
PERSONAL FILE / 軍人
Matthew Calbraith Perryマシュー・ペリー
黒船艦隊を率いて日本へ開港を求めた米海軍軍人アメリカ海軍提督。東インド艦隊司令長官として1853年に浦賀沖へ来航し、大統領国書を届けた。翌年に再来し、日米和親条約の締結へ至った。
- 生没年
- 1794—1858
- 主な所属
- アメリカ海軍・東インド艦隊
- 関わった出来事
- 2件
QUICK GUIDE
まず3分でわかる、マシュー・ペリー
1853年と1854年、二度の遠征で来航
アメリカ東インド艦隊を率い、最初の来航で大統領国書を渡し、翌年の再来航で幕府との日米和親条約締結に至りました。
補給・漂流民保護・外交関係を要求
太平洋を航行する船への石炭や食料の供給、難破したアメリカ人の保護、外交と通商への入口を求めることが主な目的でした。
1853年に自由貿易が始まったわけではない
1853年は国書を受け取った段階です。1854年の和親条約も本格的な通商条約ではなく、貿易を制度化した日米修好通商条約は1858年に結ばれました。
LIFE TIMELINE
マシュー・ペリーの生涯年表
ロードアイランド州ニューポートに生まれる
海軍軍人の家に生まれ、兄オリバー・ハザード・ペリーも米英戦争で知られる海軍軍人となった。
米海軍へ入る
15歳になる前に士官候補生となり、のちに米英戦争などを経験した。
蒸気軍艦の整備を進める
蒸気力を海軍へ導入する必要を訴え、蒸気軍艦フルトン二世の建造・運用に関わった。後に「蒸気海軍の父」とも呼ばれる。
米墨戦争に参加
メキシコ湾方面の艦隊を指揮し、上陸作戦を含む実戦経験を積んだ。
日本遠征の任務を受け出航
東インド艦隊司令長官として国書を日本へ届ける任務を受け、11月にノーフォークを出航した。
4隻を率いて浦賀沖へ来航
蒸気船2隻と帆走軍艦2隻で江戸湾へ入り、測量を進めながら幕府へ国書受領を求めた。
久里浜で大統領国書を渡す
幕府側が設けた応接所へ上陸し、フィルモア大統領の国書などを浦賀奉行戸田氏栄・井戸弘道へ渡した。
日米和親条約を締結
再来航後、林復斎ら幕府代表との交渉を経て、横浜で12か条の条約へ調印した。
ニューヨークで死去
日本遠征の公式報告書の編纂が進むなか死去した。同年、日本ではハリスとの日米修好通商条約が締結された。
BIOGRAPHY
マシュー・ペリーは、どんな生涯を送ったか
黒船以前――蒸気海軍を育てた職業軍人
マシュー・カルブレイス・ペリーは1794年、アメリカ東海岸のニューポートに生まれました。父も兄たちも海軍に関わる家庭で育ち、10代半ばで海軍へ入ります。米英戦争、地中海やアフリカ沿岸での任務、米墨戦争を経験し、日本遠征の時点では40年以上の軍歴を持つ指揮官でした。
ペリーは帆船中心だった海軍へ蒸気力を導入する推進者でもありました。蒸気船は風向きに左右されにくく、沿岸での機動や威圧に有利です。日本へ連れてきた艦隊に蒸気船が含まれたのは偶然ではなく、技術と軍事力を外交の背景に置く彼の経歴と結びついています。
なぜアメリカは日本へ来たのか
19世紀半ば、アメリカの船は中国との交易や捕鯨のため太平洋を往来していました。長い航海には石炭、食料、水を補給できる港が必要で、難破した船員の安全確保も課題でした。フィルモア大統領の国書は、友好関係、漂流民の保護、補給、そして通商への道を求めています。
ただし、これは対等な説得だけで進められた外交ではありません。ペリーは大型艦と火力を見せ、江戸湾の測量を行い、交渉相手と方法を自ら主導しようとしました。戦闘は起きなかったものの、幕府に拒否した場合の危険を意識させる「砲艦外交」でした。
1853年、蒸気船2隻と帆走軍艦2隻が浦賀へ
1853年7月8日、ペリーはミシシッピ号、サスケハナ号、プリマス号、サラトガ号の4隻で浦賀沖へ現れました。すべてが蒸気船だったわけではなく、蒸気船2隻と帆走軍艦2隻です。黒く塗られた船体や煙を上げる蒸気船は強い印象を残し、後に一団を「黒船」と呼ぶ記憶が定着しました。
幕府は突然何も知らない状態で艦隊を見たわけでもありません。オランダなどを通じて来航情報を得ていましたが、どこまで要求を受け入れ、戦争を避け、沿岸を守るかという難題への統一方針はありませんでした。浦賀奉行所の中島三郎助、通訳の堀達之助らが艦隊との最初の折衝を担いました。
久里浜上陸と国書受領――条約はまだ先
ペリーは最高位の役人へ国書を手渡す形式にこだわり、幕府側も江戸への接近を防ぎながら受け取る場所を調整しました。7月14日、ペリー一行は久里浜へ上陸し、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道が大統領国書を受領します。儀式は短時間で終わり、艦隊は回答を翌年に求めて日本を離れました。
この時点で日本が開港条約に合意したわけではありません。幕府老中の阿部正弘は国書を翻訳させ、諸大名へ意見を求め、海防策を検討しました。1853年の出来事は「要求の提示と受領」であり、条約締結は再来航後の1854年です。
1854年の再来航と日米和親条約
ペリーは1854年2月、前年より大きな艦隊で江戸湾へ戻りました。幕府側では大学頭の林復斎らが交渉を担当し、会談場所を横浜に定めます。贈答や饗応も交えた交渉の末、3月31日に全12か条の日米和親条約が結ばれました。
条約は両国の平和、難破者の救助、薪水・食料などの供給、下田と箱館の開港、下田への領事駐在などを定めました。一方、一般的な商品を取引する本格的な自由貿易の条件は定めていません。1858年の日米修好通商条約と分けて理解することが重要です。
ペリー一人が日本を『開国』させたのか
来航が日本の外交と政治を大きく動かしたことは確かです。しかし、結果をペリー一人の決断だけで説明すると、日本側の対応が見えなくなります。幕府は国書の受領、諸大名への諮問、江戸湾防備、交渉代表の選定を進め、衝突を避けながら合意できる範囲を探りました。
また、日本には長崎を通じたオランダ・中国との交流が続き、ロシアやイギリスなどの船も以前から接近していました。ペリー来航は世界との接触の始まりそのものではなく、幕府がアメリカとの条約関係を結び、港を制度的に開く転換点です。
功績と批判――外交の成果と軍事圧力の両面
アメリカ側から見れば、ペリーは長期航海を組織し、戦争を起こさず条約を得た指揮官です。海軍の近代化を進めた経歴も含め、外交・海軍史上の成果として評価されてきました。日本では黒船来航が幕末政治を動かす象徴となり、久里浜には1901年に上陸記念碑が建てられました。
一方で、交渉は軍事力の大きな差を背景にしていました。日本側に十分な選択の余地があったとは言いにくく、後世の友好物語だけで圧力を消すこともできません。ペリーを英雄か侵略者かの一語で決めず、目的、手段、日本側の選択、その後の条約体制を分けて見る必要があります。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
合衆国書翰和解
1853年(嘉永6年)
フィルモア大統領の国書など5通の漢文写しと和文訳を収めた史料です。ペリーが届けた要求を幕府側がどのように読み、共有したかを確認できます。
日米和親条約写
1854年(安政元年)
下田・箱館の開港や薪水の供給、領事駐在などを定めた条文の日本側写しです。ペリー遠征の外交的な結果を条文から確認できます。
ペリー上陸記念碑
1901年(明治34年)
久里浜への上陸を記念して建てられ、碑文は伊藤博文が揮毫しました。現在のペリー公園に残ります。
HISTORICAL ROLE
マシュー・ペリーは、その時何をしたか
黒船来航
蒸気船2隻と帆走軍艦2隻を率いて浦賀沖へ入り、久里浜でフィルモア大統領の国書を渡した。この時点では条約を結ばず、翌年に回答を求めると告げて日本を離れた。
日米和親条約
前年より大きな艦隊で再来し、林復斎ら幕府代表との交渉を経て全12か条の条約へ調印した。下田・箱館の開港や補給を定めたが、本格的な通商条約ではなかった。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
二度の遠征で条約締結へ進めた
国書を渡して回答期間を置き、翌年の交渉で日米和親条約を得ました。戦闘を避けた外交成果である一方、艦隊の威圧が交渉力の土台でした。
蒸気力を海軍の制度と実戦へ導入した
日本遠征以前から蒸気軍艦の整備と海軍教育に関わりました。「蒸気海軍の父」という呼称は、この長期的な活動への評価です。
日本の外交と国内政治を同時に動かした
来航は開港だけでなく、海防、幕府と諸藩の関係、朝廷の政治参加をめぐる議論を広げ、幕末の政局を加速させました。
自由貿易の開始まで実現したわけではない
1854年条約は友好・補給・限定的な開港を定めたもので、本格的な通商制度はタウンゼント・ハリスが交渉した1858年条約によります。
RELATIONSHIPS
マシュー・ペリーを取り巻く人と組織
ミラード・フィルモア
日本との友好、漂流民保護、補給、通商を求める国書をペリーへ託した。
オリバー・ハザード・ペリー
米英戦争のエリー湖の戦いで知られ、弟マシューの海軍経歴にも影響を与えた。
阿部正弘人物詳細 →
国書を受領して諸大名へ意見を求め、再来航に備えた。
注:条約交渉をペリーと一対一で行った人物ではない。林復斎
1854年、横浜での交渉を担い、日米和親条約に調印した。
中島三郎助
来航初日に艦隊へ乗り込み、身分を高く称して直接交渉の糸口をつくった。
堀達之助
オランダ語通訳として艦隊との意思疎通を担った。
タウンゼント・ハリス
初代アメリカ総領事として日本に駐在し、1858年の日米修好通商条約を交渉した。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
ペリーは『提督』だった?
日本語では「ペリー提督」が定着していますが、当時の米海軍での肩書はCommodore(代将・艦隊司令官)です。日本語の慣用表現と正式な階級名にはずれがあります。
黒船4隻はすべて蒸気船だった?
違います。1853年の4隻は蒸気船ミシシッピ号・サスケハナ号と、帆走軍艦プリマス号・サラトガ号でした。
白旗は『降伏せよ』という要求だった?
横須賀市の解説では、測量艇に掲げた白旗は平和的な行動を示すものと説明されています。降伏方法を日本へ教えるため白旗を渡したという有名な話は、同時代の確実な事実として扱えません。
日本はペリーが来るまで外国と交流していなかった?
長崎ではオランダ・中国との交易が続き、朝鮮・琉球などを介した外交・交流もありました。ロシアやイギリスなどの船も来航しており、完全に閉じた国だったわけではありません。
1853年の一度だけで開国した?
ペリー艦隊の日本遠征は1853年の国書提出と1854年の再来航・条約交渉の二段階です。最初の来航時には条約を結んでいません。
日米和親条約で自由貿易が始まった?
和親条約は補給、漂流民保護、下田・箱館の開港などを定めました。本格的な貿易条件を定めたのは1858年の日米修好通商条約です。
ペリー本人が阿部正弘と条約を交渉した?
阿部正弘は幕府の方針を担いましたが、横浜でペリー側と交渉した日本側全権の中心は林復斎らです。政策責任者と現地交渉者は別です。
FAMILY TREE
マシュー・ペリーの家系図
主要な直系・兄弟関係を抜粋。日本の家紋に相当する紋章は表示していません。
PLACES
マシュー・ペリーの足跡を現地でたどる
ペリー公園・ペリー記念館
久里浜海岸近くに上陸記念碑と記念館があります。記念館では来航の経路や艦隊、日米双方の動きを資料でたどれます。
久里浜海岸
1853年7月14日、ペリー一行が上陸し、幕府側が大統領国書を受け取った地域です。現在の海岸線や公園は当時と同じ形ではありません。
浦賀
艦隊が現れ、浦賀奉行所の役人や通訳が応接した地域です。江戸湾防備と海上交通の要地として来航以前から重要でした。
横浜開港資料館・開港広場
1854年の日米交渉と条約調印が行われた応接所跡に近い場所です。最初の上陸地である久里浜とは別の史跡です。
RELATED PEOPLE
マシュー・ペリーと関わる人々
FAQ
マシュー・ペリーについてよくある質問
Q01ペリーは何をした人ですか?
アメリカ東インド艦隊を率いて1853年に大統領国書を日本へ届け、1854年の再来航で幕府との日米和親条約締結に至った海軍軍人です。日本遠征以前には蒸気軍艦の整備にも関わりました。
Q02ペリーが日本へ来た目的は何ですか?
太平洋航路で使う石炭・食料・水の補給、難破したアメリカ人の保護、外交関係の樹立、将来の通商への道を求めることでした。軍艦を伴い、軍事力を背景に交渉しました。
Q03ペリーは日本に何回来ましたか?
日本への遠征は大きく二度です。1853年に国書を提出し、1854年に回答を得るため再来航しました。二度目の滞在中に日米和親条約を結んでいます。
Q04黒船4隻の名前は?
蒸気船ミシシッピ号・サスケハナ号と、帆走軍艦プリマス号・サラトガ号です。4隻すべてが蒸気船ではありません。
Q05ペリー来航で日本はすぐ開国したのですか?
1853年は国書を受領しただけです。1854年の日米和親条約で下田・箱館を開き、補給などを認めましたが、本格的な通商は1858年の日米修好通商条約からです。
Q06日米和親条約を日本側で交渉したのは誰ですか?
横浜での交渉と調印を担った日本側全権の中心は林復斎です。老中首座の阿部正弘は幕府の外交方針を調整しました。
Q07ペリーは日本に白旗を渡して降伏を迫ったのですか?
降伏方法を示すため白旗を渡したという話を、確実な同時代史料で確認することはできません。横須賀市の解説では、艦隊の測量艇が掲げた白旗は平和的な行動を示すものとされています。
Q08ペリーはその後どうなりましたか?
帰国後は日本遠征の公式報告書の編纂に関わり、1858年にニューヨークで死去しました。同じ年、日本ではハリスが交渉した日米修好通商条約が結ばれました。
SOURCES

