江戸時代 / 嘉永6年
嘉永6年
黒船来航
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の艦隊で浦賀沖へ来航。大統領の国書を渡し、日本へ開港と通商を求めた。
黒船は突然現れた未知の船ではありません。幕府はオランダ風説書などでペリー来航の可能性を把握していましたが、軍事力を背景にした外交要求へどう答えるか、国内の合意形成と沿岸防備を同時に迫られました。
- 場所
- 相模国・浦賀/久里浜
- 天皇
- 孝明天皇第121代天皇
- 関係人物
- 3名

OVERVIEW
黒船来航を4段階で理解する
捕鯨・太平洋航路・東アジア進出が日本開港の要求を強めた
アメリカは太平洋を横断する船の補給港と漂流民保護、将来的な通商を求めました。欧米諸国は中国へ進出し、東アジアの国際秩序は大きく変化していました。
外交交渉に蒸気船と艦砲という軍事的圧力を組み合わせた
ペリーはフィルモア大統領の国書を携え、長崎ではなく江戸湾入口へ直接来航しました。測量や艦隊行動で圧力をかけ、翌年に回答を受け取りに戻ると告げました。
久里浜で国書を受け取り、幕府は諸大名へ意見を求めた
1853年7月8日に4隻が浦賀沖へ入り、7月14日にペリー一行が久里浜へ上陸して国書を渡しました。幕府は即答を避け、従来は限定されていた外交方針を全国の大名へ諮問しました。
翌年の日米和親条約から開国へ進んだ
ペリーは1854年に再来し、下田・箱館の開港などを定める日米和親条約が結ばれました。幕府は海防と外交の制度を改めましたが、条約の是非は朝廷・諸藩を巻き込む政治対立へ発展しました。
DEEP DIVE
幕府は黒船来航を予測していたのに、なぜ大きな政治危機になったのか。
来航情報を得ていても、アメリカの軍事力に対抗する海防、二百年以上続いた外交方針の変更、朝廷・諸藩・民衆への説明を同時に解決する制度がありませんでした。諸大名への諮問は知恵を集める一方、幕府だけが外交を決める慣例を崩しました。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
アメリカ捕鯨船の補給
北太平洋で活動する船舶の薪水・食料補給と遭難者保護の拠点が求められていました。
オランダからの事前情報
幕府は別段風説書で来航計画を知らされていましたが、具体的な対応方針を統一できませんでした。
海防と財政
台場・砲台・洋式軍艦の整備には巨額の費用と技術が必要で、諸藩との分担が不可欠でした。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
来航情報が伝わる
オランダから、アメリカ艦隊が日本へ向かう計画が幕府へ知らされました。
黒船4隻が浦賀沖へ
ペリー艦隊が江戸湾入口へ入り、国書受け取りを要求しました。
久里浜で国書を受領
幕府側の役人がフィルモア大統領の国書を受け取りました。
ペリー艦隊が再来
前年より多い艦隊で江戸湾へ入り、具体的な交渉が始まりました。
日米和親条約
下田・箱館の開港、漂流民保護、領事駐在などを定めました。
KEY PEOPLE
黒船来航を動かした人物
RELATIONSHIP
黒船来航 人物相関図
アメリカ艦隊の要求に対し、幕府・朝廷がそれぞれの立場で対応した構図を整理します。
阿部 正弘老中首座・外交判断を担う
孝明天皇攘夷意識の強い天皇
マシュー・ペリー司令長官・大統領国書を持参マシュー・ペリー軍事圧力を伴う交渉阿部 正弘開港・補給・漂流民保護を要求
阿部 正弘幕府と朝廷孝明天皇条約と海防をめぐる政治判断
QUESTIONS
よくある疑問
なぜ『黒船』と呼ばれたのか
船体が黒く塗られ、蒸気船が黒煙を上げた印象から広まった呼称です。当時は異国船全般を指す場合もありました。
幕府は来航を全く知らなかったのか
オランダから事前情報を得ていました。問題は情報の欠如より、軍事・外交・国内政治をまとめる意思決定でした。
黒船来航の日に開国したのか
1853年は国書受領です。1854年の和親条約、1858年の修好通商条約へ段階的に開国が進みました。
IMPACT
その後、何が変わったか
幕府外交の公開化
諸大名へ意見を求めたことで、外交問題へ諸藩と朝廷が介入する道が開きました。
海防・洋学の加速
台場建設、洋式軍艦、砲術、長崎海軍伝習所など軍事技術の導入が急速に進みました。
幕末政局の始動
開国・攘夷と条約勅許をめぐる対立が、幕府の権威低下と政治参加の拡大を招きました。
SOURCES
