地図と人物でたどる、日本の時間。

1584年の島津義久黒印状の写し
黒印状の出典 ↗Public Domain

PERSONAL FILE / 武将

しまづ よしひさ

島津 義久

三州を統一し、九州制覇へ迫った島津氏当主

島津氏第16代当主。弟の義弘・歳久・家久らと連携して薩摩・大隅・日向の三州を統一し、耳川の戦いや沖田畷の戦いを経て九州の大部分へ勢力を広げた。1587年、豊臣秀吉の九州攻めに降伏した後も島津家の存続を図った。本人を確実に描いた肖像は限られるため、ここでは発給文書を主画像としている。

生没年
1533—1611
主な所属
島津家
関わった出来事
3
島津 義久の家紋・島津十文字
家紋・紋章島津十文字Mukai/CC BY-SA 3.0

出典 ↗ CC BY-SA 3.0

QUICK GUIDE

まず3分でわかる、島津 義久

WHAT

島津氏を率いて九州制覇へ迫った当主

薩摩・大隅・日向を統一し、弟たちと各方面の軍事を進めて大友氏・龍造寺氏を圧迫しました。

ROLE

有名な義弘の兄で、島津家全体の意思決定者

合戦で名高い義弘だけでなく、当主・義久の外交、領地配分、家臣統制が島津氏の拡大を支えました。

CAUTION

九州統一は完成前に秀吉軍が来た

九州の大部分へ進出しましたが、北部の支配は固まらず、豊臣政権の大軍に降伏しました。完全な行政統一を終えたわけではありません。

LIFE TIMELINE

島津 義久の生涯年表

  1. 島津貴久の嫡男として生まれる

    島津宗家の後継者として育った。

  2. 家督を継ぐ

    第16代当主となり、弟たちと薩摩・大隅・日向の統合を進めた。

  3. 耳川で大友軍を破る

    日向の高城をめぐる戦いに勝利し、九州南部の優位を確立した。

  4. 沖田畷で龍造寺隆信を破る

    有馬氏を支援し、北部九州の勢力均衡を変えた。

  5. 秀吉に降伏

    豊臣軍の九州攻めを受け、剃髪して島津家の存続を求めた。

  6. 関ヶ原期の島津家を調整

    義弘が西軍に属する一方、義久は領国に残り、戦後の家康との交渉を進めた。

  7. 国分で死去

    島津家の領国は江戸時代の薩摩藩へつながった。

BIOGRAPHY

島津 義久は、どんな生涯を送ったか

01

当主と弟たちで進めた三州統一

義久は父・貴久から家督を継ぎ、義弘・歳久・家久ら弟たちを各方面の軍事と領国支配へ配置しました。『島津四兄弟』の結束は有名ですが、常に意見が一致したわけではなく、当主としての義久の調整が必要でした。

薩摩・大隅の反対勢力を抑え、伊東氏を日向から退けることで三州統一を進めます。個々の合戦の勇猛さだけでなく、降伏した国人の再編と領地配分が拡大を支えました。

02

耳川・沖田畷から九州の大部分へ

1578年の耳川では大友軍を破り、1584年の沖田畷では有馬氏を支援して龍造寺隆信を討ち取りました。九州の二大勢力が後退し、島津氏は北部へ急速に進出します。

しかし新たに従った地域の支配はまだ不安定でした。九州制覇へ迫ったという最大領域と、長期間維持できる統治の完成を分けて見る必要があります。

03

秀吉への降伏と、関ヶ原後の家存続

1587年、豊臣秀吉が全国の大名を動員して九州へ進むと、島津軍は後退しました。義久は剃髪して降伏し、薩摩・大隅を中心とする本領の多くを認められます。

関ヶ原では弟・義弘が西軍側で戦いましたが、義久は領国に残りました。戦後は徳川家康との交渉を重ね、島津家の所領安堵へつなげます。義弘の戦場での名声と、義久の当主・外交者としての役割を区別することが重要です。

HISTORICAL ROLE

島津 義久は、その時何をしたか

ACHIEVEMENTS & LIMITS

何を成し遂げ、何が分からないか

ACHIEVEMENT

一族と国人を束ね、九州最大級の勢力をつくった

弟たちの軍事力と当主の外交・領地配分を組み合わせ、三州統一から北部九州へ進みました。

SURVIVAL

敗北後も島津家の領国を残した

秀吉への降伏と関ヶ原後の交渉で、戦国期の支配を江戸時代の薩摩藩へつなぎました。

LIMIT

後継者と一族内調整に課題を残した

実子男子がなく、義弘・忠恒らとの権限と家督をめぐる調整は長く続きました。

RELATIONSHIPS

島津 義久を取り巻く人と組織

弟・軍事面の中心

島津義弘人物詳細 →

耳川、朝鮮出兵、関ヶ原などで武名を高めた。義久とは役割が異なる。

弟・沖田畷の指揮者

島津家久

沖田畷などで軍事的成功を収め、豊臣軍との戦いの途中で死去した。

九州攻めを行った天下人

豊臣秀吉人物詳細 →

義久を降伏させ、島津家を豊臣政権の大名として再編した。

九州東部の対抗者

大友宗麟

日向・豊後をめぐり対立し、耳川の戦いで大友軍が敗れた。

北部九州の対抗者

龍造寺隆信

沖田畷の戦いで島津・有馬軍に敗れ、戦死した。

MYTHS & UNCERTAINTIES

伝承と史実を分けて見る

?

義久と義弘、島津家の中心はどちら?

義弘は合戦で有名ですが、宗家当主は義久です。家全体の外交・領国支配と、戦場の指揮を分けて見ます。

?

島津氏は九州を統一した?

九州の大部分へ進出しましたが、豊臣軍の侵攻時には北部の支配が固まっておらず、完全な行政統一は完成していません。

?

義久の確実な肖像はある?

一般に流通する画像には現代の想像画や後世の像も含まれます。このページでは本人名義の黒印状を主画像にし、肖像と誤認させません。

FAMILY TREE

島津 義久の家系図

島津 貴久
本人島津 義久
島津 義弘人物詳細 →
島津 歳久
島津 家久

島津四兄弟の主要関係を抜粋。義久に実子の男子はなく、家督継承は弟や甥を含む一族内の調整となりました。主画像は肖像ではなく、本人名義で発給された黒印状の写しです。

PLACES

島津 義久の足跡を現地でたどる

島津氏の歴史資料拠点

鹿児島城跡・黎明館

近世の鹿児島城跡に建ち、島津氏と鹿児島の歴史を展示する。

地図で見る ↗
義久期の本拠

内城跡周辺

鹿児島市大竜町周辺にあった島津氏の居城。現在の鹿児島城とは異なる。

地図で見る ↗

FAQ

島津 義久についてよくある質問

Q01島津義久は何をした人ですか?

島津氏第16代当主として薩摩・大隅・日向を統一し、弟たちと九州の大部分へ勢力を広げました。秀吉への降伏後も家を存続させました。

Q02島津義久と島津義弘はどう違いますか?

義久は兄で島津宗家の当主、義弘は弟で主要な軍事指揮官です。家全体の外交・領国支配と、合戦での役割を分けて考えると分かりやすくなります。

Q03島津義久は九州を統一しましたか?

九州の大部分へ勢力を広げましたが、北部の支配を固める前に秀吉の九州攻めを受けました。完全な統一を終えたとは言い切れません。

Q04なぜ肖像ではなく書状が表示されているのですか?

本人を確実に描いた利用可能な肖像が限られ、現代の想像画を本人像として見せないためです。1584年の黒印状の写しを史料として掲載しています。

SOURCES

この記事の主な史料・参考資料