鎌倉時代 / 元弘3年
元弘3年
鎌倉幕府の滅亡
後醍醐天皇の倒幕運動に各地の武士が呼応。足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め、北条氏の幕府は滅亡した。
幕府は一度の敗戦で突然崩れたのではありません。御家人社会の分裂、得宗専制への不満、後醍醐天皇の再挙、足利高氏の離反が連鎖し、京都と鎌倉の二つの政治拠点がほぼ同時に失われました。
- 場所
- 相模国・鎌倉
- 天皇
- 後醍醐天皇第96代天皇
- 関係人物
- 3名

OVERVIEW
鎌倉幕府の滅亡を4段階で理解する
得宗家への権力集中と御家人の困窮が進んだ
元寇後の負担、所領の細分化、徳政令の混乱などで御家人の不満が高まりました。北条得宗家と被官が幕府中枢を握り、有力御家人との距離も広がりました。
後醍醐天皇の倒幕運動が各地の反幕府勢力を結んだ
元弘の変で隠岐へ流された後醍醐天皇は島を脱出し、伯耆の名和長年らと再挙しました。楠木正成の抵抗も続き、幕府は大軍を各地へ分散させました。
足利高氏が六波羅を、新田義貞が鎌倉を攻めた
幕府から派遣された足利高氏が後醍醐方へ転じて京都の六波羅探題を攻略。関東では新田義貞が挙兵し、稲村ヶ崎方面から鎌倉へ入りました。
北条高時らが自害し、建武の新政が始まった
東勝寺で北条高時らが自害し、約150年続いた鎌倉幕府が滅亡しました。後醍醐天皇は京都へ戻り建武の新政を始めますが、武士との利害対立から短期間で行き詰まります。
DEEP DIVE
150年続いた鎌倉幕府は、なぜ1333年に急速に崩壊したのか。
長期的な御家人の困窮と得宗家への不満に、後醍醐天皇の再挙が重なりました。さらに幕府軍の中核だった足利高氏が離反し、京都の六波羅と鎌倉本拠が短期間に失われたことで、全国の支持が一気に崩れました。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
元寇後の恩賞不足
新領地を得られない対外戦争の負担が御家人を圧迫し、幕府への不満が蓄積しました。
得宗専制
北条氏嫡流と御内人に権力が集中し、有力御家人や地方武士との対立が深まりました。
倒幕勢力の広がり
後醍醐天皇、楠木正成、悪党と呼ばれた地域勢力、有力御家人が異なる利害から倒幕へ合流しました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
元弘の変
後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、天皇は隠岐へ配流されました。
後醍醐天皇が隠岐を脱出
伯耆へ渡り、各地の武士へ倒幕を呼びかけました。
六波羅探題が陥落
足利高氏が幕府に反旗を翻し、京都の拠点を攻略しました。
新田義貞が挙兵
上野国で兵を挙げ、関東の武士を集めながら鎌倉へ進みました。
東勝寺で北条氏滅亡
鎌倉陥落後、北条高時と一門・家臣が自害しました。
KEY PEOPLE
鎌倉幕府の滅亡を動かした人物
RELATIONSHIP
鎌倉幕府滅亡 人物相関図
後醍醐天皇の倒幕運動と、幕府から離反した有力武士の動きを整理します。
後醍醐天皇倒幕を主導
足利 尊氏六波羅探題を攻略
新田 義貞鎌倉を攻略後醍醐天皇倒幕で協力足利 尊氏高氏が京都の幕府拠点を攻略
足利 尊氏同時期に蜂起新田 義貞京都と鎌倉の幕府拠点を別々に攻撃
QUESTIONS
よくある疑問
義貞は本当に海へ黄金の太刀を投げたのか
稲村ヶ崎の伝説は『太平記』で有名です。潮の変化や地形利用を象徴する物語として、史実と軍記を分けて読みます。
鎌倉幕府は何年続いたのか
始点を1185年・1192年などどこに置くかで変わります。滅亡は1333年で共通します。
足利尊氏は最初から幕府を裏切るつもりだったのか
出兵後に倒幕方へ転じた理由は一つに断定できません。家格・所領・情勢判断など複数の要因が考えられます。
IMPACT
その後、何が変わったか
建武の新政
後醍醐天皇が天皇中心の政治を始め、幕府の裁判・所領秩序を再編しました。
武士の再分裂
恩賞と所領をめぐる不満から尊氏が離反し、南北朝の全国内乱へ進みました。
鎌倉の政治的位置の変化
全国政権の本拠ではなくなりましたが、鎌倉府の設置など東国支配の重要都市であり続けました。
SOURCES
