戦国時代 / 元亀2年
元亀2年今から約455年前
比叡山焼き討ち
織田信長軍が比叡山延暦寺を攻撃し、堂塔や山麓の集落を焼いた。宗教勢力と戦国大名の対立、軍事拠点化、非戦闘員被害を考える事件となった。
被害規模や焼失範囲は史料ごとに差があり、後世の誇張を含む可能性も議論される。しかし軍事攻撃が行われ、多数の人々が殺害され、延暦寺の政治・軍事力が大きく損なわれたことは確かである。
- 場所
- 近江国・比叡山
- 天皇
- 正親町天皇第106代天皇
- 関係人物
- 3名

OVERVIEW
比叡山焼き討ちを4段階で理解する
延暦寺は宗教権威だけでなく、広い所領と軍事力を持つ政治勢力だった
比叡山は京都の鬼門を守る寺院として朝廷と深く結びつき、僧兵や山麓の坂本を通じて政治・経済へ影響しました。内部には複数の集団があり、常に一枚岩だったわけではありません。
浅井・朝倉との戦争で、信長は比叡山を敵方の軍事拠点とみなした
1570年の志賀の陣で浅井・朝倉軍が比叡山周辺へ入り、信長と対陣しました。講和後も信長は延暦寺が敵を支援したとして圧力を強めます。
1571年9月、山上・山麓へ軍を進め、放火と殺害が行われた
織田軍は坂本側から攻撃し、寺院施設と集落を焼きました。僧侶だけでなく、女性や子どもを含む非戦闘員が被害を受けたと記す史料があります。
延暦寺は後に再興されたが、戦国期の独立した軍事力を失った
信長死後、豊臣秀吉・徳川家康の時代に堂塔が再建されました。寺院は存続した一方、武装勢力として政治へ介入する条件は大きく変化しました。
DEEP DIVE
比叡山焼き討ちは、宗教弾圧だったのか、軍事作戦だったのか。
信長は延暦寺を敵対する政治・軍事勢力として攻撃しましたが、結果は宗教施設の破壊と非戦闘員の大量被害を伴いました。どちらか一方に限定せず、宗教・政治・軍事が分かれていなかった中世社会の構造から考える必要があります。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
延暦寺は宗教権威だけでなく、広い所領と軍事力を持つ政治勢力だった
比叡山は京都の鬼門を守る寺院として朝廷と深く結びつき、僧兵や山麓の坂本を通じて政治・経済へ影響しました。内部には複数の集団があり、常に一枚岩だったわけではありません。
浅井・朝倉との戦争で、信長は比叡山を敵方の軍事拠点とみなした
1570年の志賀の陣で浅井・朝倉軍が比叡山周辺へ入り、信長と対陣しました。講和後も信長は延暦寺が敵を支援したとして圧力を強めます。
1571年9月、山上・山麓へ軍を進め、放火と殺害が行われた
織田軍は坂本側から攻撃し、寺院施設と集落を焼きました。僧侶だけでなく、女性や子どもを含む非戦闘員が被害を受けたと記す史料があります。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
志賀の陣
浅井・朝倉軍が比叡山周辺へ入り、信長軍と対峙しました。
朝廷仲介で講和
正親町天皇の勅命を用いた講和で一度軍が引きます。
織田軍が攻撃
山麓から包囲し、堂塔・僧坊・集落を焼きました。
所領を没収
延暦寺の経済・軍事基盤は大きく解体されました。
再興が進む
豊臣・徳川政権の保護を受け、宗教施設として再建されます。
KEY PEOPLE
比叡山焼き討ちを動かした人物
QUESTIONS
よくある疑問
死者数は何人だったのか
『信長公記』などに多数の犠牲が記されますが、具体的な人数や範囲は確定できません。数字を断定せず、史料の性格を確認する必要があります。
信長は仏教そのものを敵視したのか
他の寺社を保護・利用した例も多く、仏教一般の排除とはいえません。軍事・政治的に敵対した宗教勢力へ強硬策を採りました。
家臣は命令に反対できたのか
後世の物語には反対や逡巡が描かれますが、確実な同時代記録は限られます。家臣個人の心情は創作と史料を分けて扱うべきです。
IMPACT
その後、何が変わったか
宗教勢力の軍事力低下
延暦寺の所領と武装基盤が失われ、畿内政治へ介入する力が縮小しました。
信長権力の恐怖と威信
敵対勢力への徹底した攻撃は服属を促す一方、強い反発と記憶を残しました。
戦争と民間被害
寺社攻撃を武将同士の戦いだけでなく、山内・山麓で暮らす人々の被害から考える必要を示します。
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