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足利 義昭の肖像
肖像の出典 ↗Public Domain

PERSONAL FILE / 武将

あしかが よしあき

足利 義昭

信長と協力・対立し、鞆から再興を求めた室町幕府第15代将軍

兄・義輝の死後、僧侶・覚慶から還俗して諸大名へ働きかけ、織田信長と上洛して第15代将軍となった。信長とは命令権をめぐって対立し、1573年に京都を追放されたが、鞆から御内書を発給して幕府再興を求め、1588年まで将軍職を保った。

生没年
1537—1597
主な所属
足利将軍家
関わった出来事
3件
足利 義昭の家紋・足利二つ引両
家紋・紋章足利二つ引両Ash Crow/CC BY 2.5

出典 ↗ CC BY 2.5 ↗

QUICK GUIDE

まず3分でわかる、足利 義昭

WHAT

寺院から脱出し、諸大名を動かして将軍になった

兄・義輝が殺された後、興福寺一乗院を脱出し、近江・若狭・越前を移動して支援者を探しました。1568年、信長の軍事力を得て上洛し、第15代将軍となりました。

CONFLICT

信長の操り人形ではなく、命令権を競った協力者

義昭は幕府の再建と将軍による全国秩序を求め、信長は軍事力と京都支配を広げました。協力して始まった政権は、裁判・外交・軍事動員を誰が主導するかをめぐって破綻しました。

AFTER 1573

京都追放後も将軍として約15年活動した

1573年は京都の幕府機構を失った政治的な終焉です。ただし義昭は鞆から御内書を発給して帰洛を求め、正式に将軍職を辞したのは1588年でした。

LIFE TIMELINE

足利 義昭の生涯年表

  1. 将軍・足利義晴の子として生まれる

    兄は後の第13代将軍・義輝。将軍家の男子でありながら、幼くして奈良の興福寺一乗院へ入り、覚慶と名乗った。

  2. 永禄の変で兄・義輝が殺される

    三好三人衆・松永久通らの軍勢が将軍御所を襲撃した。覚慶も監視下に置かれたが、細川藤孝や一色藤長らの支援で一乗院を脱出した。

  3. 還俗して義秋と名乗る

    近江の和田惟政らを頼り、将軍就任を支える大名を探した。足利一門の義栄も第14代将軍候補として畿内におり、後継争いは一つではなかった。

  4. 越前・一乗谷へ移る

    朝倉義景を頼り、安養寺を御所とした。朝倉氏の保護は得たが、義昭が望む上洛軍の派遣は実現しなかった。

  5. 朝倉館で元服し、義昭と改名

    義景を加冠役として元服した。7月に越前を離れて美濃の織田信長と結び、京都へ向かう軍事力を得た。

  6. 信長と上洛し、第15代将軍となる

    六角氏を退けて京都へ入り、正親町天皇から征夷大将軍に任じられた。義昭の権威と信長の軍事力が結びつく政権が始まった。

  7. 本圀寺で三好方の襲撃を受ける

    信長が京都を離れた間に三好三人衆らが義昭の宿所を攻撃した。幕府方が防ぎ、信長は義昭のために防御力を備えた旧二条城を造営した。

  8. 殿中御掟と五ヶ条の条書

    幕府運営を定める規則や信長から義昭への条書が出された。単純な主従命令だけでなく、共同政権の役割分担と将軍権限をめぐる史料として研究が続く。

  9. 諸大名への調停と反信長勢力の拡大

    義昭は御内書を送り、朝倉・浅井・武田・本願寺などの情勢に関わった。ただし後世にいう『信長包囲網』が、最初から一つの統一作戦だったとは限らない。

  10. 信長に挙兵し、一度講和する

    武田信玄の西進を背景に義昭は二条城で挙兵した。信長軍が京都へ入り、上京を焼いた後、正親町天皇の仲介でいったん講和した。

  11. 槇島城で敗れ、京都を追放される

    再び挙兵して槇島城へ入ったが、信長軍に包囲されて降伏した。京都を拠点に全国政治を動かす幕府はここで失われ、一般に室町幕府滅亡の年とされる。

  12. 河内・和泉・紀伊を移動する

    京都追放後も将軍の称号と奉公衆との関係を保ち、帰洛の支援を求めた。信長がただちに足利将軍の存在そのものを消したわけではない。

  13. 毛利氏を頼って備後・鞆へ入る

    鞆を拠点に近臣を集め、毛利輝元や上杉謙信らへ御内書を送った。現在は『鞆幕府』とも呼ばれるが、当時の正式政権名ではない。

  14. 本能寺の変後、毛利氏へ帰洛支援を求める

    信長が死去すると帰京の機会と捉えたが、毛利氏は直ちに兵を進めず、明智光秀を破った羽柴秀吉が主導権を握った。

  15. 秀吉と会見し、15年ぶりに京都へ戻る

    九州出兵中の秀吉と備後赤坂で会い、島津氏との和平にも関わった。その後、対立を終えて京都へ帰った。

  16. 将軍職を辞し、昌山道休と名乗る

    征夷大将軍を辞任して出家し、足利将軍家による幕府再興を公式に終えた。1573年の政治的終焉と区別すべき節目である。

  17. 大坂で死去

    豊臣政権のもとで余生を送り、慶長2年に没した。寺院の僧から将軍、亡命政権の主、豊臣政権下の旧将軍という四つの立場を生きた。

BIOGRAPHY

足利 義昭は、どんな生涯を送ったか

01

僧侶・覚慶から将軍候補へ――永禄の変が変えた人生

足利義昭は1537年、第12代将軍・足利義晴の子として生まれました。兄の義輝が将軍家を継ぐ一方、義昭は奈良の興福寺一乗院へ入り、覚慶と名乗ります。一乗院は皇族や摂関家の子弟も入る格式の高い門跡寺院でした。将軍家の男子を有力寺院へ入れることは、家の権威と宗教界の結びつきを保ちながら、後継争いを避ける方法でもありました。

1565年の永禄の変で、兄・義輝が三好三人衆・松永久通らの軍勢に殺されると状況が一変します。覚慶も監視下に置かれましたが、細川藤孝、一色藤長、和田惟政らの支援を受けて一乗院を脱出しました。後世には松永久秀が義輝を直接殺した事件と一括されがちですが、襲撃の参加者と指揮系統はより複雑です。義昭の人生は、兄の仇討ち物語だけでなく、崩れた将軍家を誰が継ぐかという政治問題から始まりました。

02

近江・若狭・越前を移動し、支援者を自ら探した

覚慶は還俗して義秋と名乗り、近江の和田惟政を頼りました。その後も若狭、越前へ移り、諸大名へ上洛と将軍就任への協力を求めます。この間、三好方に支えられた足利義栄も第14代将軍となりました。義昭が自動的に唯一の正統後継者として迎えられたのではなく、軍事力と人脈を集めなければ将軍家の地位を実現できない競争の中にいました。

越前では朝倉義景の保護を受け、1568年4月に朝倉館で元服して義昭と改名しました。福井県の年表には、義昭が朝倉氏と加賀一向一揆の和睦を仲介したことも記されます。まだ将軍になる前から、足利家の権威を使って政治交渉を行っていたことが分かります。しかし義景は大軍を率いて京都へ向かわず、義昭は7月に越前を離れ、織田信長を新たな協力者に選びました。

03

1568年の上洛――義昭の権威と信長の軍事力が必要だった

信長は美濃を攻略したばかりで、畿内へ進出する政治的な旗印を必要としていました。義昭には足利将軍家の権威と奉公衆・寺社・大名へ命令を届ける回路がありましたが、京都まで道を開く軍事力がありませんでした。二人の結びつきは、信長が一方的に人形を担いだだけではなく、互いに欠けた資源を補う同盟でした。

1568年9月、信長軍は近江の六角氏を退けて義昭と京都へ入り、10月に義昭は正親町天皇から第15代征夷大将軍に任じられました。義昭は幕府の再建を目指し、信長は京都の治安維持と畿内の軍事行動を主導します。『将軍が名目、信長が実権』と二分するより、異なる権限を持つ二つの中心が並んだため、協力も競合も生じたと見る方が実態に近づきます。

04

義昭政権は何をしたか――裁判・任官・外交を動かした

将軍就任後の義昭は、守護や奉公衆の任命、寺社領・所領争いの裁定、大名間の和睦、朝廷との連絡などを行いました。御内書や奉行人奉書が各地に残ることは、義昭が独自の意思を持つ政治主体だったことを示します。信長の軍がなければ命令を強制できない場面は多くても、幕府の文書行政と社会的権威が空になったわけではありません。

一方、戦国期の幕府は、14世紀の全盛期と同じ財政・軍事基盤を回復できませんでした。義昭は地域大名の軍事力に依存し、信長も将軍の裁定と格式を利用しました。両者の共同政権は、古い幕府が完全復活したものでも、後の織田政権が最初から完成していたものでもありません。移行期の仕組みだからこそ、権限の境界が繰り返し争われました。

05

本圀寺襲撃と旧二条城――守られるだけの将軍ではない

1569年1月、信長が京都を離れている間に、三好三人衆らが義昭の宿所だった本圀寺を襲撃しました。幕府奉公衆や近隣の武将が抗戦して襲撃を退けます。この事件は、義昭政権が信長軍だけでなく、将軍直属・協力勢力の軍事力も持っていたことを示します。同時に、京都で将軍を維持するには、より強固な防御拠点が必要だと明らかになりました。

信長は同年、義昭の御所として旧二条城を造営しました。京都市の発掘・石標資料によれば、城域は現在の京都御苑西側にあたり、二町四方ほどを占めたとされます。1573年の義昭追放後に取り壊され、石材の一部は安土城へ運ばれたと考えられています。現在の世界遺産・二条城は徳川家康が1603年に造った別の城であり、義昭の旧二条城と同じ建物ではありません。

06

信長との対立――性格の不一致ではなく、命令権の衝突

義昭と信長の関係を示す史料として、幕府内部の規則である殿中御掟や、1570年に信長が義昭へ示した五ヶ条の条書があります。信長が義昭の無断の命令や恩賞を問題にした文面から、『信長が将軍の手足を縛った』と説明されてきました。しかし近年の研究は、条書が軍事・政治の役割分担や将軍権限を調整する文書でもあったことを検討しています。

対立の核心は、どちらが京都と諸大名を動かす最終的な命令権を持つかでした。義昭は将軍として大名間の紛争を調停し、官位や栄典、軍事動員へ関与しようとします。信長は戦費と兵力を負担しながら、義昭が自分と敵対する勢力にも働きかけることを受け入れられませんでした。『義昭が恩知らずだった』『信長が最初から幕府を壊そうとした』という性格論だけでは、この制度的な衝突を説明できません。

07

信長包囲網――義昭がすべてを一人で操ったのか

1570年前後、朝倉義景・浅井長政・本願寺顕如・武田信玄など、信長と敵対する勢力が各地で戦いました。義昭は御内書を送り、大名間の和睦や軍事行動に関与しました。このため義昭を『信長包囲網の黒幕』とする説明が広く知られます。確かに1573年には信長打倒を明確に求めましたが、それ以前の書状すべてが最初から統一された包囲作戦を示すわけではありません。

各勢力には独自の目的がありました。浅井・朝倉は近江・越前の存立、本願寺は寺内町と信仰共同体、武田は遠江・三河への進出をめぐって信長・徳川と戦っています。義昭はそれらを結びつけようとしましたが、遠隔地の大名を同時に指揮できる軍事司令部を持ってはいません。『包囲網』は連携の実態を捉える便利な言葉である一方、一人の黒幕が全国を操作した図へ単純化しない注意が必要です。

08

1573年、二度の挙兵と槇島城――なぜ幕府滅亡とされるのか

1573年初め、武田信玄の西進を背景に義昭は信長へ挙兵しました。信長軍は京都へ入り、上京を焼き、正親町天皇の仲介で4月に一度講和します。しかし義昭は7月に再び兵を挙げ、宇治川沿いの槇島城へ入りました。信玄はすでに病没し、朝倉・浅井の援軍も間に合わず、義昭は信長軍に包囲されて降伏しました。

義昭は子を人質として差し出し、京都から河内方面へ退去しました。この時点でも征夷大将軍の官職を直ちに失ったわけではなく、奉公衆や文書発給も一部続きます。それでも京都の御所、奉行組織、軍事力、朝廷と寺社を動かす日常的な政治拠点を失ったため、1573年が室町幕府の政治的な終焉とされます。『幕府がその日に完全消滅した』のではなく、政権として機能する中心を失った節目です。

09

鞆幕府――追放された後も、将軍の文書は届いた

京都追放後の義昭は河内・和泉・紀伊を移り、1576年に毛利氏の勢力圏である備後の鞆へ入りました。文化庁の日本遺産ポータルは、義昭が多数の近臣に支えられ、花押を添えた公帖や御内書を発給し、毛利輝元や上杉謙信らへ上洛協力と打倒信長を訴えたと説明します。将軍の権威は土地を失っても、文書・儀礼・人間関係の回路として残りました。

この亡命的な政治組織は現在『鞆幕府』と呼ばれます。ただし、当時の人々が一貫して用いた正式名称ではなく、京都の幕府と同じ規模の行政・軍事機構が復活したわけでもありません。毛利氏の保護と軍事力に依存しながら、旧幕府の近臣と将軍文書を使って帰洛を目指した政権という意味で捉える必要があります。残存した権威と失われた実力の両方を見る言葉です。

10

本能寺の変後も帰れず、秀吉と和解して将軍職を辞した

1582年に本能寺の変で信長が死ぬと、義昭は毛利氏へ帰洛への協力を求めました。しかし毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らは直ちに京都へ進まず、明智光秀を破った羽柴秀吉が織田家中と畿内の主導権を握ります。義昭が光秀に本能寺の変を命じたとする決定的な同時代史料は確認されていません。信長の死を帰洛の機会と見たことと、事件の黒幕だったことは別です。

1587年、義昭は九州へ向かう秀吉と備後赤坂で会い、島津義久との和平にも関わった後、15年ぶりに京都へ戻りました。翌1588年に将軍職を辞し、出家して昌山道休と名乗ります。1597年に大坂で亡くなるまで、豊臣政権のもとで旧将軍として遇されました。敗れて消えた無力な将軍ではなく、権威を使って二十年以上も支援者を組み替え続け、最後は新しい天下人との和解を選んだ政治家でした。

MATERIAL RECORDS

現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る

史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。

01 / 当時の実物御内書

足利義昭御内書 安国寺恵瓊宛

天正4年(1576)2月8日

義昭が安国寺恵瓊へ送った御内書で、差出人の花押、宛所、寸法を慶應義塾大学がデジタル公開しています。鞆へ入る時期の毛利氏との交渉を、後世の軍記ではなく同時代文書でたどれます。

02 / 当時の実物御内書

足利義昭御内書 小畠国明宛

天正元年(1573)推定・12月24日

京都追放後の義昭が、丹波の国人・小畠国明へ忠節を命じた文書です。摂関家の近衛前久との関係修復を求めたと考えられ、拠点を失った後も将軍文書で政治活動を続けたことを示します。

03 / 当時の実物古文書

島津家文書に残る足利義昭御内書

戦国時代国宝・島津家文書の一部

島津家へ伝わった大規模文書群には足利義昭の御内書も含まれます。遠隔地の大名へ将軍の意思を伝える文書ネットワークと、豊臣政権との和平へ至る関係を考える一次史料です。

04 / 当時の実物城郭遺構

旧二条城跡の石垣・堀跡

永禄12年(1569)造営

義昭の御所として信長が造営した城郭の石垣・堀などが、京都市の発掘調査で確認されています。将軍が実際に政治と防衛の拠点を持ったことを、文献だけでなく都市遺構から示します。

05 / 後世の作品木像

等持院霊光殿の足利義昭坐像

後世の造像

足利将軍家の菩提寺・等持院に安置される歴代将軍木像の一つです。現在の主画像はこの義昭坐像を1941年刊行書に掲載した写真で、後世の将軍顕彰と記憶を伝えます。

HISTORICAL ROLE

足利 義昭は、その時何をしたか

ACHIEVEMENTS & LIMITS

何を成し遂げ、何が分からないか

AGENCY

待つだけでなく、支援者を選び直した

一乗院脱出後、近江・若狭・越前・美濃を移り、朝倉義景から織田信長、追放後は毛利輝元、最後は豊臣秀吉へ交渉相手を変えました。将軍家の権威を政治資源として使う行動力がありました。

GOVERNMENT

短い在京期にも幕府行政を再編した

奉公衆・奉行人を集め、所領裁定、任官、外交、大名間の調停を行いました。軍事を信長に依存したことと、義昭政権が実務を持ったことは両立します。

CONFLICT

信長との協力を、権限争いへ変えた

二人は上洛時には互いを必要としましたが、全国への命令、恩賞、軍事行動を誰が決めるかで衝突しました。共同政権を維持できなかった政治責任は双方の選択から考える必要があります。

RESILIENCE

追放後も約15年、将軍権威を維持した

鞆で近臣を抱え、御内書を発給し、諸大名へ帰洛を求めました。領地と軍事力を失っても、足利将軍の格式と文書は政治的価値を持ち続けました。

LIMIT

権威を軍事・財政へ変える力に限界があった

遠隔地の大名を同時に動かせず、信玄死去、毛利氏の慎重姿勢、秀吉の台頭を覆せませんでした。政治的な粘り強さと、独立した政権基盤を作れなかった限界を同時に評価すべきです。

RELATIONSHIPS

足利 義昭を取り巻く人と組織

父・第12代将軍

足利 義晴

義昭と義輝の父。戦乱の京都を離れることも多く、弱体化した将軍権力の再建を課題として残した。

兄・第13代将軍

足利 義輝

1565年の永禄の変で殺害された。義昭が僧侶から将軍後継者へ転じる直接の契機となった。

将軍位を争った第14代将軍

足利 義栄

三好方の支援で将軍となった足利一門。義昭の後継争いが単純な一本線ではなかったことを示す。

近江で支えた幕臣

和田 惟政

脱出後の義昭を保護し、信長との連携や上洛後の幕府運営に関わった。

越前で保護した大名

朝倉 義景

一乗谷で義昭を歓待し元服を支えたが、義昭が望む上洛軍を派遣しなかった。

上洛の協力者・後の敵

織田 信長人物詳細 →

義昭を奉じて京都へ入り、共同で政権を動かした。命令権をめぐって対立し、1573年に義昭を追放した。

将軍宣下・講和仲介

正親町天皇人物詳細 →

1568年に義昭を征夷大将軍へ任じ、1573年の最初の衝突では信長との講和を仲介した。

幕府と信長を結んだ武将

明智 光秀人物詳細 →

義昭周辺から信長家臣となり、京都政務を担った。

注:義昭が光秀へ本能寺の変を命じたとする決定的史料はない。
反信長戦で期待した大名

武田 信玄人物詳細 →

1572年から徳川領へ西進し、義昭の挙兵を後押しする情勢を作ったが、1573年に病没した。

信長と戦った宗教勢力の指導者

本願寺 顕如

大坂本願寺を中心に信長と長期抗争を続け、義昭の反信長連携に関わった。

鞆での保護者

毛利 輝元人物詳細 →

義昭を勢力圏内へ迎え、鞆での政治活動を支えたが、大軍を率いて帰洛する要求には慎重だった。

毛利氏との交渉相手

安国寺 恵瓊

義昭の1576年御内書の宛先となり、毛利氏と中央政局を結ぶ外交僧として関わった。

信長死後の新たな天下人

豊臣 秀吉人物詳細 →

1587年に義昭と会見し、帰京を受け入れた。義昭は翌年に将軍職を辞した。

和平を仲介した相手

島津 義久人物詳細 →

秀吉の九州平定時、義昭は島津氏との和睦に関わり、旧将軍の仲介力を示した。

MYTHS & UNCERTAINTIES

伝承と史実を分けて見る

?

足利義昭は信長の操り人形だった?

信長の軍事力へ強く依存しましたが、義昭は独自に御内書・奉行人奉書を発給し、任官、裁判、調停、軍事動員へ関与しました。従属だけでなく、異なる権限を持つ協力者として見る必要があります。

?

義昭が『信長包囲網』をすべて作った?

義昭が反信長勢力へ働きかけたことは確かです。ただし朝倉・浅井・武田・本願寺にはそれぞれ固有の戦争目的があり、最初から義昭の統一指揮下にあった一つの同盟とは言い切れません。

?

五ヶ条の条書で将軍権限をすべて奪われた?

信長が義昭の政治行動を制約した面はありますが、研究では共同政権の役割分担や軍事関係を調整する文書としても検討されています。一文書だけで義昭が完全に無権力になったとはいえません。

?

室町幕府が滅びたのは1573年、それとも1588年?

1573年は義昭が京都の政権拠点を失った政治的終焉、1588年は本人が征夷大将軍を辞した制度上の節目です。何をもって『幕府』と呼ぶかで区切りが異なります。

?

『鞆幕府』は当時の正式名称?

現代の研究・地域史で使われる呼称で、当時の一貫した正式政権名ではありません。義昭と近臣が文書を発給した実態はありますが、京都時代と同規模の行政機構ではありません。

?

義昭は本能寺の変の黒幕だった?

信長死後に帰洛を求めた御内書はありますが、事件前に明智光秀へ信長殺害を命じた決定的な同時代史料は確認されていません。事件を利用しようとしたことと、計画したことは別です。

?

永禄の変は松永久秀一人の犯行?

襲撃には三好三人衆、松永久通ら複数の勢力が関わりました。久秀本人の直接参加を含め、後世の『悪人・松永久秀』像だけで指揮系統を単純化できません。

?

旧二条城は現在の二条城?

別の城です。義昭の旧二条城は現在の京都御苑西側にあり、1573年以後に解体されました。現在の元離宮二条城は徳川家康が1603年に造営を始めました。

?

主画像は義昭の生前肖像?

等持院霊光殿の足利義昭木像を撮影したものですが、像は後世の造像で、生前の写生像と確認できません。本人の容貌より、足利将軍を記憶した後世の表現として掲載しています。

READ, THEN WALK

足利 義昭の時代を、京都でたどる

京都御所・平安宮跡から二条城、本能寺跡・現在の本能寺、木屋町・高瀬川まで、政治の舞台を一日でつなぎます。

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FAMILY TREE

足利 義昭の家系図

父・第12代将軍足利 義晴
兄・第13代将軍足利 義輝
本人・第15代将軍足利 義昭
子義尋

将軍職につながる主要な家族を抜粋しています。

PLACES

足利 義昭の足跡を現地でたどる

奈良・覚慶時代の門跡

旧一乗院宸殿

義昭が覚慶として入っていた興福寺一乗院の後身建物。現建物は1650年再建で、1964年に唐招提寺へ移築されたため、義昭が暮らした16世紀の建物そのものではない。

京都・室町幕府終焉の地

槇島城跡

1573年7月、義昭が信長に最後の抵抗を行った宇治川沿いの城。河川改修や市街化で当時の地形は変わり、城域の細部には検討が残る。

広島・亡命政権の拠点

鞆の浦・鞆の浦歴史民俗資料館

1576年から義昭が毛利氏の庇護を受け、帰洛を求める政治活動を続けた港町。資料館周辺から鞆城跡と瀬戸内の海上交通を見渡せる。

京都・足利将軍家の菩提寺

等持院

霊光殿に義昭を含む足利歴代将軍の木像を安置する。主画像となった木像は後世の作品であり、生前肖像ではなく将軍家の記憶を伝える資料として見る。

RELATED PEOPLE

FAQ

足利 義昭についてよくある質問

Q01足利義昭は何をした人ですか?

室町幕府第15代将軍です。織田信長の軍事力で1568年に上洛して幕府を再建しましたが、命令権をめぐって信長と対立し、1573年に京都を追放されました。その後も鞆から約15年、将軍として帰洛を求めました。

Q02足利義昭はなぜ織田信長と対立したのですか?

義昭は将軍として大名の調停・任官・軍事動員を主導しようとし、信長は自らの軍事力と京都支配に合う命令系統を求めたからです。個人的な不仲だけでなく、共同政権の最終決定権をめぐる衝突でした。

Q03足利義昭は織田信長の操り人形だったのですか?

完全な操り人形ではありません。信長の軍事力へ依存した一方、独自に御内書を発給し、幕府奉行人・奉公衆を動かして裁判、外交、任官、調停を行いました。

Q04室町幕府はいつ滅亡したのですか?

一般には義昭が京都を追放された1573年です。ただし義昭はその後も征夷大将軍として文書を発給し、正式に将軍職を辞したのは1588年でした。政治的終焉と官職辞任を分ける必要があります。

Q05信長包囲網を作ったのは足利義昭ですか?

義昭は反信長勢力へ積極的に働きかけましたが、朝倉・浅井・武田・本願寺などには独自の利害がありました。最初から全軍を義昭が統一指揮した一つの同盟ではありません。

Q06鞆幕府とは何ですか?

京都追放後の義昭が、毛利氏の庇護を受けて備後・鞆に置いた亡命的な政治組織を指す現代の呼称です。近臣と文書発給は続きましたが、京都時代と同規模の幕府が復活したわけではありません。

Q07足利義昭は本能寺の変の黒幕ですか?

黒幕と断定できません。信長の死後、義昭が毛利氏へ帰洛支援を求めたことは史料で確認できますが、事件前に光秀へ信長殺害を命じた決定的な同時代史料はありません。

Q08足利義昭は京都追放後どうなりましたか?

河内・和泉・紀伊を移った後、1576年に備後の鞆へ入り、毛利氏の支援で幕府再興を求めました。1587年に秀吉と和解して帰京し、1588年に将軍職を辞しました。

Q09足利義昭と豊臣秀吉は敵だったのですか?

当初は義昭の帰洛を阻む新たな実力者でしたが、1587年に会見して和解しました。義昭は島津氏との和平にも関わり、京都へ戻った後は豊臣政権のもとで旧将軍として遇されました。

Q10足利義昭ゆかりの場所はどこですか?

奈良の旧一乗院、一乗谷朝倉氏遺跡、京都の旧二条城跡と槇島城跡、広島県福山市の鞆の浦、足利将軍像を伝える等持院が代表的です。現在の二条城と旧二条城は別の城です。

SOURCES

この記事の主な史料・参考資料

OFFICIAL福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館・朝倉氏の歴史覚慶の一乗院脱出、越前逗留、安養寺御所、元服と信長を頼った経緯を確認。資料を確認 ↗ARCHIVE福井県文書館・福井県史年表 1561—1580年1567年の一乗谷入り、1568年の和睦仲介、元服、越前出発と上洛の日付を確認。資料を確認 ↗OFFICIAL京都市・旧二条城跡1569年造営、城域、1573年の義昭追放後に解体された経緯を確認。資料を確認 ↗ARCHAEOLOGY京都市文化市民局・旧二条城跡調査報告堀・石垣と城域、京都の都市構造における旧二条城の特徴を確認。資料を確認 ↗OFFICIAL京都市・京都の歴史年表1568年の信長・義昭入京と旧二条城、1573年の上京焼き討ちを確認。資料を確認 ↗OFFICIAL京都市伏見区・伏見区の歴史1573年の義昭降伏と室町幕府崩壊の位置づけを確認。資料を確認 ↗OFFICIAL文化庁・日本遺産ポータル『足利義昭と鞆』1576年の鞆入り、近臣と文書発給、本能寺後の帰洛要求、1587年帰京、1588年辞任を確認。資料を確認 ↗OFFICIAL福山市・鞆町の歴史(古代から中世)毛利氏のもとでの鞆入り、包囲網への働きかけ、秀吉との講和を確認。資料を確認 ↗PRIMARY慶應義塾大学・足利義昭御内書 安国寺恵瓊宛1576年2月8日付、義昭花押を持つ御内書の原資料情報と画像を確認。資料を確認 ↗PRIMARY國學院大學図書館・足利義昭御内書1573年と推定される京都追放後の御内書と、近衛前久との関係修復を求めた解題を確認。資料を確認 ↗CULTURAL PROPERTY文化庁・国宝 島津家文書足利義昭御内書を含む島津家の政治・外交文書群の指定情報を確認。資料を確認 ↗RESEARCH久野雅司『織田信長と足利義昭の政治・軍事的関係』五ヶ条の条書、将軍権限、信長との政治・軍事関係を検討した2020年の研究。資料を確認 ↗HISTORIOGRAPHY東京大学史料編纂所『大日本史料 第十編之十四』1573年の義昭挙兵・追放と当時の政治過程を編年史料から確認。資料を確認 ↗OFFICIAL奈良県・重要文化財 旧一乗院宸殿、殿上及び玄関一乗院が格式高い門跡寺院だったこと、現建物は1650年再建・唐招提寺移築であることを確認。資料を確認 ↗OFFICIAL京都市公式京都観光Navi・等持院足利将軍家の菩提寺と歴代将軍木像、現在の拝観情報を確認。資料を確認 ↗