鎌倉時代 / 承久3年
承久3年
承久の乱
後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を出し、鎌倉幕府と朝廷が武力衝突。幕府軍が京都を制圧し、武家政権の優位が全国へ広がった。
『朝廷対幕府』という大枠だけでは、上皇方に加わった武士と幕府方に結集した御家人の選択は見えません。北条政子の演説、義時・泰時の軍事判断、木曽川・宇治川の戦線を追うと、鎌倉から京都へ短期間で進軍した幕府の動員力が分かります。
- 場所
- 京都・宇治川
- 天皇
- 仲恭天皇第85代天皇
- 関係人物
- 4名

OVERVIEW
承久の乱を4段階で理解する
源氏将軍が絶え、幕府と院の主導権争いが強まった
源実朝の死後、鎌倉では北条氏が執権として幕府を運営しました。京都では後鳥羽上皇が院政を行い、西国武士や寺社との結びつきを強めていました。
後鳥羽上皇が北条義時の排除を目指した
上皇は守護・地頭を含む武家支配のあり方と対立し、義時追討の院宣を全国の武士へ出しました。しかし多くの東国御家人は、所領を保障する幕府側に残りました。
幕府は三道から大軍を西へ進めた
北条政子が御家人へ頼朝以来の恩を訴え、幕府軍は東海道・東山道・北陸道を進軍。木曽川の防衛線を突破し、宇治・瀬田で上皇方を破って京都を制圧しました。
上皇らは配流され、六波羅探題が置かれた
後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門・順徳上皇も各地へ配流されました。幕府は京都監視のため六波羅探題を設置し、西国の所領にも地頭を置いて全国支配を強めました。
DEEP DIVE
天皇・上皇の命令に対し、なぜ多くの武士が幕府を選んだのか。
御家人の所領と地位は頼朝以来の幕府との主従関係に支えられていました。上皇の権威は大きくても、具体的な所領保障と東国武士の結束では幕府が優位でした。政子の訴えと、ためらわず京都へ進軍した軍事判断も重要です。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
将軍家断絶後の幕府
実朝暗殺後、京都から摂家将軍を迎え、北条氏が執権として幕府を主導しました。
後鳥羽院政の軍事力
上皇は西面武士を置き、寺社・西国武士との結びつきを通じて独自の軍事基盤を築きました。
守護・地頭と荘園
朝廷・寺社・公家の荘園と幕府の地頭支配が衝突し、土地をめぐる訴訟が政治対立を深めました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
源実朝が暗殺
源氏将軍が絶え、北条氏主導の幕府と後鳥羽院政の緊張が高まりました。
義時追討の院宣
後鳥羽上皇が北条義時を追討するよう諸国へ命じました。
幕府が出兵を決定
政子が御家人を励まし、泰時らが三道から京都へ進みました。
宇治・瀬田の戦い
幕府軍が防衛線を突破して京都へ入り、上皇方は敗北しました。
上皇配流と六波羅探題
三上皇が配流され、京都と西国を監視する機関が置かれました。
KEY PEOPLE
承久の乱を動かした人物
RELATIONSHIP
承久の乱 人物相関図
後鳥羽上皇の院宣に対し、鎌倉幕府が御家人を結集した構図を整理します。
北条 義時追討対象・幕府執権
北条 政子御家人へ結束を訴える
後鳥羽天皇院宣を出し挙兵
仲恭天皇在位中の幼帝後鳥羽天皇追討の院宣北条 義時後鳥羽上皇が義時を朝敵とした
北条 政子姉弟北条 義時政子が幕府方の結束を支える
QUESTIONS
よくある疑問
『頼朝公の恩は山より高い』はそのままの言葉か
『吾妻鏡』に基づく有名な場面です。後世の編纂史料であることを踏まえつつ、御家人結束を示す重要な記述です。
幕府が天皇を倒したのか
追討対象は義時で、戦後に幕府が皇位継承へ介入しました。仲恭天皇は退位し、後堀河天皇が即位しました。
この戦いで幕府支配は完成したのか
西国への影響力は大きく増しましたが、地域社会の支配は守護・地頭・荘園領主の交渉を通じて段階的に進みました。
IMPACT
その後、何が変わったか
六波羅探題の設置
京都の朝廷監視と西国御家人の統轄を担う幕府機関が置かれました。
西国への新補地頭
没収した上皇方所領に幕府方御家人が配置され、東国武士の所領が西へ広がりました。
武家政権の優位
皇位継承にも幕府が強く介入し、朝廷と幕府の力関係が大きく変わりました。
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京都の歴史を、現地で重ねる
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