平安時代 / 寿永3年
寿永3年今から約842年前
粟津の戦い
京都で後白河法皇と対立した源義仲が、源範頼・義経の軍に敗れ、近江国粟津で戦死。源氏内部の主導権が頼朝へ集まった。
義仲は平氏を都から退かせた功労者だったが、京都での軍事統制と食糧確保に失敗し、後白河法皇との関係を悪化させた。粟津での最期は『平家物語』の巴御前との別れで有名だが、軍記の表現と史実は分けて読む必要がある。
- 場所
- 近江国・粟津
- 天皇
- 後鳥羽天皇第82代天皇
- 関係人物
- 5名

OVERVIEW
粟津の戦いを4段階で理解する
義仲は倶利伽羅峠で平氏軍を破り、1183年に京都へ入った
北陸道から進んだ義仲軍の勝利で平氏は安徳天皇と三種の神器を伴い西国へ退きました。義仲は後白河法皇から平氏追討を命じられます。
都の治安と兵糧をめぐって義仲軍と朝廷・住民の関係が悪化した
各地から集まった軍勢の統制は難しく、略奪への批判が高まりました。後白河法皇は鎌倉の頼朝へ接近し、義仲は政治的に孤立します。
範頼・義経軍が宇治・瀬田から京都へ入り、義仲軍を破った
義仲は法住寺殿を攻めて法皇を拘束しましたが、頼朝軍が上洛すると兵力差を覆せず、京都から近江へ退きました。
粟津で義仲が戦死し、頼朝が源氏軍の主導権を握った
1184年1月20日、義仲は少数の兵となり粟津で討たれました。頼朝は朝廷との交渉を有利に進め、範頼・義経を平氏追討へ向かわせます。
DEEP DIVE
平氏を都から追った義仲は、なぜ半年ほどで敗れたのか。
都の軍政と兵糧調達に失敗して朝廷との関係を悪化させ、東国武士を組織する頼朝との兵力・政治力の差が広がったためです。軍事的勝利を政権運営へ変える基盤が不足していました。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
義仲は倶利伽羅峠で平氏軍を破り、1183年に京都へ入った
北陸道から進んだ義仲軍の勝利で平氏は安徳天皇と三種の神器を伴い西国へ退きました。義仲は後白河法皇から平氏追討を命じられます。
都の治安と兵糧をめぐって義仲軍と朝廷・住民の関係が悪化した
各地から集まった軍勢の統制は難しく、略奪への批判が高まりました。後白河法皇は鎌倉の頼朝へ接近し、義仲は政治的に孤立します。
範頼・義経軍が宇治・瀬田から京都へ入り、義仲軍を破った
義仲は法住寺殿を攻めて法皇を拘束しましたが、頼朝軍が上洛すると兵力差を覆せず、京都から近江へ退きました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
倶利伽羅峠の戦い
義仲軍が平氏軍を破りました。
義仲が京都へ入る
平氏は安徳天皇とともに西国へ退きました。
法住寺合戦
義仲が後白河法皇を拘束しました。
範頼・義経軍が上洛
宇治・瀬田方面から義仲軍を攻めました。
粟津で義仲戦死
源氏内部の主導権争いが決着しました。
KEY PEOPLE
粟津の戦いを動かした人物
RELATIONSHIP
粟津の戦い 人物相関図
平氏追討を担った源氏が、朝廷との関係と主導権をめぐって分裂した構図です。
源 義仲征東大将軍・粟津で戦死
源 頼朝鎌倉から追討を命じる
源 義経上洛軍を指揮
後白河天皇/後白河上皇院政・頼朝方へ接近
後鳥羽天皇第82代天皇源 義仲源氏の主導権源 頼朝東国・北陸の軍事勢力が対立
源 頼朝兄弟・軍事指揮源 義経頼朝が義経らを上洛させる
後白河天皇/後白河上皇法住寺合戦源 義仲義仲が法皇を拘束
後白河天皇/後白河上皇協調源 頼朝義仲追討と東国支配をめぐる交渉
QUESTIONS
よくある疑問
義仲はなぜ朝廷と対立したのか
軍勢統制、官職、平氏追討方針、頼朝との扱いが重なりました。
巴御前との別れは史実か
『平家物語』の名場面ですが、同時代史料で細部を確定できません。
鎌倉幕府はこの時点で完成していたのか
頼朝の東国支配は進んでいましたが、制度は戦争と朝廷交渉の中で段階的に整いました。
IMPACT
その後、何が変わったか
頼朝の主導権確立
東国と京都を結ぶ軍事・政治の主導権が頼朝へ集中しました。
義経の台頭
宇治川の戦いを経て平氏追討の現地指揮官として注目されました。
軍記物語の形成
義仲と巴御前の最期は『平家物語』を代表する物語になりました。
SOURCES
