鎌倉時代 / 建保7年
建保7年
源実朝暗殺
右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮へ参詣した第3代将軍・源実朝が、甥の公暁に暗殺された。頼朝直系の源氏将軍が断絶した。
実朝暗殺を北条義時の陰謀と断定する証拠はありません。『吾妻鏡』『愚管抄』などは細部が異なり、公暁の動機、義時が現場を離れた理由、共犯関係は史料を比較して考える必要があります。
- 場所
- 相模国・鶴岡八幡宮
- 天皇
- 順徳天皇第84代天皇
- 関係人物
- 4名

OVERVIEW
源実朝暗殺を4段階で理解する
実朝は将軍として朝廷官職と和歌文化を重視した
北条氏が幕政実務を担う一方、実朝は京都との関係を深め、内大臣・右大臣へ昇進しました。子がなく、兄頼家の子・公暁らの立場は不安定でした。
公暁は父頼家の死と将軍継承をめぐる不満を抱いたとされる
『吾妻鏡』は公暁が将軍位を望み、実朝を父の敵とみなしたと描きますが、本人の記録はありません。周辺勢力の関与も断定できません。
雪の夜、八幡宮の石段付近で実朝が襲撃された
1219年1月27日、右大臣拝賀の儀式後、公暁が実朝を殺害しました。源仲章も義時と間違われて斬られたとされ、公暁は逃走後に討たれました。
源氏将軍が絶え、京都から摂家将軍を迎える体制になった
政子・義時は皇族将軍を求めましたが朝廷に拒まれ、九条頼経を迎えました。後鳥羽上皇との緊張は1221年の承久の乱へ向かいます。
DEEP DIVE
北条義時は、実朝暗殺の黒幕だったのか。
義時が儀式直前に随行を交代したため疑われますが、共謀を示す確実な史料はありません。複数史料で理由と現場描写が異なるため、疑問と結論を分けて扱います。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
実朝は将軍として朝廷官職と和歌文化を重視した
北条氏が幕政実務を担う一方、実朝は京都との関係を深め、内大臣・右大臣へ昇進しました。子がなく、兄頼家の子・公暁らの立場は不安定でした。
公暁は父頼家の死と将軍継承をめぐる不満を抱いたとされる
『吾妻鏡』は公暁が将軍位を望み、実朝を父の敵とみなしたと描きますが、本人の記録はありません。周辺勢力の関与も断定できません。
雪の夜、八幡宮の石段付近で実朝が襲撃された
1219年1月27日、右大臣拝賀の儀式後、公暁が実朝を殺害しました。源仲章も義時と間違われて斬られたとされ、公暁は逃走後に討たれました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
実朝が将軍へ
兄頼家の失脚後に就任しました。
右大臣へ昇進
朝廷官職で高位に進みました。
八幡宮へ参詣
拝賀儀式が行われました。
公暁が襲撃
実朝と源仲章が殺されました。
公暁が討たれる
三浦義村邸へ向かう途中で討たれました。
KEY PEOPLE
源実朝暗殺を動かした人物
RELATIONSHIP
源実朝暗殺 将軍家関係図
頼朝・政子の次男実朝と、兄頼家の子公暁をめぐる将軍継承の断絶です。
源 実朝第3代将軍・被害者
北条 政子母・頼朝後家
北条 義時執権・儀式随行予定北条 政子母子源 実朝政子が将軍実朝を支える
北条 義時執権と将軍源 実朝幕政実務と将軍権威を分担
QUESTIONS
よくある疑問
公暁は大銀杏に隠れていたのか
観光伝承として有名ですが、『吾妻鏡』など同時代に近い史料には記載がありません。
父の仇討ちだったのか
史料はそのように語りますが、公暁本人の言葉ではなく、将軍位への期待など複数要因が考えられます。
実朝の死で幕府は終わりかけたのか
将軍家は断絶しましたが、政子・義時と御家人組織が政権を維持し、摂家将軍を迎えました。
IMPACT
その後、何が変わったか
源氏将軍の断絶
頼朝直系の男子による将軍継承が終わりました。
摂家将軍
九条頼経を京都から迎え、将軍と執権の分業が明確になりました。
承久の乱への緊張
皇族将軍交渉の不調と幕府・院の対立が深まりました。
SOURCES


