飛鳥時代 / 用明天皇2年
用明天皇2年
丁未の乱
用明天皇崩御後、蘇我馬子と物部守屋が皇位継承と仏教受容をめぐって衝突。馬子方が勝利し、物部氏の中央政界での力が後退した。
この戦いを単純な仏教対神道の宗教戦争と見るのは不十分です。皇位候補をめぐる政争、軍事氏族の主導権、百済系外交と渡来技術の受容が重なっていました。
- 場所
- 河内国・渋川郡
- 天皇
- 用明天皇崩御後第31代天皇
- 関係人物
- 4名

OVERVIEW
丁未の乱を4段階で理解する
欽明朝以来、蘇我氏と物部氏は外交・祭祀・王位継承で競合した
蘇我氏は渡来人・財政・仏教との結びつきを強め、物部氏は軍事と在来祭祀で大きな地位を占めました。対立は仏像を拝むかだけでなく、王権の方向性をめぐるものでした。
用明天皇の死で後継者選びが急迫し、両氏が別の皇子を支えた
物部守屋は穴穂部皇子に接近し、蘇我馬子は泊瀬部皇子を支えました。馬子方が穴穂部皇子を殺したことで、調停の余地がなくなります。
馬子方が守屋の河内の本拠を攻め、激戦の末に守屋を討った
厩戸皇子ら皇族も馬子方に加わりました。守屋が木の上から矢を放ったという有名な場面は『日本書紀』の叙述であり、戦場の細部は軍記的表現を含みます。
崇峻天皇が即位し、飛鳥寺造営が進んだ
物部氏の中央政治での勢力は後退し、蘇我氏が王権運営の中心になりました。ただし物部系氏族が消滅したわけではなく、各地で系譜と職掌を保ちました。
DEEP DIVE
丁未の乱は、仏教と神道の宗教戦争だったのか。
仏教受容は重要でしたが、用明天皇後の皇位継承、蘇我・物部両氏の政治的主導権、外交と渡来系人材の管理が重なった戦いです。宗教だけでは説明できません。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
欽明朝以来、蘇我氏と物部氏は外交・祭祀・王位継承で競合した
蘇我氏は渡来人・財政・仏教との結びつきを強め、物部氏は軍事と在来祭祀で大きな地位を占めました。対立は仏像を拝むかだけでなく、王権の方向性をめぐるものでした。
用明天皇の死で後継者選びが急迫し、両氏が別の皇子を支えた
物部守屋は穴穂部皇子に接近し、蘇我馬子は泊瀬部皇子を支えました。馬子方が穴穂部皇子を殺したことで、調停の余地がなくなります。
馬子方が守屋の河内の本拠を攻め、激戦の末に守屋を討った
厩戸皇子ら皇族も馬子方に加わりました。守屋が木の上から矢を放ったという有名な場面は『日本書紀』の叙述であり、戦場の細部は軍記的表現を含みます。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
仏教公伝
欽明朝で受容をめぐる議論が始まりました。
敏達天皇崩御
皇位継承と豪族対立が続きました。
用明天皇崩御
後継者争いが急迫しました。
守屋本拠を攻撃
馬子方が河内へ進みました。
飛鳥寺造営
本格的な伽藍整備が進みました。
KEY PEOPLE
丁未の乱を動かした人物
RELATIONSHIP
丁未の乱 人物相関図
皇位継承と仏教受容が二つの豪族陣営へ分かれた構図です。
蘇我 馬子大臣・軍勢を主導
厩戸皇子/聖徳太子皇族として参戦
物部 守屋大連・本拠で抗戦蘇我 馬子決戦物部 守屋皇位継承と仏教受容をめぐり武力衝突
蘇我 馬子共闘厩戸皇子/聖徳太子諸皇子・豪族と守屋を攻める
QUESTIONS
よくある疑問
厩戸皇子が四天王像を作ったのか
『日本書紀』の有名な記事ですが、信仰的叙述と実際の戦闘経過を分けて検討します。
物部氏は滅亡したのか
守屋の系統は打撃を受けましたが、物部系諸氏は各地で存続しました。
勝利後すぐ全国に普及したのか
寺院造営は進みましたが、地域社会への浸透には長い時間がかかりました。
IMPACT
その後、何が変わったか
蘇我氏の主導権
崇峻・推古朝で蘇我馬子が政権運営の中心となりました。
寺院造営の本格化
飛鳥寺を皮切りに、王権と豪族が仏教建築へ資源を投入しました。
推古朝の改革
厩戸皇子・馬子らによる冠位・外交・官人規範の整備へつながりました。
SOURCES



