
PERSONAL FILE / 天皇
ごふかくさてんのう後深草天皇
伏見天皇へ皇位をつなぎ持明院統の祖となった第89代天皇後嵯峨天皇の皇子。1246年に4歳で即位し、父の院政下で在位した。1259年に弟・亀山天皇へ譲位した後、皇子・伏見天皇の即位を実現して持明院統の継承を形にした。北朝成立は本人の死後であり、皇統分岐を南北朝と直結させずに見る必要がある。
- 生没年
- 1243—1304
- 主な所属
- 皇室・持明院統
- 関わった出来事
- 3件

QUICK GUIDE
まず3分でわかる、後深草天皇
4歳で即位した第89代天皇
1246年、後嵯峨上皇の皇子として幼く即位しました。在位中の政務は父・後嵯峨上皇の院政の下で進められ、1259年に同母弟・亀山天皇へ譲位しました。
皇子・伏見天皇へ皇位をつないだ
弟の系統へ移った皇位を自らの子孫にも継がせることを求め、皇子・熙仁親王の立太子を経て、1287年に伏見天皇が即位しました。ここから持明院統の継承が形になります。
生前に北朝を作ったわけではない
後深草天皇の子孫は持明院統と呼ばれ、のちに北朝へつながります。しかし南北朝の分裂は死後30年以上たった1336年以降です。持明院統と北朝を同じ時点のものとして扱わないことが大切です。
LIFE TIMELINE
後深草天皇の生涯年表
後嵯峨天皇の皇子として生まれる
諱は久仁。母は西園寺姞子(大宮院)で、のちの亀山天皇とは同母兄弟だった。
第89代天皇として即位
幼くして皇位に就き、父・後嵯峨上皇が治天の君として院政を行った。
鎌倉で宝治合戦
在位中、鎌倉では北条氏が三浦氏を滅ぼした。幼帝が合戦を指揮したのではなく、京都と鎌倉の異なる政治の動きを同時代背景として見る必要がある。
閑院内裏が焼失
火災後、西園寺実氏の冷泉富小路殿へ移った。幕府の協力を得て新しい閑院内裏が造営され、1251年に移った。
後深草院御記の記録年代が始まる
『後深草院御記』はこの頃から1290年までの記録として伝わる。原本・写本・逸文の区別に注意しながら、宮廷儀礼と政務を知る手がかりになる。
弟・亀山天皇へ譲位
父・後嵯峨上皇の意向の下、同母弟の恒仁親王へ皇位を譲った。兄の皇子ではなく弟へ継承したことが、後の皇統分岐の前提となった。
皇子・熙仁親王が生まれる
洞院愔子(玄輝門院)との間に、のちの伏見天皇となる皇子が生まれた。
父・後嵯峨法皇が死去
治天の君が不在となり、皇位継承と皇室領の配分をめぐる問題が表面化した。単なる兄弟間の感情ではなく、所領・外戚・幕府との調整が絡んでいた。
熙仁親王が皇太子となる
亀山天皇の皇子・後宇多天皇の皇太子に、後深草上皇の皇子が立った。二つの系統が皇位を継ぐ枠組みが具体化した。
伏見天皇が即位し院政を開始
後宇多天皇から伏見天皇へ皇位が移り、後深草上皇が治天の君となった。弟への譲位から28年を経て、自らの皇子へ皇位がつながった。
皇子・久明親王が鎌倉将軍となる
別の皇子・久明親王が鎌倉幕府第8代将軍となった。ただし、これだけで幕府が持明院統を一貫して支持したと単純化はできない。
出家し、院政の前面から退く
出家後は伏見天皇の親政へ移ったが、現存する消息からは、その後も人事や政務について皇子へ助言した様子が分かる。
孫・後伏見天皇が即位
伏見天皇からその皇子へ皇位が継がれ、持明院統の直系継承が続いた。後深草法皇も一族の年長者として助言を続けた。
皇女へ所領を譲る自筆消息を残す
皇女・姈子内親王へ後土御門殿と新長講堂領忍海庄を譲る仮名消息を作成した。日付と花押を備え、譲状として機能した文書である。
死去し深草北陵へ
7月16日に死去。京都・深草の法華堂に葬られ、現在の深草北陵には持明院統とその後裔の複数の天皇陵がまとまっている。
BIOGRAPHY
後深草天皇は、どんな生涯を送ったか
幼い天皇と、父・後嵯峨上皇の院政
後深草天皇は1243年、後嵯峨天皇と西園寺姞子の皇子として生まれ、久仁親王と称しました。1246年にわずか4歳で即位したため、朝廷政治を本人が単独で動かしたわけではありません。父の後嵯峨上皇が院政を行い、儀礼の再興や御所の造営を含む政務を主導しました。
在位中の1247年には鎌倉で宝治合戦が起き、北条得宗家が幕府内の主導権を強めました。しかし、この合戦を後深草天皇の業績とするのは正確ではありません。幼帝の宮廷と、鎌倉の武家政治が並行して動いていた時代として位置づける必要があります。
なぜ弟・亀山天皇へ譲位したのか
1259年、後深草天皇は17歳で同母弟の恒仁親王、のちの亀山天皇へ譲位しました。兄から弟への継承は父・後嵯峨上皇の意向で進められましたが、その理由を一つに絞れる同時代史料はありません。後深草上皇がこの決定に満足していなかったことは後世の叙述に表れますが、個人的な兄弟げんかだけで説明することもできません。
皇位には、誰が治天の君となるか、皇室領をどの系統が受け継ぐか、公家の婚姻関係をどう保つかという問題が結びついていました。1272年に後嵯峨法皇が亡くなると、その調整役を失った継承問題がいっそう重くなりました。
伏見天皇の立太子と、二つの皇統
後深草上皇は、自らの皇子・熙仁親王にも皇位を継がせることを求めました。鎌倉幕府も問い合わせや調整に関わり、1275年、熙仁親王は後宇多天皇の皇太子となります。1287年に伏見天皇として即位すると、後深草上皇は治天の君となりました。
後深草天皇の子孫は持明院統、亀山天皇の子孫は大覚寺統と呼ばれます。ただし、二系統が生まれた時点で南朝と北朝に分裂したのではありません。両統迭立と呼ばれる継承の調整が続いた後、後醍醐天皇の時代の政治・軍事対立を経て、1336年以降の南北朝へ進みます。
短い院政と、皇子へ送り続けた助言
後深草上皇の院政は、伏見天皇が即位した1287年から出家する1290年までの短い期間でした。その後は伏見天皇の親政へ移りますが、後深草法皇が政治から完全に離れたわけではありません。
現存する自筆消息には、伏見天皇へ人事を相談し、鎌倉幕府の意向も尋ねるよう助言した文書があります。制度上の院政が終わった後も、父であり持明院統の年長者である法皇が、皇子へ経験を伝えていたことを具体的に示します。
『とはずがたり』が描く宮廷をどう読むか
後深草院に仕えた二条は、宮廷生活とその後の旅を『とはずがたり』に記しました。後深草院をめぐる人間関係や女性の立場を考えるうえで欠かせない作品ですが、現存写本によって伝わる回想的な文学作品でもあります。
作中の会話や感情を録音記録のように扱うことはできません。一方で、政治制度の記録だけでは見えにくい宮廷生活、奉仕、信仰、旅の経験を伝える層として、自筆消息や公家日記と照らし合わせて読む価値があります。
自筆文書と深草北陵が伝えるもの
後深草天皇には複数の自筆消息が残ります。人事について伏見天皇へ送った消息、病気を気遣う私的な消息、皇女へ所領を譲った1300年の仮名消息から、政治と家族、財産継承が同じ人物の生活に重なっていたことが分かります。
1304年の死後、法皇は深草の法華堂に葬られました。現在の深草北陵には、伏見天皇、後伏見天皇をはじめ持明院統とその後裔の陵がまとまります。ここでは一人の墓だけでなく、皇統が土地と記憶を共有していく過程をたどれます。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
後深草天皇宸翰消息断簡(二通)
1290〜1291年頃重要文化財
皇子・伏見天皇へ送った二通の消息。人事について伝える文書と、伏見天皇の中宮・永福門院の病気を気遣う文書で、政治と家族の両面を伝える。後に高山寺関係の法華経の料紙として再利用された。
後深草天皇宸翰仮名消息
1300年11月18日重要文化財
皇女・姈子内親王へ後土御門殿と新長講堂領忍海庄を譲ることを記した仮名消息。日付と花押を備え、家族への私信であると同時に財産移転を保証する譲状として機能した。
後深草院崩御記
1304年
西園寺公衡の日記『公衡公記』のうち、後深草院の崩御前後を記した鎌倉時代の原本。法皇の最期と宮廷の対応を同時代人の側から確認できる。
HISTORICAL ROLE
後深草天皇は、その時何をしたか
亀山天皇への譲位
父・後嵯峨上皇の意向の下、同母弟へ皇位を譲った。兄の皇子ではなく弟へ継承したことが、後の持明院統と大覚寺統の分岐の前提となった。
伏見天皇の即位
譲位から28年後、皇子・熙仁親王が伏見天皇として即位した。院政は短期間だったが、出家後も自筆消息を通じて助言を続けた。
皇女への自筆譲状
皇女・姈子内親王へ後土御門殿と新長講堂領忍海庄を譲る仮名消息を作成した。日付と花押を備え、家族への私信と財産移転の証明を兼ねた。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
在位中は父の院政下にいた
4歳で即位したため、13年間の在位を本人の親政として数えることはできません。第89代天皇であることと、実際の政務を父・後嵯峨上皇が主導したことを併せて見る必要があります。
持明院統の継承を形にした
弟へ移った皇位を皇子・伏見天皇、孫・後伏見天皇へつなぎました。後世の持明院統につながる最大の政治的成果です。
院政は短く、助言はその後も続いた
治天の君として前面に立った期間は約2年余りでしたが、自筆消息は出家後も伏見天皇へ人事・政務上の助言を続けたことを示します。
日記と消息から肉声に近づける
『後深草院御記』や自筆消息、『とはずがたり』など、制度・家族・宮廷生活を異なる角度から照合できる史料に恵まれた人物です。
南北朝分裂の一人の原因ではない
持明院統の祖であることは確かですが、南北朝の分裂は後世の政治対立と武力衝突を経て起きました。後深草天皇一人の意思へ原因を集約することはできません。
RELATIONSHIPS
後深草天皇を取り巻く人と組織
後嵯峨天皇人物詳細 →
後深草天皇を幼くして即位させ、その在位中に院政を行った。のち弟・恒仁親王を継承者とした。
西園寺姞子(大宮院)
後深草天皇と亀山天皇の生母。西園寺家と皇室を結ぶ立場にあった。
亀山天皇人物詳細 →
1259年に兄から皇位を継いだ。子孫は大覚寺統となる。
注:兄弟の系統間競争だけでなく、父の継承方針と所領問題も見る必要がある。洞院愔子(玄輝門院)
皇子・熙仁親王を生み、持明院統の直系継承につながった。
伏見天皇人物詳細 →
1275年に皇太子、1287年に天皇となった。後深草法皇の自筆消息の多くが伏見天皇へ送られている。
後伏見天皇人物詳細 →
1298年に伏見天皇から皇位を継ぎ、持明院統の継承を続けた。
久明親王
1289年に鎌倉へ下り、1308年まで将軍を務めた。
姈子内親王
1300年、父から御所と荘園を譲る仮名消息を受けた。
後宇多天皇人物詳細 →
亀山天皇の皇子。後深草天皇の皇子・熙仁親王を皇太子とし、1287年に譲位した。
二条人物詳細 →
後深草院の宮廷に仕え、その生活と後年の旅を回想的に記した。
注:文学作品中の会話や感情は、同時代の公文書と同じ性格の記録ではない。MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
なぜ若くして弟へ譲位した?
父・後嵯峨上皇の意向で進められたことは確かですが、その判断理由を一つに限定できません。兄弟の資質、外戚、皇室領、政治的な均衡を含めて考える必要があります。
後嵯峨法皇は大覚寺統だけを選んだ?
亀山天皇の皇子を後継に望んだと読める事情はありますが、将来にわたり一方の系統だけを皇位につける明確な制度を残したわけではありません。死後の所領と継承の解釈が対立を深めました。
鎌倉幕府が天皇を決めた?
幕府は朝廷からの問い合わせに答え、両統の調整に関わりました。ただし、現代の任命権のように幕府だけが天皇を自由に選んだと表現するのは不正確です。
持明院統はそのまま北朝?
後深草天皇の子孫が後の北朝へつながるのは事実です。しかし持明院統の成立と南北朝の分裂には数十年の隔たりがあり、その間にも継承交渉と政治変動がありました。
在位中の政治は本人の業績?
幼帝期の政務は父・後嵯峨上皇の院政下で進みました。在位年に起きた宝治合戦や御所造営を、すべて後深草天皇本人の政策とすることはできません。
『とはずがたり』の会話は事実?
作者自身の経験を基礎とする回想的な文学作品ですが、現存伝本の成立事情も含め、作中の台詞を一字一句の記録としては扱えません。他の記録と照合して読みます。
本人の顔は分かる?
存命中の容貌を確実に写したと確認できる肖像は採用していません。このページでは後世の想像図を本人の顔として示さず、菊花紋章を表示しています。
FAMILY TREE
後深草天皇の家系図
持明院統と大覚寺統の分岐、伏見天皇への継承に関わる主要人物を抜粋。持明院統は後の北朝へつながりますが、本人の生前に北朝が成立したわけではありません。確実な肖像を使わず菊花紋章を表示しています。
皇室の系図(宮内庁) ↗PLACES
後深草天皇の足跡を現地でたどる
持明院仙洞御所跡
後深草上皇の系統が院御所として用い、持明院統の呼称につながった場所。建物は残らず、京都市上京区の石標で位置をたどる。
五条院旧跡
後深草天皇が1259年に移り、のちには父・後嵯峨上皇も御所とした場所。現在は石標が御所の記憶を伝える。
深草北陵
後深草天皇の陵。伏見天皇・後伏見天皇など複数の天皇陵が同じ法華堂にまとまり、持明院統と後裔のつながりを現地で確認できる。
京都国立博物館
重要文化財『後深草天皇宸翰消息』を所蔵する。展示替えがあるため、実物を見学する場合は当日の展示情報を確認したい。
RELATED PEOPLE
後深草天皇と関わる人々
FAQ
後深草天皇についてよくある質問
Q01後深草天皇は何をした人ですか?
4歳で第89代天皇となり、弟・亀山天皇への譲位後は自らの皇子・伏見天皇の立太子と即位を実現しました。その子孫は持明院統と呼ばれます。
Q02後深草天皇の在位期間はいつですか?
1246年から1259年までです。幼少期からの在位で、父・後嵯峨上皇が院政を行いました。
Q03なぜ弟の亀山天皇へ譲位したのですか?
父・後嵯峨上皇の意向により、弟の恒仁親王が後継となりました。ただし、その判断理由を一つに絞れる史料はなく、外戚・所領・継承構想を含めて考える必要があります。
Q04後深草天皇と亀山天皇は仲が悪かったのですか?
皇位継承をめぐって二人の子孫の利害は競合しましたが、兄弟の感情だけで説明はできません。父の継承方針、皇室領、公家社会、幕府の調整が重なった問題です。
Q05持明院統とは何ですか?
後深草天皇から伏見天皇へ続く皇統です。後深草上皇の系統が持明院を院御所としたことから、この名で呼ばれます。
Q06後深草天皇は北朝を作ったのですか?
いいえ。子孫の持明院統が後の北朝へつながりますが、北朝の成立は後深草天皇の死から30年以上後です。持明院統の成立と南北朝分裂は同じ出来事ではありません。
Q07伏見天皇との関係は?
伏見天皇は後深草天皇の皇子です。1287年に即位すると後深草上皇が院政を行い、出家後も自筆消息で人事などを助言しました。
Q08鎌倉幕府は皇位継承にどう関わりましたか?
朝廷からの問い合わせへの回答や、二つの皇統の調整に関わりました。ただし、幕府だけが天皇を自由に任命したと説明するのは正確ではありません。
Q09『とはずがたり』とは何ですか?
後深草院に仕えた二条が、宮廷生活と後年の旅を記した5巻の回想的文学作品です。重要な証言ですが、作中の会話を逐語的な公記録として扱うことはできません。
Q10後深草天皇の自筆や墓は残っていますか?
伏見天皇への消息や、皇女へ所領を譲った仮名消息などが残っています。陵は京都市伏見区の深草北陵です。
SOURCES


