江戸時代 / 天保10年
天保10年
蛮社の獄
幕府が渡辺崋山・高野長英ら蘭学者を処罰。外国船への砲撃政策を批判した知識人が、幕政批判と結社の疑いで弾圧された。
モリソン号は日本人漂流民の送還と通商を目的に来航したが砲撃された。事件は海防をめぐる情報・政策論争を、刑事弾圧へ変えた。
- 場所
- 武蔵国・江戸
- 天皇
- 仁孝天皇第120代天皇
- 関係人物
- 3名

OVERVIEW
蛮社の獄を4段階で理解する
外国船の接近が増え、1825年の異国船打払令が運用されていた
幕府は沿岸へ近づく外国船を原則として砲撃・退去させる方針を採りました。一方、蘭学者はアヘン戦争前夜の国際情勢と欧米の軍事力を翻訳で知っていました。
モリソン号砲撃を批判する議論が、幕府への危険な結社とみなされた
崋山の『慎機論』と長英の『戊戌夢物語』は、漂流民送還船を事情確認せず砲撃する政策を批判しました。幕府は尚歯会の人脈を捜査しました。
崋山は蟄居、長英は永牢となり、洋学者の活動が萎縮した
崋山の論文は未発表でしたが家宅捜索で発見され、国元蟄居。長英は著作を認めて永牢となりました。小関三英は捜査を恐れて自害しました。
打払令は1842年に緩和され、幕府自身が政策転換した
アヘン戦争で清が敗れた情報を受け、幕府は薪水給与令へ転換しました。処罰された論者の危惧が数年後に政策へ反映された形です。
DEEP DIVE
なぜ幕府は、外国への備えを訴えた知識人を処罰したのか。
政策内容だけでなく、幕政を批判し、外国に通じる集団を作ったという疑いが問題にされました。情報の有用性より統治秩序への服従を優先した事件です。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
異国船打払令
1825年、沿岸へ近づく外国船を理由を問わず退去させる方針が出ました。
モリソン号事件
漂流民送還船が浦賀・鹿児島で砲撃され、目的が後で判明しました。
蘭学ネットワーク
翻訳を通じ、欧米の軍事・政治・医学情報が江戸へ集まりました。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
モリソン号を砲撃
浦賀と鹿児島で打払令が実行されました。
批判文を執筆
長英・崋山が政策の危険を論じました。
一斉検挙
鳥居耀蔵らが蘭学者を取り調べました。
薪水給与令
幕府は外国船へ燃料・水を与える方針へ転換しました。
KEY PEOPLE
蛮社の獄を動かした人物
RELATIONSHIP
蛮社の獄 人物相関図
海防論を共有した蘭学者と、幕府統治下の位置を整理します。
渡辺 崋山慎機論で政策を批判
高野 長英戊戌夢物語を執筆
仁孝天皇同時代の天皇渡辺 崋山学問仲間高野 長英尚歯会で海外情報と海防を議論
渡辺 崋山同時代仁孝天皇処罰は幕府が実施し朝廷の指示ではない
QUESTIONS
よくある疑問
蛮社という秘密結社があったのか
捜査側が用いた名称で、尚歯会は学者・大名らの交流会に近いものでした。
崋山は批判文を公刊したのか
『慎機論』は未定稿・未刊でしたが、家宅捜索で発見され証拠とされました。
二人は開国論者だったのか
無防備な砲撃を批判し現実的海防を求めましたが、後世の全面的自由貿易論と同じではありません。
IMPACT
その後、何が変わったか
蘭学者の萎縮
海外研究が幕政批判と結びつく危険を示しました。
海防論の継続
弾圧後も各藩は西洋砲術・軍事研究を進めました。
幕府の政策転換
アヘン戦争後、打払令は現実に合わないとして緩和されました。
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