安土桃山時代 / 天正11年
天正11年
賤ヶ岳の戦い
信長死後の主導権をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家が近江北部で激突。秀吉が勝利して後継者争いを大きく前進させた。
清須会議の対立は、織田家内部の政治・領地・婚姻関係を巻き込んで武力衝突へ進んだ。秀吉の勝利後も統一は完成せず、翌年には徳川家康との小牧・長久手の戦いが続く。
- 場所
- 近江国・賤ヶ岳
- 天皇
- 正親町天皇第106代天皇
- 関係人物
- 4名

OVERVIEW
賤ヶ岳の戦いを4段階で理解する
本能寺の変後、織田家の後継と領地配分をめぐる均衡が崩れた
山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉は発言力を高め、清須会議で信長の孫・三法師を後継に推しました。勝家は信長の三男・信孝を支持し、北陸と畿内を結ぶ近江が両陣営の接点になります。
織田家を誰が支えるかという争いが、実質的な政権主導権争いへ変わった
秀吉は山崎・大徳寺での信長葬儀を通じて正統性を示し、勝家は信孝や滝川一益と連携。冬の積雪で北陸軍が動きにくい時期、秀吉は長浜・岐阜方面へ圧力をかけました。
秀吉は大垣から近江へ急行し、前線の崩れを短時間で反転させた
勝家方の佐久間盛政が中川清秀の陣を攻めたものの、命令に反して前線へ留まりました。秀吉は岐阜方面から軍を返し、賤ヶ岳周辺で反撃。前田利家らが戦線を離れ、勝家軍は崩れました。
勝家は北ノ庄城で自害し、秀吉が織田旧領の主導権を握った
勝家は妻のお市とともに自害し、信孝も追い詰められて自害。秀吉は大坂城の築城を始め、諸大名を従える政権の中心へ進みます。『賤ヶ岳七本槍』の物語も後世に広まりました。
DEEP DIVE
賤ヶ岳は、なぜ秀吉を『信長の後継者』へ押し上げたのか。
戦場で勝家を破っただけでなく、織田家の後継候補と有力宿老の政治基盤を同時に崩したためです。山崎で得た軍事的威信が、領地と家臣団を伴う政権基盤へ変わりました。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
清須会議
三法師を織田家後継とし領地を再配分しましたが、秀吉と勝家の対立は解消されませんでした。
織田信孝の挙兵
勝家と結んだ信孝が岐阜で対抗し、秀吉は北陸軍と岐阜方面の二正面を意識する必要がありました。
雪が左右する北陸戦線
冬季に勝家の大軍が越前から動きにくい地理条件を利用し、秀吉は周辺勢力の切り崩しを進めました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
本能寺の変・山崎の戦い
信長が死去し、秀吉が光秀を破って急速に台頭しました。
清須会議
後継と領地配分を決めましたが、秀吉と勝家の溝が深まりました。
両軍が近江で対峙
勝家軍が南下し、余呉湖周辺の砦をめぐる持久戦になりました。
佐久間盛政が攻撃
秀吉方の中川清秀を討つ一方、前線に留まり反撃を受けます。
秀吉勝利・北ノ庄落城
勝家軍が崩れ、勝家とお市は北ノ庄城で自害しました。
KEY PEOPLE
賤ヶ岳の戦いを動かした人物
RELATIONSHIP
賤ヶ岳の戦い 人物相関図
天正11年(1583)、信長死後の織田家主導権を争った羽柴秀吉方と柴田勝家方を整理します。
豊臣 秀吉羽柴方総大将
福島 正則秀吉配下として前線で戦う
柴田 勝家織田家宿老・北陸の有力者豊臣 秀吉敵対柴田 勝家織田家の後継方針と主導権をめぐり対立
豊臣 秀吉主従福島 正則福島正則は秀吉配下として参戦
QUESTIONS
よくある疑問
美濃大返しの速度はどこまで事実か
秀吉軍の急行は重要ですが、後世の軍記が劇的に整えた部分もあります。行軍距離と時刻には史料差があります。
前田利家は勝家を裏切ったのか
戦線離脱は勝敗へ影響しましたが、事前の密約や行動理由は断定できません。両陣営との関係を踏まえる必要があります。
賤ヶ岳七本槍は七人だけだったのか
秀吉が功を賞した若手武将は七人に限らず、固定した七本槍像は後世の顕彰で広まりました。
IMPACT
その後、何が変わったか
秀吉の主導権確立
織田家筆頭級の勝家を破り、旧織田領の再編を主導できる立場になりました。
大坂城築城へ
石山本願寺跡で巨大城郭の建設を始め、畿内政権の新たな中心を作りました。
次の対立へ
徳川家康・織田信雄との緊張が高まり、翌年の小牧・長久手の戦いへ続きました。
SOURCES

