奈良時代 / 天平12年
天平12年
藤原広嗣の乱
大宰府へ左遷された藤原広嗣が玄昉・吉備真備の排除を求めて九州で挙兵。朝廷の大軍に敗れたが、聖武天皇の長い行幸と遷都へ影を落とした。
乱は藤原氏と新興官人の対立だけでなく、疫病後の政局、大宰府管内の軍事動員、九州社会の不満が重なって起きました。広嗣軍は豊前で政府軍に阻まれ、海路で逃れようとして五島列島で捕らえられます。
- 場所
- 大宰府・豊前国板櫃川
- 天皇
- 聖武天皇第45代天皇
- 関係人物
- 2名

OVERVIEW
藤原広嗣の乱を4段階で理解する
疫病で藤原四兄弟が相次いで没し、奈良朝の権力構成が変わった
735年から737年の天然痘流行で藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂が死去し、橘諸兄が政権を担いました。唐から帰国した吉備真備と僧玄昉も重用され、藤原氏の若い世代には不満が生まれます。
広嗣は玄昉と吉備真備の排除を求め、左遷先の大宰府で兵を集めた
藤原宇合の長男・広嗣は大宰少弐へ移されました。740年8月、政治の混乱は玄昉と真備にあるとして二人の罷免を求める上表を送り、受け入れられないと九州各地の兵を動員しました。
政府軍が進路を押さえ、板櫃川付近の対陣後に広嗣軍が崩れた
朝廷は大野東人を大将軍として諸国の兵を集めました。広嗣軍は豊前へ進みましたが、官軍の説得や渡河阻止で離脱者が増えます。広嗣は船で新羅方面へ逃れようとしたものの、五島列島で捕らえられ処刑されました。
聖武天皇は平城京を離れ、恭仁京などを巡る遷都へ動いた
乱の最中に聖武天皇は伊勢・美濃・近江を巡る行幸へ出て、その後は恭仁京、紫香楽宮、難波宮へ政治拠点を移しました。乱だけが原因とは断定できませんが、不安定な政局を象徴する出来事でした。
DEEP DIVE
藤原広嗣の乱は、藤原氏が政権を取り戻すためだけの反乱だったのか。
藤原氏内部の権力回復は重要ですが、それだけでは九州で兵が集まった理由を説明しきれません。大宰府管内の軍事動員、疫病後の混乱、地方官と住民の負担を重ねて考える必要があります。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
天然痘と政局
藤原四兄弟の死で政権の中心が変わり、橘諸兄・吉備真備・玄昉が台頭しました。
大宰府への左遷
広嗣は中央から遠い大宰少弐へ移され、政治的な不満を募らせました。
九州の軍事基盤
大宰府は西海道諸国を統括し、防人と兵士を動員できる行政・軍事拠点でした。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
藤原四兄弟が死去
天然痘流行で政局が変化しました。
広嗣が大宰府へ
大宰少弐として九州へ移されました。
上表を提出
玄昉と吉備真備の排除を求めました。
豊前で官軍と対陣
板櫃川周辺で進軍を阻まれました。
広嗣を処刑
五島列島で捕らえられました。
KEY PEOPLE
藤原広嗣の乱を動かした人物
RELATIONSHIP
藤原広嗣の乱 対立図
左遷された藤原広嗣と、聖武天皇を中心とする朝廷の対立を示します。
藤原 広嗣反乱の指導者
聖武天皇第45代天皇藤原 広嗣反乱聖武天皇上表が受け入れられず武力衝突へ
QUESTIONS
よくある疑問
広嗣軍は本当に一万人を超えたのか
『続日本紀』は大規模な動員を伝えますが、名目上の徴発数と実戦参加者を同一視できません。
天皇を倒そうとしたのか
上表の明示的要求は玄昉・吉備真備の排除です。挙兵後の最終目標は史料から一つに断定できません。
乱が原因で聖武天皇は都を移したのか
乱は不安を強めましたが、仏教政策や政治基盤、疫病など複数の要因があり、単一原因ではありません。
IMPACT
その後、何が変わったか
藤原式家の後退
広嗣の敗死で式家の勢力は一時大きく後退しました。
聖武天皇の行幸と遷都
平城京を離れる長い行幸が始まり、恭仁京などへ政治拠点が移りました。
大宰府統制の見直し
地方行政・軍事拠点が中央へ反旗を翻す危険が示されました。
SOURCES


