戦国時代 / 永禄11年
永禄11年
信長上洛
織田信長が足利義昭を奉じて京都へ入り、義昭を第15代将軍に就ける。信長の畿内支配が始まった。
信長は『将軍を京都へ戻す』という大義と軍事力を組み合わせ、畿内の政治へ参入した。しかし義昭が望む幕府再建と、信長が進める支配の仕組みは次第に衝突する。
- 場所
- 山城国・京都
- 天皇
- 正親町天皇第106代天皇
- 関係人物
- 4名

OVERVIEW
信長上洛を4段階で理解する
将軍義輝の死後、京都の政治秩序は不安定になっていた
1565年に13代将軍・足利義輝が殺害され、弟の義昭は将軍就任を目指して各地の大名に支援を求めました。美濃を攻略して岐阜を本拠にした信長は、義昭を擁立することで畿内へ進む大義を得ます。
義昭は将軍職を、信長は畿内進出の正統性を必要としていた
両者の利害は当初一致していました。義昭には京都へ入る軍事力がなく、信長には諸勢力を服属させる政治的な旗印が必要でした。六角氏を破って近江を通過し、短期間で京都へ到達します。
義昭が将軍となり、信長は京都の治安と政治を主導した
信長は三好方を畿内から退け、義昭は正親町天皇から将軍宣下を受けました。信長は京都の治安維持、所領争いの裁定、新たな将軍御所の建設を進め、幕府を支える立場から実権を広げます。
共同政権は長続きせず、命令権をめぐる対立が表面化した
信長は義昭の政治行動を制約する条書を出し、義昭は諸大名へ働きかけて信長に対抗しました。朝倉・浅井・武田・本願寺などとの包囲網が形成され、1573年の義昭追放へつながります。
DEEP DIVE
信長はなぜ、自ら将軍にならず足利義昭を奉じて京都へ入ったのか。
当時の政治では、足利将軍家の権威と命令系統がなお意味を持っていました。義昭の将軍就任を支えることで、信長は軍事行動を私戦ではなく幕府再興として説明できました。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
永禄の変
13代将軍・義輝が三好三人衆らに殺害され、将軍権力の空白と後継争いが生まれました。
信長の美濃攻略
稲葉山城を攻略して岐阜へ移り、近江を経て京都へ進出できる地理的条件を整えました。
義昭の諸国への働きかけ
越前の朝倉義景らにも支援を求めましたが実現せず、最終的に信長と結びつきました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
将軍義輝が殺害される
弟の義昭は京都を脱出し、将軍就任の支援者を探しました。
信長が岐阜を本拠とする
美濃攻略を終え、『天下布武』の印を用い始めます。
信長軍が近江へ進軍
抵抗した六角氏を破り、京都への経路を確保しました。
信長・義昭が入京
三好方は畿内から後退し、信長が京都の治安を掌握しました。
義昭が第15代将軍に就任
幕府再建が始まる一方、信長の影響力も制度化されました。
KEY PEOPLE
信長上洛を動かした人物
RELATIONSHIP
信長上洛 人物相関図
永禄11年(1568)、軍事力を持つ信長と将軍職を望む義昭が協力し、朝廷からの将軍宣下へ至る関係を示します。
織田 信長義昭を奉じて上洛
明智 光秀義昭と信長をつなぐ
足利 義昭第15代将軍に就任
正親町天皇将軍宣下を行う天皇織田 信長擁立・協力足利 義昭信長の軍事力で義昭の入京を実現
足利 義昭将軍宣下正親町天皇正親町天皇から征夷大将軍に任じられる
織田 信長主従明智 光秀光秀は京都政務と将軍家との連絡を担う
QUESTIONS
よくある疑問
『天下布武』は全国統一宣言か
『天下』が畿内・京都の秩序を指す用例もあり、最初から全国征服だけを意味したかは検討が必要です。
義昭は信長の操り人形だったのか
義昭は独自に御内書を発給し、諸大名を調停・動員しようとしました。両者は協力者であると同時に権限を競う存在でした。
幕府は1568年に復活したのか
将軍御所や奉公衆は再編されましたが、軍事と財政を信長に依存し、従来と同じ幕府へ戻ったわけではありません。
IMPACT
その後、何が変わったか
信長の畿内支配
京都を押さえ、朝廷・幕府・寺社・商人との交渉を直接担う全国政治の中心人物になりました。
義昭幕府の再建
足利将軍の権威は一時回復しましたが、実力を持つ信長との二重構造が新たな対立を生みました。
信長包囲網へ
義昭は反信長勢力を結びつけ、浅井・朝倉、本願寺、武田氏との長期戦につながりました。
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京都の歴史を、現地で重ねる
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