江戸時代 / 嘉永7年
嘉永7年
日米和親条約
ペリー再来航を受け、幕府が横浜でアメリカと12か条の条約を締結。下田・箱館を開き、鎖国体制が大きく転換した。
日米和親条約は自由貿易を始めた通商条約ではありません。遭難者救助、薪水・食料の供給、下田・箱館の開港、領事駐在を定めた外交関係の入口でした。
- 場所
- 武蔵国・横浜村
- 天皇
- 孝明天皇第121代天皇
- 関係人物
- 3名

OVERVIEW
日米和親条約を4段階で理解する
捕鯨船の補給地確保と太平洋航路を求め、欧米船が接近していた
アヘン戦争後の東アジアで、幕府は海防を強化しながらも、漂流民救助と外国船対応の共通ルールを持てずにいました。
ペリーが大統領国書への回答を求め、より大きな艦隊で再来した
1853年に国書を受け取った幕府は諸大名へ意見を求め、海防と戦争回避の間で検討しました。翌年、ペリーは江戸湾へ戻り交渉を迫りました。
横浜で12か条の日米和親条約が調印された
下田と箱館を開き、アメリカ船への薪水・食料供給、漂流民保護、下田への領事駐在、最恵国待遇などが定められました。
各国とも同様の条約を結び、1858年の通商条約へ進んだ
幕府はイギリス・ロシア・オランダとも和親条約を締結。ハリスとの交渉を経て関税と貿易を定める日米修好通商条約へ移ります。
DEEP DIVE
この条約で、日本はただちに自由貿易を始めたのか。
いいえ。港での補給と外交窓口を開いた和親条約であり、本格的な貿易・関税・外国人居留を定めたのは1858年の日米修好通商条約です。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
捕鯨船と太平洋航路
アメリカは北太平洋の船へ石炭・食料・救助を提供できる港を求めていました。
アヘン戦争の衝撃
清の敗北は、武力衝突を避けながら外交へ対応する必要を幕府に意識させました。
諸大名への諮問
阿部正弘は国書への回答を大名へ広く問い、外交を幕府だけの秘密事項から全国政治の争点へ変えました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
ペリー初来航
浦賀沖で大統領国書を渡しました。
艦隊再来
前年より多い艦船で江戸湾へ入りました。
横浜で交渉
林復斎らが条文を協議しました。
条約調印
12か条の日米和親条約が成立しました。
ハリス着任
下田の米国総領事として通商交渉を始めました。
KEY PEOPLE
日米和親条約を動かした人物
RELATIONSHIP
日米和親条約 交渉関係図
アメリカ艦隊と幕府、条約締結を注視した朝廷の関係です。
阿部 正弘老中首座として方針を調整
孝明天皇在位の天皇
マシュー・ペリー艦隊司令長官・交渉代表阿部 正弘条約交渉マシュー・ペリー武力衝突を避けて12か条に合意
阿部 正弘幕府と朝廷孝明天皇外交判断が朝幕関係の問題へ
QUESTIONS
よくある疑問
この日で鎖国は終わったのか
大きな転換点ですが、貿易開始や国内制度の変更は段階的でした。『一日で開国』と捉えると過程を見落とします。
最恵国待遇とは何か
日本が他国へより有利な条件を与えた場合、それをアメリカにも自動的に適用する条項です。
孝明天皇は条約を認めたのか
和親条約時の朝廷関与と、1858年の通商条約勅許問題は区別が必要です。後者で朝幕対立が決定的になります。
IMPACT
その後、何が変わったか
外交窓口の開設
下田・箱館が外国船の寄港地となり、領事外交が始まりました。
朝幕関係の変化
外交判断に朝廷と諸藩が発言し、幕府の専権が揺らぎました。
通商条約への道
開港地・関税・居留を定める本格交渉へ進みました。
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