地図と人物でたどる、日本の時間。

後桃園天皇の肖像に代えて掲載する皇室の紋章
皇室の紋章(本人の肖像ではありません)の出典 ↗Public Domain

PERSONAL FILE / 天皇

ごももぞのてんのう

後桃園天皇

伯母から皇位を継ぎ、その死後に光格へ皇統が移った天皇

桃園天皇の皇子・英仁親王。父の死後は伯母後桜町が皇位を担い、成長した英仁に譲位しました。後桃園は1779年に若くして没し、皇子がいなかったため閑院宮家の光格が継承。皇女欣子は後に光格の皇后となり、二つの家の結び付きが保たれました。

在位(旧暦の年次)
1770—1779
主な所属
江戸時代・京都
関わった出来事
3件

QUICK GUIDE

まず3分でわかる、後桃園天皇

READING

皇位の継承と結婚を別の出来事として読む

光格の即位と欣子の入内を同じ時点へ縮めず、後桃園の死後に家のつながりがどう調整されたかを見ます。

FAMILY

家系と皇位の順序を分けて読む

後桜町は母ではなく父の姉です。光格は後桃園の実子ではなく、閑院宮家から継ぎました。皇女欣子との婚姻は光格の即位より後です。

LIFE TIMELINE

後桃園天皇の生涯年表

  1. 英仁親王の誕生

    桃園と一条富子の子です。

  2. 父の死去

    伯母後桜町が皇位を担いました。

  3. 立太子

    伯母の次の継承者となります。

  4. 践祚

    日付の西暦換算では1771年です。

  5. 死去、光格が継承

    閑院宮家から次の天皇が迎えられました。

BIOGRAPHY

後桃園天皇は、どんな生涯を送ったか

01

伯母が皇位を担った幼年期

英仁は1758年に生まれました。1762年に父桃園が亡くなった時には幼く、父の姉である後桜町が即位します。1768年に英仁が皇太子となり、その後に伯母から皇位を受け継ぎました。

践祚は旧暦の明和7年末で、西暦へ日付を換算すると1771年になります。在位年表で使われる1770年と矛盾するとは限りません。また、皇位を継ぐ践祚と、即位礼は分けて確認する必要があります。

02

若い死が生んだ継承問題

1779年に後桃園は亡くなりました。皇女欣子はいましたが皇子はおらず、皇位の継承者を別の家から迎えることになります。選ばれたのは閑院宮典仁親王の子で、のちの光格天皇です。

この交代は、天皇の称号が父から長男へ自動的に移るだけのものではなかったことを示します。近い皇統とのつながり、養子としての位置付け、上皇や公家たちの判断が関わりました。後桜町は後桃園の死後も存命で、朝廷の重要な存在であり続けました。

03

欣子内親王を通じた家の結び付き

後桃園の皇女欣子は、1794年に光格のもとへ入内します。後桃園の死から約15年後で、光格が結婚によって初めて天皇になったわけではありません。継承と婚姻には時間差があります。

後桃園の治世を大事件の少なさだけで捉えると、この交代の意味が見えません。後桜町、後桃園、光格という三代を通して読むと、幼い後継者を育てる局面と、別系統から継承者を迎える局面を比較できます。

HISTORICAL ROLE

後桃園天皇は、その時何をしたか

ACHIEVEMENTS & LIMITS

何を成し遂げ、何が分からないか

PERSPECTIVE

家系図は父子だけで読めない

伯母から甥、さらに別の宮家から迎えた天皇へと続く継承は、近世の皇統維持の具体的なあり方を示します。

RELATIONSHIPS

後桃園天皇を取り巻く人と組織

MYTHS & UNCERTAINTIES

伝承と史実を分けて見る

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欣子との婚姻を即位時に置かない

光格の即位は1779年、欣子の入内は1794年です。後桃園の娘婿という関係だけで、継承の順序を説明しないようにします。

FAMILY TREE

後桃園天皇の家系図

後桜町は母ではなく父の姉です。光格は後桃園の実子ではなく、閑院宮家から継ぎました。皇女欣子との婚姻は光格の即位より後です。

皇室の系図(宮内庁) ↗

PLACES

後桃園天皇の足跡を現地でたどる

陵墓の所在地

後桃園天皇陵

所在地・陵名は宮内庁の案内で確認できます。陵域内へ自由に入れるという意味ではありません。参拝時は現地の区画と案内に従ってください。

FAQ

後桃園天皇についてよくある質問

Q01光格は後桃園の息子ですか?

実子ではありません。閑院宮典仁親王の子で、後桃園の死後に継承しました。

Q02後桜町との関係は?

父桃園の姉なので、後桃園から見れば伯母です。

SOURCES

この記事の主な史料・参考資料