
PERSONAL FILE / 武将
ほうじょう よしとき北条 義時
承久の乱を勝ち抜き執権政治を固めた第2代執権北条時政の子で北条政子の弟。源頼朝の挙兵に従い、1205年に父に代わって幕政の中心へ進んだ第2代執権。源実朝の死以前から政務を担い、1221年の承久の乱では後鳥羽上皇の追討対象となったが、幕府方の勝利を導いた。
- 生没年
- 1163—1224
- 主な所属
- 北条氏・鎌倉幕府
- 関わった出来事
- 1件
QUICK GUIDE
まず3分でわかる、北条 義時
将軍ではなく、第2代執権
北条氏が将軍を補佐する立場から幕府の実権を強めた時期の政治家です。将軍職そのものを奪ったわけではありません。
義時個人への追討が、朝廷と幕府の戦いへ
1221年、後鳥羽上皇は義時の追討を命じました。幕府方の勝利は、西国と朝廷への関与を強める転機になります。
年代記と発掘を組み合わせて読む
吾妻鏡は後の編纂物。法華堂跡では、文献に記された位置と発掘遺構を照らし合わせています。
LIFE TIMELINE
北条 義時の生涯年表
伊豆の北条氏に生まれる
北条時政の子。姉の政子が源頼朝と結ばれたことが、一族の政治的な転機になります。
頼朝の挙兵に従う
伊豆の武士の一人として、鎌倉を拠点とする政権の形成に関わりました。
頼朝が死去
頼家の政務を支える有力者の一人に。ここで義時一人の独裁体制が成立したわけではありません。
父・時政が政治の表舞台を退く
義時と政子が幕政を支える中心になります。実朝が将軍だった時期です。
和田合戦
和田義盛らとの武力衝突に勝利。御家人同士の争いを通じて北条氏へ権力が集中しました。
源実朝が殺害される
頼朝から続く源氏将軍が途絶えた後も、幕府は将軍を迎えて続いていきます。
承久の乱で幕府方が勝利
義時追討の命令に対し、幕府は京都へ軍を送りました。泰時らが遠征を担います。
義時が死去し、泰時の時代へ
父の死を受けて泰時が執権となります。御成敗式目の制定は、その後の泰時の事業です。
BIOGRAPHY
北条 義時は、どんな生涯を送ったか
伊豆の武士から、頼朝を支える立場へ
義時は1163年、伊豆国の北条氏に生まれました。北条氏が最初から全国を支配する家だったわけではありません。姉・政子と源頼朝の婚姻、頼朝の挙兵への協力を通じて、義時も鎌倉の政治へ進みます。人物の成功を生来の才能だけで説明せず、婚姻、軍事協力、主従関係が重なった過程を見る必要があります。
1199年に頼朝が亡くなると、後継者の頼家を有力な家臣たちが支えました。義時もその一人ですが、後に第2代執権となった結果をさかのぼらせ、初めから全ての人を動かしていたと考えることはできません。頼朝の死後に誰が政務を担うかは、複数の家と将軍家の関係の中で変わっていきました。
執権と将軍は違う――時政の退場から和田合戦まで
1205年に父・時政が退き、義時は政子とともに幕政の中心を担います。これは1219年の実朝の死より前です。「源氏将軍が途絶えたので義時が執権になった」と順序を逆にすると、実朝の時代から続いていた政治の仕組みが見えなくなります。
1213年には、侍所の長官である和田義盛らと戦い、義時側が勝利しました。執権政治は役職名だけで完成したのではなく、政務や御家人の統制に関わる権力が、こうした争いを通じて北条氏へ集中する中で形づくられます。一方で将軍職は存続します。実権の所在と、政権の頂点に立つ称号を分けることが、鎌倉幕府を理解する鍵です。
承久の乱――追討対象になった義時が、なぜ勝てたのか
1221年、後鳥羽上皇は義時の追討を命じます。幕府側がこれを御家人全体の政治的な危機として受け止め、京都への出兵を選んだことで、争いは大きな内乱へ展開しました。義時個人の処罰を求める命令と、実際に朝廷・幕府双方が軍を動かした結果を分けてたどると、何が争点だったかが明確になります。
政子は御家人の結束を支え、泰時らが西へ向かった軍を担いました。義時一人が戦場で勝利したという話ではありません。勝利後、幕府は京都と西国への関与を強めますが、朝廷が消滅したわけでもありません。朝廷と幕府の関係がなくなるのではなく、その力関係が変わった戦いです。具体的な戦況は、関連する承久の乱の記事と合わせて読むと整理できます。
義時と泰時――権力を固める仕事と、制度を整える仕事
義時は1224年に亡くなります。当時京都にいた長男・泰時がその後の幕政を主導し、政子は翌1225年まで生きました。義時、政子、泰時の三人を一つの功績の主語にせず、誰がどの時点で働いたかを分けると、政権が世代を越えて続いた過程が見えてきます。
御成敗式目を定めた人物は義時ではなく泰時です。義時の時代に確立した政治的な優位と、その後に進んだ裁判や政務の制度化は関係していますが、同じ出来事ではありません。「北条氏が行った」というだけの説明では、父子の違いや制度が必要になった背景を取りこぼします。
『吾妻鏡』と法華堂跡――義時像を確かめる二つの手がかり
『吾妻鏡』は、国立公文書館の解説では1300年前後の成立と推定される幕府の歴史書です。義時の時代より後に、日記や文書などを用いて編纂されたと考えられています。重要な記録ですが、本人が日々つけた日記ではありません。記事の会話を録音のように扱ったり、政敵との対立を全て本人の秘密計画と断定したりする読み方には注意が必要です。
頼朝墓の東側では2005年に建物跡が発掘され、文献の方位や地形と合うことから、義時の法華堂跡と推定されています。現在の史跡は、当時の建物がそのまま残っている場所ではなく、調査結果に基づく遺構表示を見る場所です。文献と発掘が互いを補う具体例として訪ねると、単なる英雄の墓参り以上の発見があります。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
吾妻鏡(北条本)
主に16世紀初頭の書写重要文化財
幕府の歴史を伝える年代記の写本。記述された事件、編纂、現存本の書写には時間差があります。
HISTORICAL ROLE
北条 義時は、その時何をしたか
承久の乱
後鳥羽上皇から義時追討の院宣を出されたが、御家人の支持をつなぎ、子の泰時らを三道から京都へ進軍させた。勝利後、朝廷監視と西国支配を強めた。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
頼朝の死後も政権を存続させた
将軍家の危機を越え、御家人をまとめる幕府の仕組みを維持・強化しました。
権力集中には武力衝突も伴った
和田合戦などで多くの犠牲が生じました。制度の発展だけを見て、政敵の排除を省くことはできません。
泰時の政治へつながる条件を作った
父の政治的な優位と、子の制度整備を区別しながら、その連続性を読みます。
RELATIONSHIPS
北条 義時を取り巻く人と組織
源頼朝人物詳細 →
挙兵への協力から始まる北条氏の台頭を考える中心人物です。
北条政子人物詳細 →
義時だけではなく、将軍家とのつながりを持つ政子の働きも重要でした。
北条泰時人物詳細 →
承久の乱の遠征と戦後処理を担い、義時没後に幕政を主導します。
後鳥羽天皇人物詳細 →
義時の追討を命じた側の政治的中心。天皇としての在位と院政期を区別します。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
「黒幕」という人物像を先に置かない
政治的な利益を得たことだけで、暗殺や全ての対立を事前に計画した証拠にはなりません。ドラマの内面描写と史料の記載を分けます。
年代記の成立と、現存する本の年代は異なる
吾妻鏡の編纂は1300年前後と推定されますが、公文書館の北条本は主に16世紀初頭の写本です。義時本人の自筆とは扱いません。
FAMILY TREE
北条 義時の家系図
執権継承と承久の乱に関わる主要関係を抜粋。確実な同時代肖像がないため、掲載画像は現代の創作肖像です。
PLACES
北条 義時の足跡を現地でたどる
北条義時法華堂跡
源頼朝墓の東側にある平場。遺構表示から建物の規模と位置を確かめられます。現存する霊廟建築ではありません。
RELATED PEOPLE
北条 義時と関わる人々
FAQ
北条 義時についてよくある質問
Q01北条義時は何をした人ですか?
鎌倉幕府の第2代執権です。頼朝の死後の政治を支え、和田合戦や承久の乱を経て、北条氏と幕府の権力を強めました。
Q02北条義時は将軍ですか?
将軍ではありません。執権として幕府の政務を担いました。実朝の死後も、義時が将軍になるのではなく将軍職は別に存続します。
Q03北条義時と北条政子の関係は?
政子は義時の姉です。頼朝の死後、ともに幕府を支えました。政子を義時の妻と混同しないようにしましょう。
Q04御成敗式目を作ったのは北条義時ですか?
いいえ。義時の死後、第3代執権となった長男・北条泰時の時代に定められました。義時の権力確立と泰時の制度整備を区別します。
SOURCES



