
QUICK GUIDE
まず3分でわかる、武田 勝頼
信玄の領国を継ぎ、最大級まで広げた最後の武田当主
信玄の死後に甲斐・信濃を中心とする領国を継ぎ、1574年には父も落とせなかった高天神城を攻略しました。長篠で大敗した後も約7年にわたり政権を維持し、軍事・外交・築城を続けました。
敗因は『騎馬隊で三段撃ちへ突撃した』だけではない
設楽原では兵力差、織田・徳川軍の野戦築城と鉄砲、長篠城包囲からの状況変化が重なりました。有名な一斉騎馬突撃と機械的な三段撃ちは、後世の単純化を含みます。
滅亡は一敗ではなく、外交孤立と離反が連鎖した結果
御館の乱への介入で北条氏との同盟が崩れ、高天神城を救えず威信を失い、新府城普請の負担も重なりました。1582年、木曽氏らの離反と織田・徳川軍の侵攻が同時に起き、短期間で領国が崩壊しました。
LIFE TIMELINE
武田 勝頼の生涯年表
武田晴信の四男として生まれる
母は諏訪頼重の娘。甲斐武田氏と、信玄に滅ぼされた諏訪氏の血統を引く子として生まれた。
諏訪勝頼を名乗り、高遠城主となる
諏訪氏の名跡につながる立場を与えられ、信濃伊那の高遠城を拠点とした。のちの武田本家継承を前提に育った嫡男ではなかった。
兄・義信が失脚し、死去する
信玄の嫡男だった義信が幽閉されて死去し、勝頼が後継候補として甲府へ呼び戻された。父子の対立と家中の再編が、勝頼の継承条件を複雑にした。
信玄の死後、武田領国を継ぐ
甲斐・信濃・西上野・駿河と遠江・三河の一部へ及ぶ広い領国、複数地域の国衆、信玄以来の重臣団、織田・徳川との戦争を同時に引き受けた。
高天神城を攻略する
遠江の要衝を包囲して開城させ、徳川領へ大きな圧力を加えた。勝頼期の武田氏が長篠以前には攻勢を維持していたことを示す代表的な成功である。
長篠・設楽原で大敗する
長篠城を包囲した後、救援に来た織田・徳川連合軍と設楽原で決戦。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ら多くの有力家臣を失った。
領国と家臣団の再建を進める
長篠の敗北で武田政権が直ちに消滅したわけではない。軍役の再編、所領の安堵、国境での戦いを続け、織田・徳川との抗争に対応した。
御館の乱へ介入し、上杉景勝と結ぶ
上杉謙信の死後、景勝と景虎が争うと越後へ出兵。当初は調停を試みたが、最終的に景勝と甲越同盟を結んだ。
北条氏との同盟が崩れる
北条氏政の弟である上杉景虎を支えなかったことで甲相同盟が破綻し、武田氏は東の北条、西の織田・徳川と同時に対立する厳しい外交環境へ入った。
甲越同盟を維持し、戦線を支える
国宝上杉家文書には勝頼が景勝へ送った書状がまとまって残る。滅亡直前まで外交文書と軍事連携が動いていたことが分かる。
高天神城が落城する
徳川軍に包囲された高天神城へ十分な救援を送れず、城兵は総攻撃の末に敗れた。遠江の軍事拠点だけでなく、同盟者と家臣を救えないという評判上の打撃も大きかった。
新府城を築き、本拠を移す
甲府の躑躅ヶ崎館から韮崎の新府城へ領国中枢を移す計画を進め、12月24日に入城した。城は防御・交通・領国再編を意識した大規模な拠点だったが、未完成だった。
木曽義昌が離反し、織田軍が侵攻する
信濃西部を担った木曽氏の離反をきっかけに、織田信忠を主力とする軍勢が信濃へ進んだ。徳川軍も駿河方面から圧力を加え、国境防衛が連鎖的に崩れた。
高遠城が陥落する
異母弟・仁科盛信が守る高遠城は織田軍へ抵抗して落城した。一方、他の城や国衆には戦わず離反・退去する動きも広がった。
新府城を焼いて退去する
完成途上の新府城を自ら焼き、小山田信茂の郡内領を目指した。夫人が武田八幡宮へ祈願文を奉納してから14日後のことだった。
田野で妻・信勝らと最期を迎える
小山田氏の領内へ入れず、追撃を受けて天目山麓の田野で北条夫人、嫡男信勝、近臣らと自害。戦国大名としての甲斐武田氏政権は滅亡した。
BIOGRAPHY
武田 勝頼は、どんな生涯を送ったか
諏訪の血を引く四男――最初から本家の後継者ではなかった
武田勝頼は1546年、武田晴信、後の信玄の四男として生まれました。母は信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘です。勝頼は若くして諏訪四郎を名乗り、高遠城主となりました。甲府市の武田氏館案内も、母が諏訪頼重の娘で、諏訪氏の家督につながる立場を得た人物として紹介しています。伊那市は高遠城主に『諏訪勝頼』が就いたことを伝えます。
ただし、近世の系図や軍記に見える形をそのまま正式な養子縁組の文書として扱うことはできません。確実なのは、勝頼が武田本家の嫡男としてではなく、諏訪・伊那地域を担う一門として出発したことです。この出発点は、信玄以来の譜代家臣を率いる正統性や、のちに息子・信勝へどのように家を渡すかという問題にも影響しました。
兄・義信の失脚で、後継者へ呼び戻された
信玄の嫡男は今川義元の娘を妻とした武田義信でした。しかし武田氏が今川氏との同盟を離れて駿河侵攻へ向かう時期、義信は失脚し、1567年に死去します。勝頼は諏訪・高遠を担う立場から、急に武田本家の後継者へ移りました。初めから後継教育を受けた嫡男が順当に継いだのではありません。
後世の『甲陽軍鑑』には、信玄が孫の信勝を将来の当主とし、勝頼を一時的な『陣代』のように扱ったと読む材料があります。ただし勝頼が同時代に公的な陣代号だけで政務を行ったわけではなく、発給文書は領国当主としての活動を示します。継承の弱さを考える重要な論点ではあっても、『正式な当主ではなかった』と断定するのは慎重であるべきです。
信玄の死後に継いだのは、強国であると同時に広すぎる戦線だった
1573年4月、信玄が三河からの帰路で死去すると、勝頼は20代で武田領国を継ぎました。領域は甲斐・信濃を中核に、西上野・駿河、遠江・三河の一部へ広がっていました。甲府市は勝頼期に武田氏の勢力範囲が最大となったと説明します。敗者の結末からさかのぼって、継承直後から弱体化していたと見ることはできません。
一方、この領国は性格の異なる地域と国衆の連合でもありました。甲斐の譜代、信濃・上野の先方衆、駿河の旧今川系勢力を結び、長い国境を守る必要があります。信玄の死を秘すという有名な遺言も後世の物語を含みますが、当主交代を敵国に悟られず、同盟者と家臣をつなぎ止める必要があった状況そのものは確かでした。
高天神城攻略――父を越えた成功と、守り続ける責任
1574年、勝頼は遠江の高天神城を包囲し、6月17日に開城させました。掛川市の年表は『真田文書』『武州文書』『信長公記』など複数史料を並べ、勝頼の包囲、信長の救援出発、開城の経過を示しています。徳川方の重要拠点を奪ったこの戦果は、勝頼が独自に大軍を動かし、攻城戦を成功させた証拠です。
しかし国境の城を取ることは、長く守り、補給し、救援する義務も引き受けることでした。長篠敗戦後、徳川家康は横須賀城と周辺の砦を使って高天神城を孤立させます。1581年に勝頼が十分な救援を送れないまま城が落ちた時、1574年の成功は逆に『味方を救えなかった』という威信の損失へ変わりました。一つの城の攻防が7年間、勝頼政権を拘束したのです。
長篠・設楽原――なぜ不利な決戦を選んだのか
1575年5月、勝頼は奥平貞昌が守る長篠城を大軍で包囲しました。城側の使者が救援要請を伝え、織田信長と徳川家康の連合軍は設楽原に陣地を築きます。武田軍は長篠城の包囲を解き、敵の陣地へ向かいました。戦うべきかをめぐって軍議で意見が分かれたことは新城市の解説にも記されますが、細かな発言内容は史料ごとに吟味が必要です。
勝頼の判断を単なる血気や慢心だけで説明することはできません。背後には落とし切れていない長篠城があり、目前には救援軍が陣取り、撤退にも追撃・離反・威信低下の危険がありました。ただし結果として、敵が地形と柵を利用して準備した場所で攻撃を重ね、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、真田信綱・昌輝ら指揮層を多数失いました。判断に構造的な圧力があったことは、指揮官としての結果責任を消す理由ではありません。
鉄砲三段撃ち対騎馬軍団、という映像をいったん外す
長篠は『武田騎馬軍団が突撃し、信長の鉄砲三千挺三段撃ちで全滅した』と語られてきました。しかし武田軍は騎馬武者だけの集団ではなく、徒歩の兵や鉄砲・弓を含む軍勢です。東京大学史料編纂所は、三段撃ちの実施をめぐって研究上の大きな論争があると説明しています。鉄砲の集中運用は重要でも、三列が機械的に交代した映像までを確定史実にはできません。
注目すべきなのは、織田・徳川軍が馬防柵、土塁、連吾川などを組み合わせて攻撃を受け止め、武田軍が準備された陣地へ複数の部隊で戦いを続けたことです。長篠城への酒井忠次隊の攻撃も武田方の退路と判断へ影響しました。新兵器一つが古い軍団を消したのではなく、兵力、陣地、火力、側面作戦、指揮層の損失が重なった戦いでした。
長篠後も7年続いた政権――再建できたことと、戻らなかったもの
長篠の大敗は深刻でしたが、武田氏は1575年に滅亡していません。勝頼は生還し、所領安堵や感状を発給し、国衆を配置し直して戦線を維持しました。甲斐市に残る1580年の勝頼感状や、山梨県立博物館が所蔵する1581年の感状は、敗戦後も軍功を認定し、主従関係を動かしていたことを示します。
それでも、信玄期から地域・家臣団を結んだ有力指揮官を一度に失った穴は埋まりませんでした。若い側近を登用したことを『古臣を遠ざけた』と道徳的に批判するだけでは不十分で、そもそも古臣の多くが戦死した後に誰を使うかという問題でした。政権は再建できても、対外戦争を支える経験・信用・人的ネットワークを同じ形には戻せなかったのです。
御館の乱と甲越同盟――孤立を避ける選択が、別の孤立を生んだ
1578年、上杉謙信が後継者を決めずに死去すると、上杉景勝と上杉景虎が争う御館の乱が起きました。景虎は北条氏政の弟であり、勝頼は同盟相手の北条氏から支援を求められて越後へ出兵します。勝頼は当初、両者の和睦を仲介しようとしましたが、最終的に景勝と甲越同盟を結びました。
この選択は上杉氏との北方戦線を安定させる可能性を持つ一方、北条氏との甲相同盟を崩しました。米沢市上杉博物館の国宝上杉家文書目録には、1578年から滅亡直前の1582年2月まで勝頼の書状が並びます。甲越同盟が一時の口約束ではなく、交渉と共同作戦を続けた関係だったことが分かります。しかし上杉氏も内乱後で余力が乏しく、武田氏は三方向の敵対を補える強い援軍を得られませんでした。
新府城は『逃げ城』ではなく、領国を組み替える新しい中心だった
1581年、勝頼は甲府の躑躅ヶ崎館から韮崎の新府城へ本拠を移しました。新府城は七里岩台地の崖を利用し、本丸・二の丸・三の丸、堀、土塁、丸馬出、三日月堀、出構を備える大規模な城です。韮崎市は『武田領国の首都の中心』として築かれたと位置づけ、発掘調査でも鉄砲玉、陶磁器、鉄製品などが確認されています。
築城は織田・徳川の侵攻に備える軍事策であると同時に、甲斐・信濃・上野を結ぶ交通と家臣配置を再編する事業でした。結果的に在城約70日で焼かれたため失敗だけが目立ちますが、城の規模は勝頼が縮小撤退だけでなく、新たな政権中枢を構想していたことを示します。一方、短期間の大工事と移転が領民・家臣へ負担を与え、危機下の結束を弱めた可能性も無視できません。
1582年の崩壊――無能な一人ではなく、同盟・家臣・城が同時に離れた
1582年2月、木曽義昌の離反をきっかけに織田信忠軍が信濃へ侵攻し、徳川軍も駿河方面から進みました。高遠城の仁科盛信は抵抗して戦死しましたが、武田方の城や国衆の多くは十分に戦えないまま離反・退去します。勝頼の妻が武田八幡宮へ奉納した祈願文には、敵の侵入と兵の心がばらばらになった危機が生々しく記されています。
3月3日、勝頼は新府城を焼いて郡内の小山田信茂を頼ろうとしましたが、領内へ入れず、天目山麓の田野へ追い詰められます。11日、北条夫人、嫡男信勝、近臣らと最期を迎えました。武田氏滅亡は長篠から7年後です。一度の突撃ミスだけでなく、広い領国を支える同盟、国衆の利害、城と補給、当主への信用が連鎖的に失われた末の崩壊でした。勝頼を無能と決めつける必要はありませんが、高天神を救えず、敵を増やし、離反を止められなかった統治上の責任まで消す再評価もまた正確ではありません。
MATERIAL RECORDS
現存資料を「いつ・何のために作られたか」で見る
史料・文化財を、本人の時代に成立した「当時の実物」、死後に制作された「後世の作品」、後代の史書などによる「後世の記録」、本人との関係が伝来に基づく「伝承品」に分けます。文化財指定と、確定できない点も併記します。
武田勝頼書状(上杉家文書)
天正6—10年(1578—1582)国宝
上杉景勝との甲越同盟の成立・強化・共同作戦に関わる勝頼の書状群です。1578年8月から1582年2月までの文書が残り、滅亡直前まで外交が続いたことを示します。
武田勝頼感状
天正8年(1580)甲斐市指定文化財
勝頼が軍功を認めて発給した文書です。長篠から5年後にも、当主が軍功評価と主従関係を運用していたことを伝えます。
武田勝頼夫人北条氏祈願文
天正10年(1582)2月山梨県指定文化財
北条夫人が武田八幡宮へ奉納し、勝頼の勝利と武田家の安泰を願った文書です。敵の侵攻、木曽義昌の離反、兵の心が一つでないという滅亡直前の危機を伝えます。
新府城跡
天正9—10年(1581—1582)国指定史跡
勝頼が築いた最後の本拠です。堀・土塁・丸馬出・三日月堀・出構などが残り、発掘調査で鉄砲玉、陶磁器、鉄釘、茶臼なども見つかっています。
景徳院の武田勝頼の墓
江戸時代以降に整備山梨県指定史跡
中央に勝頼、両側に北条夫人と信勝の墓塔が並びます。修理時に戒名を記すものを含む5,275点の経石が確認され、後世の供養の積み重ねを伝えます。
HISTORICAL ROLE
武田 勝頼は、その時何をしたか
高天神城攻略
徳川方の高天神城を包囲し、織田信長の救援が到着する前に開城させた。勝頼期の武田氏が長篠以前には攻勢を続け、勢力範囲を広げたことを示す。
長篠・設楽原の戦い
長篠城を包囲し、救援に来た織田・徳川連合軍と設楽原で決戦。馬防柵と大量の鉄砲を備えた陣地へ攻撃を重ね、山県昌景・馬場信春ら有力武将を失った。
武田氏滅亡
木曽氏らの離反と織田・徳川軍の侵攻で防衛網が崩壊。新府城を焼いて退去し、郡内へ入れないまま田野で北条夫人・信勝らと最期を迎えた。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
高天神城攻略は、独自の軍事能力を示す
信玄期にも落ちなかった遠江の要衝を攻略し、徳川領を圧迫しました。勝頼期の武田領が長篠以前には攻勢と拡大を続けたことを無視できません。
長篠後、政権を約7年維持した
有力家臣を失いながら、所領安堵、軍功認定、外交、築城を続けました。長篠即滅亡という理解では、この再建期が抜け落ちます。
甲越同盟は合理性と大きな代償を併せ持った
上杉との戦線安定を目指す一方、北条との同盟を失いました。結果だけで愚策とせず、選択肢と代償の両方を評価する必要があります。
新府城に領国再編の構想を残した
在城期間は短くても、巨大な城郭と周辺遺跡は新たな政治・軍事拠点を作る意図を示します。ただし危機下の普請負担は統治上の弱点にもなりました。
再評価は責任の免除ではない
長篠の決戦、高天神城救援の失敗、外交孤立、離反への対応は当主の判断と切り離せません。無能の一語も悲劇の名将への美化も避け、成功と失敗を同じ時間軸で見ます。
RELATIONSHIPS
武田 勝頼を取り巻く人と組織
武田 信玄人物詳細 →
広大な領国と家臣団、織田・徳川との戦争を勝頼へ残した。父の名声が勝頼評価の基準にもなった。
諏訪御料人
諏訪頼重の娘。勝頼の諏訪氏につながる出自の核となった。
注:実名や生涯には不明点が多く、後世の呼称で知られる。武田 義信
失脚・死去したことで、諏訪・高遠を担っていた勝頼が武田本家の後継候補となった。
武田 信勝
1582年、父とともに田野で最期を迎えた。
注:信玄が信勝を最終的な当主に定めたという理解は、後世史料の扱いに注意が必要。北条夫人
北条氏康の娘・氏政の妹。1582年に祈願文を奉納し、勝頼・信勝とともに最期を迎えた。
織田 信長人物詳細 →
徳川家康と組んで長篠で勝頼軍を破り、1582年には嫡男信忠を主力として武田領へ侵攻した。
徳川 家康人物詳細 →
長篠で信長と共同し、その後は高天神城を包囲して遠江の武田方拠点を切り崩した。
北条 氏政人物詳細 →
妹を勝頼へ嫁がせたが、御館の乱で弟・景虎が敗れた後に甲相同盟を破棄し、武田氏と対立した。
上杉 景勝
御館の乱の途中から勝頼と結び、1582年の武田氏滅亡直前まで文書を交わした。
山県 昌景・馬場 信春・内藤 昌豊
信玄期から軍事と領国を支えた重臣。設楽原で戦死し、勝頼政権の人的基盤に大きな穴を残した。
木曽 義昌
1582年に織田方へ転じ、信濃西部から武田領崩壊のきっかけを作った。
小山田 信茂
勝頼は郡内領へ向かったが入れず、田野へ追い詰められた。
注:後世には単純な裏切り者像が強いが、国衆としての自立性と危機下の選択も検討が必要。MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
武田勝頼は本当に無能だった?
無能と断定できません。高天神城攻略、長篠後の政権再建、新府城築城などの実績があります。一方で、大敗、外交孤立、家臣離反を止められなかった当主としての責任もあり、名将か愚将かの二択では捉えられません。
勝頼は正式な武田家当主ではなく『陣代』だった?
後世の『甲陽軍鑑』をもとに、信勝が成長するまでの代行者だったとする理解があります。しかし勝頼の同時代文書と政治活動は領国当主としての実態を示し、『正式な当主ではない』と一言で断定できません。
信玄は死を3年間隠せと遺言した?
有名な話ですが、細部は『甲陽軍鑑』など後世史料の影響を受けます。信玄の死後に情報管理と領国維持が必要だったことと、遺言の文言をそのまま事実とすることは分けます。
長篠では老臣全員が撤退を勧めた?
軍議で意見が割れたことは伝わりますが、各武将の発言を劇的に再現する話には後世の軍記が重なります。全員の意見と勝頼の会話を確定できる議事録はありません。
武田騎馬軍団が一斉に柵へ突撃した?
武田軍は騎馬武者だけでなく徒歩兵・鉄砲・弓を含む複合軍でした。複数部隊の攻撃を、騎兵だけの一斉突撃として描くのは単純化です。
信長は鉄砲三千挺を三列にして撃った?
鉄砲と防御陣地を集中運用したことは重要ですが、三列が順番に交代する定型的な『三段撃ち』が実施されたかは研究上の論争があります。後世の軍記で整った戦法像をそのまま再現しません。
長篠の敗北で武田家はすぐ滅びた?
滅亡は約7年後の1582年です。その間も勝頼は文書を発給し、戦いと外交、新府城築城を続けました。長篠は重大な転換点ですが、単独の即時原因ではありません。
小山田信茂一人の裏切りで武田家は滅んだ?
小山田氏が勝頼を受け入れなかったことは最期を決めましたが、その前に木曽氏らの離反、国境防衛の崩壊、北条との敵対、織田・徳川軍の侵攻が進んでいました。一人だけに全原因を負わせることはできません。
FAMILY TREE
武田 勝頼の家系図
主要な直系・婚姻関係を抜粋しています。
PLACES
武田 勝頼の足跡を現地でたどる
高遠城跡
諏訪勝頼を名乗った時期に城主を務めた伊那の城。後継者として甲府へ戻る前の、地域領主としての出発点を考えられる。
武田氏館跡・武田神社
信虎・信玄・勝頼の三代が政務を行った躑躅ヶ崎館跡。現在の武田神社と、発掘・整備された城館遺構を分けて見学したい。
高天神城跡
1574年に勝頼が攻略し、1581年に徳川軍が奪回した遠江の要衝。攻め取る力と、孤立した城を救えなかった限界の両方を伝える。
長篠城・設楽原
城の包囲地点と約4キロ西の設楽原決戦地は別の場所。保存館、馬防柵、両軍の陣跡を結ぶと、城攻めから野戦へ移った経過が分かる。
新府城跡
1581年に築かれた大規模な平山城。土塁、堀、丸馬出、三日月堀、出構が残り、短命な逃げ城ではなく新たな領国中枢としての構想を地形から読める。
景徳院・田野
勝頼、北条夫人、信勝らが最期を迎えた地域に徳川家康の命で創建されたと伝わる寺。県指定の墓と発掘された経石が、後世の供養を伝える。
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武田 勝頼と関わる人々
FAQ
武田 勝頼についてよくある質問
Q01武田勝頼は何をした人ですか?
武田信玄の死後に甲斐・信濃を中心とする領国を継いだ最後の戦国大名です。高天神城を攻略し、長篠で織田・徳川軍に敗れた後も政権を再建し、甲越同盟と新府城築城を進めましたが、1582年に領国が崩壊して田野で自害しました。
Q02武田勝頼は本当に無能だったのですか?
無能の一語では説明できません。軍事的成功や長篠後の再建、新府城という構想がある一方、長篠の大敗、高天神城救援の失敗、外交孤立、離反を止められなかった結果責任もあります。
Q03武田勝頼は武田信玄の何男ですか?
四男です。母は諏訪頼重の娘で、若い頃は諏訪勝頼を名乗り、高遠城を拠点としました。兄・義信の失脚後に本家の後継者となりました。
Q04武田勝頼は父・信玄より領土を広げたのですか?
勝頼期に武田氏の勢力範囲が最大級になったと甲府市は説明しています。1574年の高天神城攻略が代表例です。ただし、広い領域は防衛線と補給の負担も大きくしました。
Q05武田勝頼はなぜ長篠で退却しなかったのですか?
確定した一つの理由はありません。長篠城を落とし切れず、目前に救援軍が陣取り、撤退にも追撃や威信低下の危険がありました。老臣の反対を押し切ったという会話の細部は後世史料の影響を受けます。
Q06長篠の鉄砲三段撃ちは史実ですか?
鉄砲の集中運用と防御陣地は重要でしたが、三千挺を三列に分けて機械的に交代射撃したという有名な形が実施されたかは議論があります。東京大学史料編纂所も論争的な問題として紹介しています。
Q07長篠で負けた直後に武田家は滅亡したのですか?
いいえ。長篠は1575年、滅亡は1582年で約7年あります。勝頼はこの間も領国支配、軍事行動、外交、新府城築城を続けました。
Q08武田家はなぜ滅亡したのですか?
長篠での有力家臣の損失、北条氏との同盟崩壊、高天神城失陥、新府城普請の負担、木曽氏らの離反、織田・徳川軍の同時侵攻が重なったためです。一つの戦いや一人の裏切りだけでは説明できません。
Q09武田勝頼の妻は誰ですか?
最後まで行動をともにした妻は北条氏康の娘で、北条氏政の妹にあたる北条夫人です。1582年2月に武田八幡宮へ祈願文を奉納し、3月11日に勝頼・信勝とともに最期を迎えました。
Q10武田勝頼ゆかりの場所はどこですか?
若年期の高遠城、武田氏館跡、高天神城、長篠城と設楽原、新府城、最期と供養の地である景徳院が代表的です。生涯の順にたどると、地域領主、拡大、敗北、再建、滅亡の流れが分かります。
SOURCES


