大正時代 / 大正7年
大正7年今から約108年前
米騒動と原敬内閣
富山の沿岸部で始まった米価高騰への抗議が全国へ拡大し、寺内内閣が退陣。衆議院の政党を基盤とする原敬の本格的な政党内閣が成立した。
米騒動は単一の指導者が起こした反乱ではない。戦時景気、米の投機と移出、シベリア出兵を見越した需要などが重なり、地域ごとに嘆願・買い占め阻止・打ちこわしなど異なる形で広がった。
- 場所
- 富山県沿岸・全国・東京
- 天皇
- 大正天皇第123代天皇
- 関係人物
- 3名

PROTEST TO CABINET / 1918
米価の怒りが、内閣を替える。
生活費の危機が地域の抗議から全国政治へ届くまでを整理します。- 生活01米価が急騰
戦時インフレ、需要、投機などが重なり家計を圧迫。
- 富山02移出停止と廉売を要求
沿岸の女性たちの行動が報道され、各地へ伝わる。
- 全国03多様な抗議へ拡大
嘆願・集会・値下げ要求・打ちこわしが各地で起こる。
- 政治04原敬内閣が成立
寺内内閣退陣後、衆議院多数党を基盤に政権を組織。
OVERVIEW
米騒動と原敬内閣を4段階で理解する
景気拡大の裏で、米価が家計を直撃した
第一次世界大戦中、工業と輸出は伸びましたが、人口が集中する都市では食料需要も増えました。1918年には米価が急騰し、賃金だけでは暮らせない人々の不満が高まります。
富山の女性たちの訴えから、全国の抗議へ広がった
富山湾沿岸では、米の県外移出を止め安く売るよう求める動きが起こりました。報道を通じて各地へ波及し、米屋への値下げ要求、集会、打ちこわしなど多様な行動が発生しました。
寺内内閣が退陣し、原敬が首相になった
政府の対応と報道統制は批判を招き、寺内正毅内閣は退陣しました。立憲政友会総裁・原敬が首相となり、衆議院の多数党を基礎とする本格的な政党内閣を組織します。
原内閣の成立だけで民主政治が完成したわけではない
原は爵位を持たない『平民宰相』として期待されましたが、普通選挙には慎重で、植民地支配も続きました。政党政治の前進と限界を同時に見る必要があります。
DEEP DIVE
米騒動は、なぜ全国政治を動かすほど拡大したのか。
米はほぼすべての家庭に必要で、値上がりの影響が広範囲に及びました。戦時景気の利益と生活苦の落差、投機への不信、新聞報道、地域の共同行動が重なり、抗議は内閣退陣と政党内閣成立へつながりました。
LOCATION
地図で見る
ピンは米の県外移出をめぐる抗議が起きた富山県魚津市沿岸部を示します。騒動は全国の都市・鉱山・農村へ広がり、地域ごとに形が異なりました。
OpenStreetMapで拡大する ↗BACKGROUND
背景を掘り下げる
米価の急騰
需要増、流通、投機、シベリア出兵を前にした思惑など複数の要因が重なりました。単一原因では説明できません。
新聞と情報
地方の抗議が報道され、各地の人々が自分たちの生活問題と結びつけました。政府は一時、騒動報道を制限しました。
地域ごとの違い
女性の嘆願、労働者の集会、米屋への要求、建物への攻撃まで形は多様で、全国を一つの組織が指揮したのではありません。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
富山沿岸で抗議
女性たちが米の県外移出停止と廉売を求めました。
全国へ拡大
京都・大阪・神戸・名古屋・東京などへ抗議と騒動が広がりました。
軍隊も出動
政府は警察と軍を動員し、多数の逮捕者を出しました。
寺内内閣が退陣
騒動への対応と政治批判の高まりを受けて総辞職しました。
原敬内閣が成立
立憲政友会を基礎とする本格的政党内閣が発足しました。
KEY PEOPLE
米騒動と原敬内閣を動かした人物
QUESTIONS
よくある疑問
『越中女一揆』だったのか
富山の女性たちは重要な起点ですが、全国の行動主体と方法は多様でした。一つの英雄物語へまとめないことが必要です。
シベリア出兵だけが原因か
出兵を見越した買い付けは高騰要因の一つですが、戦時インフレ、都市需要、流通、投機などが重なりました。
原内閣は民主主義を完成させたか
政党を基盤に内閣を作った意義は大きい一方、選挙権は制限され、普通選挙と女性参政権は実現していませんでした。
IMPACT
その後、何が変わったか
民衆が内閣を動かす
生活問題をめぐる全国的な抗議が、内閣退陣へ直結しました。
政党内閣が成立
衆議院多数党を政権基盤とする政治運営が本格化しました。
社会政策の必要性
物価・労働・都市貧困が国家の重要課題として認識されました。
SOURCES





