
PERSONAL FILE / 武将
しまづ よしひさ島津 義久
三州を統一し、九州制覇へ迫った島津氏当主島津氏第16代当主。父・貴久と弟の義弘・歳久・家久らを率いて薩摩・大隅・日向を統合し、耳川・沖田畷を経て九州の大部分へ勢力を広げた。1587年に豊臣秀吉へ降伏した後も当主としての実権を保ち、豊臣政権による家中分割、後継者問題、関ヶ原後の徳川氏との講和に向き合った。義弘の武名と区別し、外交・文書発給・領国経営を担った総大将として見る必要がある。
- 生没年
- 1533—1611
- 主な所属
- 島津家
- 関わった出来事
- 9件

QUICK GUIDE
まず3分でわかる、島津 義久
薩摩・大隅・日向を統合し、九州制覇へ迫った当主
父・貴久の事業を継ぎ、弟・家臣・服属した国人を配置して三州を統一。大友氏・龍造寺氏を後退させ、北部九州まで軍事的影響力を広げました。
義弘が前線なら、義久は家全体を動かす総大将
義弘・家久らが現地指揮で名を上げる一方、義久は宗家当主として派兵、外交、領地配分、文書発給を統括しました。兄弟の戦功をすべて義久個人の戦術にしません。
1587年の降伏後も、正式な家督移譲は確認できない
秀吉は義弘を対外的な代表として扱いましたが、義久は国元の実権を保ちました。『義弘が第17代を継いだ』という通説と同時代史料を分けて見ます。
LIFE TIMELINE
島津 義久の生涯年表
島津貴久の嫡男として生まれる
伊作島津家から宗家を継いだ貴久と雪窓夫人の長男として生まれ、祖父・忠良のもとで宗家後継者として育った。
岩剣城攻めで初陣
義弘・歳久とともに大隅の岩剣城を攻めた。のちに『島津四兄弟』とまとめられる兄弟分担の出発点だが、末弟・家久はまだ幼かった。
相良氏へ起請文を発給
当主継承前の義久が相良氏へ誓約を示した原文書が残る。武力だけでなく、起請文と交渉で周辺勢力との関係を調整していた。
島津氏第16代当主となる
父・貴久から家督を継承。義弘・歳久・家久や家老を各地域へ配置し、薩摩・大隅・日向の統合を進めた。
肝付氏が降伏
大隅で最後まで抵抗した有力勢力を降し、薩摩・大隅二国の支配をほぼ固めた。降伏者を家臣・地域領主として組み込む再編も必要だった。
伊東氏を日向から退け、三州統一
伊東義祐が豊後へ退き、島津氏は薩摩・大隅・日向をほぼ統合した。父・貴久から二代にわたる事業の到達点だった。
高城川・耳川の戦いで大友軍を破る
山田有信が守る高城を救援し、大友軍を敗走させた。主戦場は高城川周辺で、追撃が耳川方面へ及んだ一連の戦闘である。
相良氏を降伏させ肥後へ進出
水俣城をめぐる圧力で相良氏を従え、肥後南部へ支配を広げた。九州北上の軍事・外交拠点が整った。
琉球渡海の印判状を発給
船頭へ琉球渡海を認める印判状を出した。南九州の当主として、海上交通と交易を統制する権限も行使していた。
沖田畷で龍造寺隆信を破る
有馬晴信の救援要請に応じて軍を派遣し、有馬・島津連合軍が龍造寺隆信を敗死させた。現地指揮は弟・家久が担った。
筑前・豊後へ進出
豊後府内へ迫り、九州の大部分に軍事的影響力を及ぼした。ただし北部の諸勢力を長期的な行政支配へ組み込む前に豊臣軍が来た。
根白坂で敗れ、泰平寺で秀吉に降伏
豊臣秀長軍との根白坂の戦いに敗れ、義久は剃髪して龍伯と号した。5月8日、薩摩川内の泰平寺で豊臣秀吉に正式降伏した。
島津領を分けて安堵される
薩摩は義久、大隅は義弘、日向諸県郡は義弘の子・久保へ宛行われた。豊臣政権は一体だった島津領を複数の権力単位へ分けて統制した。
梅北一揆と歳久の死
朝鮮出兵動員の途上で家臣・梅北国兼が反乱。秀吉の追及を受け、義久・義弘は弟・歳久を討つ決定を迫られた。四兄弟が常に一枚岩だったわけではない。
後継候補・久保が朝鮮で病死
義弘の子で義久の娘・亀寿の夫だった久保が死去。義久に男子がいない島津宗家は、後継選定をやり直す必要に迫られた。
富隈城へ移る
豊臣政権の検地と領地再編のなかで鹿児島内城を離れ、大隅の富隈城へ移った。海岸に近い拠点から交易と地域支配を進めた。
庄内の乱と後継者・忠恒
後継者となった忠恒が伊集院忠棟を殺害し、子・忠真が反乱。義久・義弘を含む『両殿』と次代当主の権限調整が家中の大問題になった。
関ヶ原敗戦から本領維持へ
義弘が西軍に属して敗れた一方、義久は国元に残った。忠恒や家老を通じた徳川方との交渉を経て、島津氏は本領を維持した。
国分新城へ移る
国分新城(舞鶴城)を築いて移住。城下の整備、寺社の再興、交通と交易を重視する晩年の拠点とした。
国分で死去
1月21日、国分で死去。鹿児島の福昌寺に葬られ、霧島市の金剛寺跡と徳持庵跡にも墓所・分骨墓が残る。
BIOGRAPHY
島津 義久は、どんな生涯を送ったか
父・貴久から継いだ、二代がかりの三州統一
島津義久は1533年、島津貴久の嫡男として生まれました。貴久が宗家当主の地位を固めた時点でも、島津氏が直接支配していたのは薩摩の一部にすぎません。義久は1554年の岩剣城攻めで義弘・歳久と初陣し、1566年に第16代当主となりました。
肝付氏の降伏、伊東氏の豊後退去を経て、1577年に薩摩・大隅・日向の三州をほぼ統合します。これは義久一人の征服ではありません。父の政治基盤、弟たちの前線指揮、家老の行政、降伏した国人の再配置が組み合わさった、二代がかりの領国形成でした。
義弘・家久の武名と、義久の総大将としての仕事
島津義弘は木崎原や朝鮮、関ヶ原で名を上げ、家久は沖田畷や戸次川で現地指揮を執りました。そのため物語では、義久が弟たちの戦功に隠れがちです。しかし宗家当主の義久は、どこへ誰を派遣するか、どの国人と和睦するか、得た領地を誰に任せるかを決める立場でした。
1562年の相良氏宛起請文、家臣や寺院への書状、琉球渡海を認める印判状は、義久の仕事が戦場だけではなかったことを示します。『義弘が戦い、義久は何もしなかった』のではなく、前線指揮と宗家全体の意思決定という異なる役割を分けて見る必要があります。
耳川と沖田畷―勝利を一人の奇策にしない
1578年、日向高城を囲んだ大友軍は島津軍との戦闘に敗れ、耳川方面へ退却する途中で大きな損害を出しました。一般に『耳川の戦い』と呼ばれますが、主戦場は高城川周辺です。高城を守った山田有信、各方面の島津軍、大友軍側の判断が結果を左右しました。
1584年の沖田畷では、有馬晴信の要請を受けた義久が援軍を送り、弟・家久が現地で有馬勢とともに龍造寺隆信軍を破りました。湿地と細道を利用した戦いですが、後世に有名な『釣り野伏せ』という一つの型だけで全過程を説明したり、義久本人が現場で指揮したりしたように描くのは正確ではありません。
九州『統一』目前と、秀吉の全国動員
相良氏と龍造寺氏が後退すると、島津氏は筑前・豊後へ進みました。1586年には大友氏の本拠・府内へ迫り、地図上では九州の大部分に影響力を及ぼします。しかし新しく従った北部の諸勢力は、島津氏の安定した行政機構へ完全に組み込まれたわけではありません。
1587年、豊臣秀吉・秀長が全国規模の軍勢を九州へ送り、根白坂で島津軍を破りました。義久は剃髪して龍伯と号し、5月8日に泰平寺で秀吉へ降伏します。抵抗を続けて本領まで失うより、敗北を受け入れて家を残す政治判断でした。
『義弘へ家督を譲った』とは言い切れない豊臣政権期
降伏後、秀吉は薩摩を義久、大隅を義弘、日向諸県郡を義弘の子・久保へ分けて宛行い、義弘を対外的な島津氏代表として扱いました。これを根拠に、義久が1587年に隠居して義弘が第17代当主になったとする系譜・通説があります。
一方、同時代文書から正式な家督移譲は確認できず、義久は国元の実権を握り続けたとする研究が有力です。豊臣政権の代表者・義弘、宗家当主・義久、次代候補の久保・忠恒が併存したため、島津家の権力構造は単純な一人当主制では説明できません。
富隈・国分の町づくりと、関ヶ原後の家存続
義久は1595年に富隈城へ移り、琉球渡海の許可や海上交易に関わりました。1604年には国分新城を築き、寺社と城下を整えます。九州制覇を目指した時代から、限られた領国を近世大名領へ組み替える時代へ、仕事の重点が変わりました。
1600年の関ヶ原では義弘が西軍に属しましたが、義久は国元に残りました。戦後の本領維持は、義弘の敵中突破だけでなく、忠恒や家老を介した徳川家康との交渉の結果です。義久は1611年に国分で死去し、戦国島津氏から薩摩藩への移行を見届けました。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
島津義久起請文 相良殿宛
永禄5年(1562)10月2日
当主継承前の義久が相良氏へ差し出した誓約文。牛王宝印を用い、花押を据えた原文書で、周辺大名との外交を直接伝える。
島津義久書状 妙谷寺住職宛
元亀2年~天正8年(1571~1580)
義久が自身の菩提寺・妙谷寺の住職の体調を案じた書状。九州国立博物館所蔵『島津氏関係文書』38通の第1通にあたる。
島津義久黒印状 山田民部少輔宛
天正12年(1584)8月18日
義久名義の黒印を据えた一通。早稲田大学図書館の目録では『写』とされ、主画像にはこの伝来文書を使用している。
上井覚兼日記
天正2~4年・天正10~14年(1574~1576・1582~1586)重要文化財・原本27冊
義久の奏者・老中で日向経営も担った上井覚兼の自筆日記。政務、合戦、寺社、茶の湯や連歌まで、島津氏の拡大期を日々の記録から伝える。
HISTORICAL ROLE
島津 義久は、その時何をしたか
岩剣城の戦い
父・貴久の大隅進出に従い、義弘・歳久とともに初陣した。後世の『四兄弟』像より前から、兄弟は当主を頂点とする軍事・領国支配の分担へ組み込まれていった。
家督継承と三州統一
父・貴久から家督を継ぎ、肝付氏を降し、伊東氏を日向から退けた。薩摩・大隅・日向の三州統一は、義久一人の戦功ではなく父と弟、家臣、服属した地域勢力の共同成果だった。
耳川の戦い
日向高城を守る山田有信を支え、大友軍を破った。『耳川の戦い』の主戦場は高城川周辺で、退却する大友軍が耳川方面まで追撃された一連の戦闘として捉える。
沖田畷の戦い
有馬晴信を支援して肥前島原へ軍を送り、龍造寺隆信を敗死させた。現地の軍事指揮は弟・家久が担い、義久は当主として派兵と外交を統括した。
豊臣秀吉の九州攻め
根白坂で敗れた後、剃髪して龍伯と号し、秀吉へ降伏した。薩摩は義久、大隅は義弘、日向諸県郡は次世代の久保へ分けて安堵され、豊臣政権は島津家内部へ介入した。
豊臣政権下の『両殿』
秀吉は義弘を対外的な島津氏代表として優遇したが、義久から義弘への正式な家督移譲は同時代史料で確認できない。義久は国元の意思決定に関わり続けた。
富隈城から国分新城へ
富隈城を拠点に琉球渡海を許可する朱印状を発給し、1604年には国分新城(舞鶴城)へ移った。敗戦後の義久は合戦だけでなく港・交通・城下の整備へ軸足を移した。
関ヶ原後の講和
義弘が西軍に属した一方、義久は国元に残った。島津家は義弘だけの『敵中突破』で救われたのではなく、忠恒や家老を含む交渉を経て薩摩・大隅・日向諸県郡を維持した。
国分で死去
国分新城で死去した。遺体は鹿児島の福昌寺に葬られ、霧島市の金剛寺跡と徳持庵跡にも墓所・分骨墓が残る。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
弟・家老・国人を配置し、三州の総大将を務めた
前線の武功を独占せず、一族と地域勢力を複数方面へ動かす宗家当主として、南九州統合を完成させました。
起請文・書状・印判状で広域支配を動かした
相良氏との誓約、寺院と家臣への書状、琉球渡海許可など、文書発給と交渉は義久の統治を直接伝えます。
降伏を選び、戦国の領国を近世大名家へつないだ
秀吉に敗れた時も全滅戦を避け、豊臣・徳川両政権との交渉を通じて島津氏の本領維持に関わりました。
九州最大領域を安定した統一政権にはできなかった
北部九州への進出は急速で、従属した諸勢力の統合は途上でした。全国動員できる豊臣政権との軍事・政治力差を越えられませんでした。
男子不在と豊臣政権の介入が家中を不安定にした
久保の死、忠恒への継承、歳久の死、庄内の乱が重なり、義久・義弘・次代当主の権限調整は晩年まで続きました。
RELATIONSHIPS
島津 義久を取り巻く人と組織
島津貴久
宗家の地位を固め、薩摩平定と大隅進出を進めて義久へ家督を譲った。
雪窓夫人
入来院重聡の娘。義久・義弘・歳久の母で、島津氏と入来院氏の婚姻関係を結んだ。
島津義弘人物詳細 →
前線指揮、朝鮮出兵、関ヶ原で名高い。正式な家督継承は同時代史料で確認できず、義久との『両殿』体制で見る必要がある。
島津歳久
三州統一を支えたが、1592年に梅北一揆への秀吉の追及を受け、義久・義弘方の軍勢に追われて自害した。
島津家久
有馬氏と連携して龍造寺隆信軍を破り、戸次川でも勝利した。1587年、豊臣政権への降伏直後に死去した。
亀寿
義弘の子・久保、のち忠恒の妻となった。義久に男子がいない宗家と義弘の系統を婚姻で結んだ。
島津久保
義弘の子で亀寿の夫。豊臣政権下の次代当主候補だったが、1593年に朝鮮で病死した。
島津忠恒
久保の死後に亀寿と結婚して後継となり、関ヶ原後の交渉を担った。のち家久と改名し初代薩摩藩主となる。
大友宗麟
日向・豊後をめぐり対立。耳川で大友軍が敗れた後、豊臣秀吉へ救援を求めた。
龍造寺隆信
肥前を中心に大勢力を築いたが、1584年の沖田畷で有馬・島津連合軍に敗れて戦死した。
有馬晴信
龍造寺氏の圧力に対して義久へ救援を求め、家久率いる島津援軍と領地を守った。
豊臣秀吉人物詳細 →
義久を降伏させ、島津領を義久・義弘・久保へ分割して豊臣政権の大名秩序へ組み込んだ。
徳川家康人物詳細 →
西軍に属した義弘を抱える島津家と交渉し、1602年に忠恒を通じて本領維持を認めた。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
義弘は1587年に第17代当主になった?
後世の系譜では家督継承とされますが、同時代史料では正式移譲を確認できません。秀吉が義弘を対外代表として扱ったことと、義久が宗家の実権を失ったことは同じではありません。
義久と義弘、島津家の中心はどちら?
義久は宗家当主として国元の意思決定を担い、義弘は前線指揮と豊臣政権への対応で代表性を強めました。時期と仕事によって中心が異なる『両殿』として見ます。
島津氏は九州を統一した?
1586年に九州の大部分へ進出しましたが、北部の従属は浅く、安定した行政統一は完成していません。『制覇目前』と統一政権の完成を区別します。
耳川の河原だけで決戦した?
主戦場は日向高城と高城川周辺で、大友軍の敗走・追撃が耳川方面まで広がりました。『高城川の戦い』とも呼ばれる一連の戦闘です。
沖田畷を義久本人が指揮した?
義久は有馬氏支援と派兵を決めた当主ですが、島原の現地指揮は弟・家久が担いました。島津氏の勝利と義久個人の戦場指揮を同一視しません。
島津軍はすべて『釣り野伏せ』で勝った?
誘導と伏兵は島津軍を語る有名な戦法ですが、各戦闘の記録・地形・兵力配置は異なります。後世の戦術名一つで耳川や沖田畷の全過程を説明しません。
島津四兄弟は常に団結していた?
三州統一では協力しましたが、豊臣政権下では役割と利害が分かれ、1592年には歳久が兄たちの軍勢に追われ自害しました。美しい兄弟評だけでは捉えられません。
関ヶ原で義久は東軍だった?
義久は国元に残り、義弘の西軍参加と距離がありましたが、徳川方へ出陣したわけではありません。戦後の講和行動と、合戦前からの明確な東軍参加を混同しません。
義久の確実な肖像はある?
安土桃山期の『島津某像』など人物比定が確定しない作品や後世の像があります。このページは現代の想像画を本人像として使わず、1584年付黒印状の写しを主画像にしています。
FAMILY TREE
島津 義久の家系図
主要な直系・兄弟と後継関係を抜粋。義久に実子男子はなく、三女・亀寿と義弘の子・久保、久保の死後は弟の忠恒を結びつけて宗家継承を図りました。義弘が第17代当主を継いだという通説には再検討があり、同時代史料では義久から義弘への正式な家督移譲を確認できません。主画像は肖像ではなく発給文書の写しです。
PLACES
島津 義久の足跡を現地でたどる
内城跡
鹿児島市大竜町の大龍小学校付近。山城ではなく交通に開かれた居館で、義久はここから文書を発給し、弟・家臣を各方面へ動かした。現在の鹿児島城とは別の城館である。
鹿児島県歴史・美術センター黎明館
鹿児島城本丸跡に建つ県立博物館。島津氏の三州統一・九州進出を含む中世から近世の鹿児島を扱う。資料は展示替えがあるため、義久関係の出品は事前確認が必要。
高城城址・高城川合戦場・根白坂古戦場
宮崎県木城町。1578年の高城川・耳川の戦いと、1587年に島津軍が豊臣軍へ敗れた根白坂が近接する。高城には空堀・土塁が残る。
沖田畷合戦場跡
長崎県島原市。有馬・島津連合軍が龍造寺隆信軍を破った地で、隆信供養塔と二本木神社がある。義久本人の陣跡ではなく、派遣された家久の戦場として訪ねる。
泰平寺跡
薩摩川内市。義久が龍伯と号して秀吉と対面した場所で、和睦石と2002年建立の『秀吉・義久和睦の像』がある。像は同時代作品ではない。
富隈城跡・国分新城跡
霧島市。義久は1595年から富隈城、1604年から国分新城(舞鶴城)に住み、港・琉球交易・城下整備へ関わった。国分新城跡には移設された朱門が残る。
金剛寺跡・徳持庵跡の島津義久墓
遺体は鹿児島の福昌寺に葬られたとされ、金剛寺跡には一部を祀った大型層塔、徳持庵跡には明治期に分骨を埋葬したと伝わる墓が残る。どちらも市指定史跡。
FAQ
島津 義久についてよくある質問
Q01島津義久は何をした人ですか?
島津氏第16代当主として薩摩・大隅・日向を統一し、弟・家臣を動かして九州の大部分へ進出した戦国大名です。秀吉への降伏後も実権を保ち、島津家を近世へつなぎました。
Q02島津義久と島津義弘はどう違いますか?
義久は兄で宗家当主として派兵・外交・領地配分を統括し、義弘は弟として前線指揮と豊臣政権への対応で名を上げました。当主と軍事指揮官という役割の違いがあります。
Q03島津義弘は第17代当主になったのですか?
後世の系譜ではそう数える場合がありますが、義久から義弘への正式な家督移譲は同時代史料で確認できないとする研究が有力です。秀吉が義弘を対外代表にしたこととは区別します。
Q04島津義久は九州を統一しましたか?
1586年に九州の大部分へ軍事的影響力を広げましたが、北部支配は固まっていませんでした。安定した行政統一を終える前に秀吉の九州攻めを受けています。
Q05三州統一とは何ですか?
島津氏が本拠とした薩摩国に加え、大隅国と日向国をほぼ統合したことです。1577年、伊東氏が日向から退いた時点が大きな到達点とされます。
Q06耳川の戦いはどこで行われましたか?
主戦場は現在の宮崎県木城町にある高城と高城川周辺です。敗れた大友軍が耳川方面へ退却し追撃されたため、一般に耳川の戦いと呼ばれます。
Q07沖田畷の戦いを指揮したのは義久ですか?
義久は有馬晴信への援軍派遣を決めた当主ですが、1584年に島原の現地で指揮したのは弟・島津家久です。有馬・島津連合軍が龍造寺隆信軍を破りました。
Q08なぜ豊臣秀吉に降伏したのですか?
1587年、全国の大名を動員した豊臣軍に根白坂で敗れ、抗戦継続では本領まで失う危険が高まったためです。義久は剃髪し、泰平寺で正式に降伏しました。
Q09関ヶ原で義久はどちら側でしたか?
義久は国元に残り、東軍として出陣していません。弟・義弘は西軍に属しました。敗戦後、忠恒や家老を通じて徳川家康と交渉し、本領維持へつなげました。
Q10島津義久は薩摩藩主ですか?
戦国期の島津宗家第16代当主です。薩摩藩が江戸幕府の大名領として成立する段階の初代藩主は、後継者の島津忠恒(のち家久)とされます。
Q11なぜ肖像ではなく書状が表示されているのですか?
本人と確定できない肖像や後世の像を実像として見せないためです。主画像は1584年付の島津義久黒印状で、早稲田大学図書館目録が『写』とする史料です。
Q12島津義久ゆかりの場所はどこですか?
鹿児島市の内城跡・黎明館、宮崎県木城町の高城と根白坂、島原市の沖田畷、薩摩川内市の泰平寺跡、霧島市の富隈城・国分新城・墓所が主な場所です。
SOURCES