
PERSONAL FILE / 天皇
ごうだてんのう後宇多天皇
二度の院政を行い大覚寺を再興した第91代天皇亀山天皇の皇子。1274年に幼く即位し、在位中に二度の蒙古襲来を経験した。1287年に伏見天皇へ譲位した後、皇子・後二条天皇と後醍醐天皇の時代に院政を行った。出家後は大覚寺を拠点に密教研究と寺院再興を進め、国宝の自筆文書を残した。
- 生没年
- 1267—1324
- 主な所属
- 皇室・大覚寺統
- 関わった出来事
- 6件

QUICK GUIDE
まず3分でわかる、後宇多天皇
元寇期に在位した第91代天皇
1274年に幼く即位し、その年の文永の役と1281年の弘安の役を経験しました。父・亀山上皇が院政を行い、軍事防衛は鎌倉幕府、朝廷・寺社は祈祷を担いました。
二人の皇子の時代に二度院政を行った
1287年に持明院統の伏見天皇へ譲位した後、皇子・後二条天皇の即位で院政を開始しました。さらに後醍醐天皇の即位後にも院政を行い、大覚寺統の継承を主導しました。
政治と密教を大覚寺で結びつけた
1307年に出家して大覚寺へ入り、院政を行いながら密教を研究しました。自筆の『弘法大師伝』『御手印遺告』は国宝で、大覚寺では中興の祖と仰がれています。
LIFE TIMELINE
後宇多天皇の生涯年表
亀山天皇の皇子として生まれる
諱は世仁。母は皇后・洞院佶子(京極院)で、大覚寺統の直系となった。
第91代天皇として即位
父・亀山天皇の譲位を受けて幼く即位し、亀山上皇が治天の君として院政を行った。
文永の役
元・高麗連合軍が対馬・壱岐を経て博多湾へ来襲。幕府が九州の軍事防衛を担い、朝廷・寺社は異国降伏の祈祷を重ねた。
熙仁親王が皇太子となる
後深草上皇の皇子、のちの伏見天皇が後宇多天皇の皇太子となり、持明院統へ皇位を渡す道筋が定まった。
弘安の役
元の二つの船団が再び来襲。幕府は異国警固と博多湾岸の防塁を軸に戦い、朝廷・寺社は祈祷を続けた。
伏見天皇へ譲位
従兄の熙仁親王へ皇位を譲った。後深草上皇が院政を始め、皇位と治天の地位は持明院統へ移った。
紫紙金字の護国経典を自筆
『金光明最勝王経』を斎戒して金字で書写し、聖武天皇の国分寺経の先例にならって諸国へ安置し、国家鎮護と万民撫育を祈った。
後二条天皇が即位し、最初の院政へ
皇子・邦治親王が即位し、大覚寺統の治世が戻った。後宇多上皇は治天の君として政務を主導した。
『新後撰和歌集』を編纂させる
藤原為世に命じて勅撰和歌集を編纂させ、政治と儀礼だけでなく宮廷文化の継承にも関わった。
出家して金剛性と称す
仁和寺の禅助を戒師として亀山殿の寿量院で出家し、その後は大覚寺を拠点とした。出家後も政務への関与を続けた。
後二条天皇が死去し、最初の院政を終える
皇子が若くして亡くなり、持明院統の花園天皇が即位した。後宇多法皇は密教研究と大覚寺の整備にいっそう力を注いだ。
朝廷政務を再び担う
後伏見上皇から政務が移され、花園天皇の在位中から後宇多法皇が政治を主導する段階に入ったとする研究がある。
国宝『弘法大師伝』を自筆
空海の伝記を書写した。謹厳な楷書から力強い草書へと書体が変化し、信仰と書の力量を伝える。
後醍醐天皇が即位し、二度目の院政へ
皇子・尊治親王の即位により大覚寺統へ皇位が移った。後宇多法皇は再び院政を行い、次代には後二条天皇の皇子・邦良親王を立てる構想を進めた。
院政を停止し、御手印遺告を残す
幕府の同意を得て政務を後醍醐天皇の親政へ移した。同年、大覚寺の興隆を願う21か条を自筆し、朱の手形を押した『御手印遺告』を残した。
大覚寺で死去
6月25日に大覚寺で死去。陵は大覚寺の北東にある蓮華峯寺陵で、方形堂と五輪塔からなる。
BIOGRAPHY
後宇多天皇は、どんな生涯を送ったか
幼い天皇と、二度の蒙古襲来
後宇多天皇は1267年、亀山天皇と洞院佶子の皇子として生まれ、世仁親王と称しました。1274年に幼く即位しましたが、在位中の政務を本人が単独で動かしたのではありません。父・亀山上皇が治天の君となり、院政を行いました。
即位した1274年に文永の役、1281年に弘安の役が起こります。軍勢の動員、博多湾岸の防衛、異国警固は鎌倉幕府の領域であり、天皇が九州で戦闘を指揮したわけではありません。朝廷と寺社は国難への祈祷や儀礼を重ね、幕府の軍事と並行して危機に対応しました。
自分より先に、持明院統の皇太子が決まる
後宇多天皇が即位した翌1275年、後深草上皇の皇子・熙仁親王が皇太子となりました。亀山系の天皇の次に後深草系へ皇位を渡す枠組みが、後宇多天皇の幼少期から組み込まれたことになります。
1287年、後宇多天皇は伏見天皇へ譲位しました。皇位だけでなく治天の地位も後深草上皇へ移り、大覚寺統は政治の中心から外れます。これは二つの皇統が機械的に交互即位する制度の完成ではなく、その都度の交渉、所領、幕府の意向によって続く不安定な調整でした。
後二条天皇の即位と、最初の院政
1301年、皇子・邦治親王が後二条天皇として即位すると、後宇多上皇は治天の君となりました。儀礼の復興や人事、知行国の配分に関わり、大覚寺統の政治を立て直します。父・亀山法皇が亡くなった後は、自らの意思による政治活動をさらに本格化させました。
この時期、後宇多上皇は『新後撰和歌集』を藤原為世に編纂させ、宮廷文化も支えています。院政は政治命令だけではなく、儀礼、所領、学問、和歌を含む宮廷秩序全体を運営する仕組みでした。
出家は引退ではなかった―大覚寺の再興
1307年、後宇多上皇は出家して金剛性と称し、大覚寺へ入りました。法皇となっても政務を続け、密教の教理と儀礼を研究します。翌1308年には広沢流の伝法灌頂を受け、醍醐寺の三宝院流の継承にも関わりました。
大覚寺では伽藍を整え、仙洞御所を置き、寺院を政治と信仰の拠点にしました。大覚寺統の名は、この後宇多法皇の御所に直接結びつきます。現在の建物すべてが鎌倉時代のまま残るわけではありませんが、大覚寺では後宇多法皇を中興の祖として位置づけています。
後醍醐天皇の即位と、二度目の院政
1308年に後二条天皇が亡くなると持明院統の花園天皇が即位しました。1318年には後宇多法皇の皇子・尊治親王が後醍醐天皇となり、大覚寺統へ皇位が戻ります。後宇多法皇は再び院政を行いました。
ただし、後醍醐天皇の次には、兄・後二条天皇の皇子である邦良親王を継承者とする構想がありました。後醍醐天皇が最初から自分の子へ自由に皇位を渡せる立場だったわけではありません。1321年、後宇多法皇は幕府の同意を得て院政を停止し、後醍醐天皇の親政へ政務を移しました。
国宝の書が伝える、政治家・僧侶・書家の一体像
後宇多天皇は、政治記録だけでなく多くの自筆文書を残しました。1294年の紫紙金字『金光明最勝王経』は、聖武天皇の国分寺経を意識して国家鎮護を祈ったものです。1315年の『弘法大師伝』は、空海への信仰と書の変化を一つの巻物に示します。
1321年の『御手印遺告』には、大覚寺を守るための21か条が記され、冒頭と各条の初めに朱の手形が押されています。これは単なる遺言ではなく、寺院の由来、教法、弟子、運営を次代へ伝える規範でした。後宇多天皇の政治と宗教を別々の生涯としてではなく、一つの統治と継承の営みとして読める史料です。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
紫紙金字金光明最勝王経 巻第二
1294年11月15日重要文化財
後宇多上皇が斎戒し、紫紙に金泥で自ら書写した護国経典。聖武天皇の国分寺経を先例として諸国への安置を目指し、国家鎮護と万民撫育を祈った。
後宇多天皇宸翰 弘法大師伝
1315年国宝
後宇多法皇が書写した空海の伝記。謹厳な楷書から力強い草書へ移る書体が、空海への信仰と本人の書の力量を伝える。
後宇多天皇宸翰 御手印遺告
1321年国宝
大覚寺の興隆を願って記した21か条の定め。冒頭と各条の初めに朱で自らの手形を押し、教法、弟子、寺院運営を次代へ伝えた。
HISTORICAL ROLE
後宇多天皇は、その時何をしたか
即位と文永の役
即位した年に元・高麗連合軍が博多湾へ来襲した。軍事動員と九州防衛は鎌倉幕府が担い、朝廷と寺社では異国降伏の祈祷が行われた。
伏見天皇へ譲位
皇太子だった従兄の熙仁親王へ譲位した。伏見天皇の即位後は後深草上皇が院政を行い、後宇多上皇は自系への皇位回復を待つ立場になった。
後二条天皇の即位と最初の院政
皇子・邦治親王が後二条天皇として即位し、大覚寺統の治世が戻った。後宇多上皇は1308年に後二条天皇が亡くなるまで院政を行った。
出家して大覚寺へ
仁和寺の禅助を戒師として出家し、大覚寺に入った。出家は政治からの完全引退ではなく、院政と密教研究を重ねる新しい活動段階だった。
後醍醐天皇の即位と二度目の院政
皇子・尊治親王が後醍醐天皇として即位すると、後宇多法皇は再び院政を行った。1321年に院政を停止し、後醍醐天皇の親政へ移した。
御手印遺告を記す
大覚寺の興隆を願う21か条を自筆し、冒頭と各条の初めに朱の手形を押した。現在は国宝として大覚寺に伝わる。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
在位中は亀山上皇の院政下にいた
文永・弘安の役を在位中に経験しましたが、本人が軍事を指揮したわけではありません。幼帝、治天の君、幕府という複数の権力を分けて見る必要があります。
二度の院政で大覚寺統を主導した
後二条天皇と後醍醐天皇の時代に院政を行い、持明院統との継承交渉の中で自系の政治基盤を立て直しました。
真言密教を実践と研究の両面で支えた
出家後も政務に関わりながら複数の法流を学び、自筆の教理・儀礼文書を残しました。宗教は政治から離れた余生ではなく、統治観の一部でした。
書と和歌の継承に足跡を残した
勅撰和歌集の編纂を命じ、護国経典、空海伝、寺法を自筆しました。国宝・重要文化財が本人の考えと筆跡を具体的に伝えます。
後醍醐天皇の前提を作ったが、同じ政治ではない
後醍醐天皇の即位と親政への移行を支えましたが、後の倒幕や建武政権を後宇多法皇が設計したとまではいえません。父子の政治を連続だけでなく差異からも見る必要があります。
RELATIONSHIPS
後宇多天皇を取り巻く人と組織
亀山天皇人物詳細 →
1274年に世仁親王へ譲位し、1287年まで院政を行った。大覚寺統の祖。
洞院佶子(京極院)
亀山天皇の皇后。後宇多天皇が幼い1272年に亡くなった。
後深草天皇人物詳細 →
自らの皇子・熙仁親王の継承を求め、1287年に伏見天皇の即位と院政を実現した。
伏見天皇人物詳細 →
1275年に後宇多天皇の皇太子となり、1287年に皇位を継いだ。
姈子内親王(遊義門院)
後深草天皇の皇女。二つの皇統を婚姻で結び、1307年に亡くなった。
後二条天皇人物詳細 →
1301年に即位し、後宇多上皇の院政を受けた。1308年に若くして死去した。
後醍醐天皇人物詳細 →
1318年に即位。1321年に後宇多法皇から政務を移され、親政を開始した。
注:後の倒幕政策を父の計画と同一視しない。邦良親王
後二条天皇の皇子。後醍醐天皇の次の大覚寺統継承者として位置づけられた。
北条時宗人物詳細 →
文永・弘安の役で鎌倉幕府の軍事防衛を主導した。
禅助
1307年の出家で戒師となり、翌年には広沢流の伝法灌頂を授けた仁和寺の僧。
藤原為世
後宇多上皇の命を受けて『新後撰和歌集』を編纂した。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
元寇を指揮した天皇?
いいえ。文永・弘安の役の軍事動員と九州防衛は鎌倉幕府が担いました。後宇多天皇は幼く、朝廷政治は父・亀山上皇の院政下にあり、朝廷・寺社は祈祷を行いました。
大覚寺統を後宇多天皇が作った?
系譜上の祖は父・亀山天皇ですが、『大覚寺統』という名称は後宇多法皇が大覚寺を院御所としたことに直接由来します。祖と名称の由来を分けて理解します。
両統迭立は十年交代の固定制度?
十年を一つの目安とする幕府の調整はありましたが、毎回自動的に交代する完成した制度ではありません。皇太子、治天の君、所領をめぐる交渉がその都度続きました。
『文保の和談』は一枚の条約?
後世に一連の皇位継承調整をまとめて呼ぶ名称です。合意の範囲や幕府の方針がいつ固まったかには研究上の議論があり、現代の条約のような一文書に単純化できません。
後醍醐天皇はただの中継ぎ?
後宇多法皇が次代に邦良親王を優先する構想を持っていたため、後醍醐天皇の継承には制約がありました。ただし、本人の能力や在位を無意味とする呼び方ではなく、当時の継承順を示す説明として慎重に用います。
二度目の院政は1313年か1318年か?
一般には後醍醐天皇が即位した1318年から二度目の院政とします。一方、1313年に後伏見上皇から政務が移されたことを重視し、政治主導の再開を早く置く研究もあります。
掲載肖像は本人を見て描いた?
『天子摂関御影』の像は14世紀前半の作で本人の時代に近い一方、制作の正確な年と描写過程はこの画像だけでは確定できません。写真のような容貌記録とは扱いません。
FAMILY TREE
後宇多天皇の家系図
大覚寺統の皇位継承と二度の院政に関わる主要人物を抜粋。掲載画像は14世紀前半の『天子摂関御影』に描かれた肖像で、写真ではありません。
皇室の系図(宮内庁) ↗PLACES
後宇多天皇の足跡を現地でたどる
大覚寺
1307年の出家後に入った政治と信仰の中心。後宇多法皇が院政を行ったと伝わる正寝殿の『御冠の間』、法皇像を祀る御影堂、国宝の自筆文書が伝わる。現存建物の年代と拝観状況は現地案内で確認したい。
仁和寺
1307年に仁和寺の禅助を戒師として出家し、翌年には禅助から広沢流の伝法灌頂を受けた。1322年の自筆消息も仁和寺に伝わる。
奈良国立博物館
1294年に自筆した紫紙金字『金光明最勝王経』巻第二残巻を所蔵する。常設展示とは限らないため、実物を見る際は当日の展示情報を確認する。
蓮華峯寺陵
京都市右京区北嵯峨にある後宇多天皇陵。方形堂と五輪塔からなり、大覚寺バス停から徒歩約18分と案内されている。
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後宇多天皇と関わる人々
FAQ
後宇多天皇についてよくある質問
Q01後宇多天皇は何をした人ですか?
元寇期に在位し、退位後は後二条天皇と後醍醐天皇の時代に二度院政を行いました。出家後は大覚寺を再興し、真言密教を研究して国宝の自筆文書を残しました。
Q02後宇多天皇の在位期間はいつですか?
1274年から1287年までです。幼く即位し、在位中の朝廷政治は父・亀山上皇の院政下にありました。
Q03後宇多天皇は元寇で戦ったのですか?
戦場で指揮したのではありません。軍事防衛は鎌倉幕府が担い、後宇多天皇の朝廷と寺社は異国降伏の祈祷や儀礼を行いました。
Q04なぜ伏見天皇へ譲位したのですか?
1275年に後深草上皇の皇子・熙仁親王が皇太子となっており、二つの皇統の調整の結果、1287年に伏見天皇へ皇位が移りました。本人の自由な選択だけで決まったわけではありません。
Q05後宇多天皇はいつ院政を行いましたか?
皇子・後二条天皇の即位した1301年から1308年までと、後醍醐天皇が即位した1318年から1321年までの二度です。1313年の政務移譲を政治主導の再開として重視する研究もあります。
Q06大覚寺統とは何ですか?
亀山天皇から後宇多天皇へ続く皇統です。系譜上の祖は亀山天皇ですが、後宇多法皇が大覚寺を院御所としたことから大覚寺統と呼ばれます。
Q07後醍醐天皇との関係は?
後醍醐天皇は後宇多天皇の皇子です。1318年の即位後は父の院政を受け、1321年に政務を移されて親政を開始しました。
Q08文保の和談とは何ですか?
鎌倉幕府が持明院統と大覚寺統の皇位継承を調整した一連の交渉を指す呼び名です。固定的な十年交代を一枚の条約で定めたと単純化はできません。
Q09御手印遺告とは何ですか?
1321年、後宇多法皇が大覚寺の教法と運営を守るために自筆した21か条です。冒頭と各条の初めに朱の手形を押し、現在は国宝に指定されています。
Q10後宇多天皇の墓と自筆はどこにありますか?
陵は京都・北嵯峨の蓮華峯寺陵です。国宝の『弘法大師伝』『御手印遺告』は大覚寺、1294年の自筆願経は奈良国立博物館などに伝わります。
SOURCES

