安土桃山時代 / 文禄3年
文禄3年今から約432年前
伏見城築城
豊臣秀吉が伏見に本格的な城と城下町を築く。大地震による倒壊、再建、関ヶ原前哨戦での落城、徳川期の再建を重ねた政治都市だった。
現在の『伏見桃山』という地名にも記憶が残る。城そのものは廃城となったが、城下町の道路や寺社、大名由来の町名が広い範囲に残る。
- 場所
- 山城国・伏見
- 天皇
- 後陽成天皇第107代天皇
- 関係人物
- 4名

OVERVIEW
伏見城築城を4段階で理解する
秀吉は大坂と京都の間に、隠居所を超える政治拠点をつくった
朝鮮出兵の最中、秀吉は伏見で城郭と城下町の整備を本格化させました。宇治川と街道に近く、大坂・京都・奈良を結ぶ水陸交通の要衝でした。
諸大名を集め、外交と政務を行う豊臣政権の首都機能を担わせた
大名屋敷が並び、五奉行らが政務を担い、明との講和使節を迎える準備も行われました。伏見は単なる城ではなく、豊臣政権末期の政治都市でした。
1596年の慶長伏見地震で倒壊し、木幡山に再建された
指月の城は大地震で大きな被害を受け、秀吉は北東の木幡山に新しい城を築きました。1598年、秀吉はこの伏見城で死去します。
1600年に西軍の攻撃で落城し、家康が再建したのち廃城となった
関ヶ原の戦い直前、鳥居元忠らが守る伏見城は西軍に包囲され落城。徳川家康は翌年以降に再建しましたが、1619年に廃城となりました。
DEEP DIVE
伏見城は、なぜ場所と姿を変えながら何度も築かれたのか。
伏見が大坂・京都と西国・東国を結ぶ交通の要衝で、豊臣・徳川の双方にとって畿内支配の政治拠点だったからです。『伏見城』は指月と木幡山で段階的に築かれた城郭群として見る必要があります。
LOCATION
地図で見る
ピンは木幡山伏見城跡の中心部付近です。秀吉最初の指月伏見城跡は南西側にあり、城下町と大名屋敷は現在の伏見・桃山一帯に広がっていました。
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水陸交通の要衝
宇治川の水運と街道が交わり、京都と大坂の間を結ぶ伏見は、物資と人を集めやすい場所でした。
大名屋敷が並ぶ政治都市
城下には全国の大名屋敷が置かれ、現在の町名にも大名の名が多く残ります。
複数の伏見城
指月の城、木幡山の豊臣期城郭、徳川期の再建城があり、場所と時期を分けて理解する必要があります。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
指月で本格築城
秀吉の隠居所から、城郭と城下町を備えた政治拠点へ拡張されました。
慶長伏見地震
指月の城が大きく損壊し、北東の木幡山で再建が進められます。
秀吉が伏見城で死去
五大老・五奉行体制のもとで政権運営が始まり、伏見は権力争いの舞台になります。
伏見城の戦い
鳥居元忠らの守備隊が西軍と戦い、城は落城・焼失しました。
徳川による再建と廃城
家康が再建し将軍宣下の舞台にもなりましたが、のちに廃城となりました。
KEY PEOPLE
伏見城築城を動かした人物
QUESTIONS
よくある疑問
現在の模擬天守が城跡そのものか
現在見える建物は昭和期の模擬天守です。木幡山の本来の城跡と位置・性格を分けて見る必要があります。
血天井はすべて伏見城の遺構か
複数寺院に伝承がありますが、由来の確実性は建物ごとに検討が必要です。
城下町はどこまで広がったのか
桃山町の大名由来の町名や道路、寺社の配置をたどると、城下の広がりを現在の町で読めます。
IMPACT
その後、何が変わったか
豊臣政権末期の首都
大名と政務機構が集まり、外交・政治の重要な判断が行われました。
関ヶ原の前哨戦
1600年の落城は東西対立の始まりを告げ、家康の会津征伐から反転する契機になりました。
町に残る城の記憶
廃城後も交通都市として栄え、桃山や大名名の町名が城下の歴史を伝えています。
SOURCES





