
- 山城国・笠置山/河内国・赤坂城
- 天皇
- 後醍醐天皇第96代天皇
- 関係人物
- 4名

OVERVIEW
元弘の乱を4段階で理解する
両統迭立と得宗専制のもとで、天皇・公家・武士の不満が蓄積した
後醍醐天皇は自らの皇統による継承と親政を目指し、幕府の調停に反発しました。幕府内部でも得宗被官の権力と経済困窮への不満がありました。
正中の変後も続いた倒幕計画が密告で発覚した
日野俊基らの動きが露見し、後醍醐天皇は京都を脱出して笠置山へ入りました。護良親王・楠木正成らが各地で呼応します。
笠置山と赤坂城が落ち、天皇は隠岐へ配流された
幕府軍の大動員で1331年の挙兵は敗れましたが、正成は赤坂城を脱出し、翌年以後に千早城などで抵抗を再開しました。
抵抗の持続が幕府軍を消耗させ、有力御家人の離反を招いた
1333年、後醍醐天皇が隠岐を脱出し、足利高氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻めました。元弘の乱は鎌倉幕府滅亡と建武政権へ続きます。
DEEP DIVE
1331年に敗れた後醍醐天皇が、なぜ2年後に幕府を倒せたのか。
配流後も正成らの抵抗が続き、幕府の大軍を消耗させました。そこへ御家人の経済不満と得宗支配への反発が重なり、足利・新田など幕府軍の中核が離反したからです。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
両統迭立と得宗専制のもとで、天皇・公家・武士の不満が蓄積した
後醍醐天皇は自らの皇統による継承と親政を目指し、幕府の調停に反発しました。幕府内部でも得宗被官の権力と経済困窮への不満がありました。
正中の変後も続いた倒幕計画が密告で発覚した
日野俊基らの動きが露見し、後醍醐天皇は京都を脱出して笠置山へ入りました。護良親王・楠木正成らが各地で呼応します。
笠置山と赤坂城が落ち、天皇は隠岐へ配流された
幕府軍の大動員で1331年の挙兵は敗れましたが、正成は赤坂城を脱出し、翌年以後に千早城などで抵抗を再開しました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
正中の変
最初の倒幕計画が発覚しました。
笠置山挙兵
天皇が京都を脱出しました。
隠岐配流
正成らは抵抗を続けました。
天皇が隠岐脱出
伯耆から倒幕を呼びかけました。
六波羅・鎌倉陥落
鎌倉幕府が滅びました。
KEY PEOPLE
元弘の乱を動かした人物
RELATIONSHIP
元弘の乱 倒幕勢力図
後醍醐天皇の挙兵から、正成の抵抗と有力御家人の離反へ広がる関係です。
後醍醐天皇倒幕を呼びかける
楠木 正成赤坂・千早で抗戦
新田 義貞1333年に鎌倉を攻める
足利 尊氏1333年に幕府へ反旗後醍醐天皇綸旨と奉公楠木 正成正成が倒幕方として抗戦
後醍醐天皇倒幕で協力足利 尊氏のち建武政権で対立
後醍醐天皇倒幕で協力新田 義貞鎌倉攻略を進める
QUESTIONS
よくある疑問
元弘の変と元弘の乱は同じか
1331年の計画発覚を元弘の変、1331〜1333年の軍事過程を元弘の乱と呼び分ける場合があります。
正成は悪党だったのか
中世の『悪党』は幕府・荘園領主へ抵抗する武装勢力を指す用語で、現代の犯罪者と同義ではありません。
全国の武士が天皇を支持したのか
多くは情勢を見て動き、所領・家格・地域利害が判断を左右しました。
IMPACT
その後、何が変わったか
鎌倉幕府滅亡
得宗家と幕府の全国支配が崩壊しました。
建武の新政
後醍醐天皇の親政が始まり、恩賞と所領裁判が集中しました。
南北朝への伏線
倒幕で協力した天皇と尊氏が対立し、二つの朝廷へ分裂しました。
SOURCES
