室町時代 / 嘉吉元年
嘉吉元年今から約585年前
嘉吉の乱
将軍足利義教が赤松満祐邸で暗殺され、幕府が播磨へ追討軍を派遣。将軍権力の強化と守護大名の反発が、政権中枢で爆発した。
将軍暗殺で事件は終わらず、満祐が領国へ戻った後に幕府の追討戦が続いた。義教の強権だけを原因と決めつけず、赤松氏の所領継承への不安と幕府内の力関係を重ねて見る必要がある。
- 場所
- 山城国・京都/播磨国・城山城
- 天皇
- 後花園天皇第102代天皇
- 関係人物
- 4名

OVERVIEW
嘉吉の乱を4段階で理解する
義教は守護大名を抑え、将軍が政務を主導する体制を再建していた
くじ引きで将軍となった義教は、幕府裁判や軍事指揮を掌握し、反抗する大名・公家・寺社を厳しく処分しました。幕府の統制力は高まりましたが、有力者には次に処罰されるかもしれないという恐怖も広がります。
赤松氏は所領没収や家督への介入を警戒し、先手を打つ形で襲撃を計画した
赤松満祐は播磨・備前・美作を基盤とする有力守護でした。義教が赤松氏の所領を別系統へ与えるという噂や、近臣を優遇する人事への不安が重なり、満祐は将軍を自邸へ招く計画を進めました。
祝宴の最中に義教を殺害し、赤松勢は京都から播磨へ退いた
1441年6月24日、結城合戦の祝勝を名目とする宴の途中で武者が御座所を襲い、義教を殺害しました。居合わせた諸大名は即座に反撃できず、満祐らは領国へ戻って城山城を中心に防備を固めます。
幕府軍が赤松氏を滅ぼしたが、将軍個人へ権力を集める政治は後退した
山名持豊らを中心とする追討軍が播磨へ進み、9月に城山城が落城して満祐は自害しました。幕府は秩序を回復したものの、幼い将軍が続き、実務は有力守護と将軍家近臣の合議へ移っていきます。
DEEP DIVE
将軍暗殺は、なぜ幕府の崩壊ではなく赤松氏追討へつながったのか。
守護大名は義教の強権に反発していても、将軍殺害を認めれば自らの権威を支える幕府秩序も崩れます。そのため有力守護は幼い新将軍を支え、赤松氏を共同で追討しました。
LOCATION
地図で見る
ピンは将軍暗殺の舞台となった赤松邸があったとされる京都御所西方の一帯です。事件当時の屋敷境界は現在の地図上で確定できないため、周辺位置として示しています。
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背景を掘り下げる
義教は守護大名を抑え、将軍が政務を主導する体制を再建していた
くじ引きで将軍となった義教は、幕府裁判や軍事指揮を掌握し、反抗する大名・公家・寺社を厳しく処分しました。幕府の統制力は高まりましたが、有力者には次に処罰されるかもしれないという恐怖も広がります。
赤松氏は所領没収や家督への介入を警戒し、先手を打つ形で襲撃を計画した
赤松満祐は播磨・備前・美作を基盤とする有力守護でした。義教が赤松氏の所領を別系統へ与えるという噂や、近臣を優遇する人事への不安が重なり、満祐は将軍を自邸へ招く計画を進めました。
祝宴の最中に義教を殺害し、赤松勢は京都から播磨へ退いた
1441年6月24日、結城合戦の祝勝を名目とする宴の途中で武者が御座所を襲い、義教を殺害しました。居合わせた諸大名は即座に反撃できず、満祐らは領国へ戻って城山城を中心に防備を固めます。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
義教が親政を強める
守護大名・寺社への統制と処罰を進め、将軍権力を再建しました。
赤松邸で義教を暗殺
結城合戦の祝勝宴の最中に赤松方が御座所を襲撃しました。
満祐が播磨へ退く
赤松勢は領国へ戻り、城山城を中心に幕府軍へ備えました。
幕府軍が播磨へ進攻
山名持豊らの軍勢が赤松方の拠点を攻略しました。
城山城が落城
満祐は自害し、赤松氏の旧領は追討に参加した諸将へ再配分されました。
KEY PEOPLE
嘉吉の乱を動かした人物
RELATIONSHIP
嘉吉の乱 人物相関図
将軍暗殺から播磨追討まで、事件の当事者と幕府側の動きを整理します。
足利 義教第6代将軍・宴席で暗殺
後花園天皇将軍宣下を担う朝廷
山名 宗全幕府軍として播磨を追討
赤松 満祐襲撃を計画・城山城で抗戦足利 義教暗殺赤松 満祐満祐が自邸へ義教を招き襲撃
山名 宗全追討赤松 満祐幕府軍が播磨へ進攻
後花園天皇公武関係足利 義教朝廷が将軍職を宣下する政治秩序
QUESTIONS
よくある疑問
義教の恐怖政治だけが原因か
強権への恐怖は重要ですが、赤松氏内部の家督・所領問題や将軍近臣の人事も絡みます。単一の怨恨だけでは説明できません。
宴の演出はどこまで確実か
襲撃の骨格は諸記録から追えますが、鴨が飛び立つ音を合図にしたなどの劇的描写は、史料ごとの差を確認する必要があります。
室町幕府は弱体化したのか
追討を実行する軍事力は保ちましたが、義教型の将軍親政は後退し、有力守護の発言力が再び強まりました。
IMPACT
その後、何が変わったか
将軍親政の後退
義教が集中させた権力を幼い後継者が引き継げず、幕政は有力者の合議へ戻りました。
山名氏の拡大
追討で功績を挙げた山名氏が赤松旧領の多くを得て、のちの細川氏との対立の土台になります。
土倉・馬借の蜂起
政変直後の京都では嘉吉の徳政一揆が起こり、武家の政変と都市社会の要求が同時進行しました。
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京都の歴史を、現地で重ねる
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