明治時代 / 明治23年
明治23年
第1回帝国議会
大日本帝国憲法の施行とともに帝国議会が開会。選挙で選ばれた衆議院と貴族院が予算・法律を審議する立憲政治が始まった。
議会開設は自由民権運動の要求を制度化した一歩だったが、選挙権は高額納税の25歳以上男性に限られ、女性や大多数の成人男性は政治参加から排除されていた。
- 場所
- 東京・仮議事堂
- 天皇
- 明治天皇第122代天皇
- 関係人物
- 5名

OVERVIEW
第1回帝国議会を4段階で理解する
憲法発布の翌年、政府は議会と予算を共有する段階へ入った
1889年の大日本帝国憲法は、法律と予算に帝国議会の協賛を必要としました。政府は藩閥官僚を中心に構成され、自由民権運動から生まれた政党勢力は衆議院で『民力休養・政費節減』を掲げました。
初の総選挙は実施されたが、有権者は人口の約1%だった
直接国税15円以上を納める25歳以上の男性だけが衆議院議員を選べました。貴族院は皇族・華族・勅任議員などで構成され、普通選挙や男女平等の議会ではありません。
山県内閣と民党が予算をめぐって激しく対立した
1890年11月29日に第1回帝国議会が開会。政府は軍備と行政の予算を求め、民党は地租負担の軽減と歳出削減を主張しました。妥協の末に予算は成立し、政府も議会を無視できないことが示されます。
対立と提携を繰り返しながら政党が統治に組み込まれた
初期議会では解散や選挙干渉も起きましたが、日清戦争後には政府と政党が接近。議会は権力を完全に統制できなかった一方、政策と予算を公開の場で争う回路になりました。
DEEP DIVE
帝国議会の開設は、日本を民主主義国家にしたのか。
代表制と公開審議を始めた重要な転換でしたが、選挙権はごく一部の男性に限定され、内閣は議会ではなく天皇に責任を負いました。前進と制限を同時に見る必要があります。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
国会開設運動
板垣退助らの建白と各地の民権運動が、政府に国会開設の時期を明示させました。
憲法と選挙法
憲法、衆議院議員選挙法、貴族院令が議会の構成と権限を定めました。
超然主義
政府は政党から距離を置く姿勢を示しましたが、予算成立には衆議院との交渉が必要でした。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
国会開設の勅諭
1890年に国会を開く方針が示されました。
憲法発布
二院制と立法・予算審議の枠組みが定まりました。
第1回総選挙
限定選挙ながら全国で衆議院議員が選ばれました。
第1回帝国議会開会
山県内閣と民党が予算をめぐり対立しました。
予算成立
削減と妥協を経て初の議会を通過しました。
KEY PEOPLE
第1回帝国議会を動かした人物
RELATIONSHIP
第1回帝国議会 人物相関図
政府と民党が予算をめぐって向き合い、憲法上の制度を実際の政治へ動かした関係を整理します。
山県 有朋第1次山県内閣の首相
伊藤 博文憲法・議会制度の設計者
板垣 退助自由党系勢力
大隈 重信改進党系勢力山県 有朋予算対立板垣 退助軍備・行政費と民力休養をめぐる対立
伊藤 博文制度構想の違い大隈 重信議会・内閣のあり方をめぐる長期的対立
QUESTIONS
よくある疑問
女性は選挙や政治集会に参加できたか
選挙権はなく、集会・結社にも強い制限がありました。女性の参政権実現は戦後まで待つことになります。
議会は内閣を倒せたか
明治憲法下の内閣は議会に対する責任を制度上負いませんでした。ただし予算拒否や世論による圧力は政権運営を左右しました。
藩閥対民党だけで説明できるか
政党側にも旧藩・地域・政策の違いがあり、政府と提携する議員もいました。固定的な二陣営ではありません。
IMPACT
その後、何が変わったか
公開審議の開始
法律と予算を議会で討論する政治過程が定着しました。
政党の制度化
民権運動の勢力が議会政党へ移り、政府との交渉主体になりました。
参加制限の可視化
納税額・性別による排除が、普通選挙を求める次の運動課題になりました。
WALK THROUGH LATE MEIJI / PR
議会・外交・産業の舞台を、東京でたどる
国会前庭、外交史料館、日比谷公園、旧新橋停車場を結び、列強化の成果と、戦費・公害・植民地支配の代価を同じ一日で考えるコースです。
明治後期・東京歴史モデルコースを見る →※ 当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。リンク先で購入・予約が成立した場合、運営者に報酬が入ることがあります。SOURCES

