
PERSONAL FILE / 天皇
ごほりかわてんのう後堀河天皇
承久の乱後、別の皇統から迎えられた天皇守貞親王の子で、高倉天皇の孫にあたる茂仁親王。1221年の承久の乱後、後鳥羽の系統に代わって即位しました。即位していない父が後高倉院として院政を行った点が特徴です。1232年に四条へ譲位し、和歌集の編纂も命じましたが、1234年に若くして没しました。
- 在位
- 1221—1232
- 主な所属
- 鎌倉時代・京都
- 関わった出来事
- 3件
QUICK GUIDE
まず3分でわかる、後堀河天皇
承久の乱は、皇位の系統も変えた
戦場の勝敗だけでなく、誰が天皇になり、誰が院政を担うかまで幕府の勝利が影響しました。
家系と皇位の順序を分けて読む
父守貞は後高倉院と呼ばれますが、在位した天皇ではありません。後鳥羽は父の兄弟で、後堀河の叔父。後堀河と堀河も別人です。
LIFE TIMELINE
後堀河天皇の生涯年表
茂仁親王の誕生
守貞親王の子、高倉の孫として生まれました。
承久の乱後に即位
父後高倉院が院政を行いました。
後高倉院の死
父による補佐が終わりました。
四条へ譲位
和歌集の編纂も命じました。
死去
若くして生涯を終えました。
BIOGRAPHY
後堀河天皇は、どんな生涯を送ったか
寺にいた皇子が皇位へ
1212年に生まれた茂仁は、即位前には寺院に入っていました。1221年、後鳥羽上皇側が鎌倉幕府に敗れると、仲恭が退けられ、茂仁が皇位に迎えられます。西園寺公経らの動きと幕府の支持を背景にした交代でした。
後鳥羽と守貞はともに高倉の子ですが、乱の後には守貞の系統が選ばれました。皇室とは無関係な人が新しい天皇になったのではなく、同じ家の別の枝へ移ったのです。乱後の政治を理解するには、家系図上の移動も欠かせません。
天皇にならなかった父の院政
幼い後堀河を補佐した父守貞には、太上天皇の尊号が贈られ、後高倉院として院政を行いました。父は皇位を経験していません。通常の『退位した天皇が上皇になる』という説明だけでは、この例は理解できません。
後高倉院が1223年に没した後も、朝廷の政務は公家たちによって支えられました。幕府の影響は強まりましたが、京都の儀式や政治機構がすべて消えたわけではありません。戦後の皇位再編と朝廷の存続を、両方見る必要があります。
四条への継承と和歌の事業
1232年、皇子四条へ譲位します。後堀河自身も上皇として政治に関わりますが、1234年に没し、その期間は短いものでした。若い死は、新しい皇統が長期に安定することを難しくしました。
後堀河の命で藤原定家が編纂した『新勅撰和歌集』も、この時代を知る手がかりです。命じた人、編纂した人、完成の時期は別です。承久の乱後の政治的立場が歌の選択にも関わり、和歌は政治と無関係な余技ではありませんでした。
HISTORICAL ROLE
後堀河天皇は、その時何をしたか
茂仁親王の誕生
守貞親王の子、高倉の孫として生まれました。
承久の乱後に即位
父後高倉院が院政を行いました。
後高倉院の死
父による補佐が終わりました。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
武家と朝廷の関係を具体化する継承
幕府が朝廷をなくしたのではなく、皇位の担い手を選ぶ過程に強く関与したことが、後堀河の即位に表れています。
RELATIONSHIPS
後堀河天皇を取り巻く人と組織
後鳥羽天皇人物詳細 →
承久の乱で敗れた側の中心人物です。
四条天皇人物詳細 →
1232年に皇位を継ぎました。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
後高倉院と高倉天皇を混同しない
高倉は祖父、後高倉院は父守貞です。『後高倉天皇』と表記される場合もありますが、実際に皇位に就いた歴代天皇とは区別します。
FAMILY TREE
後堀河天皇の家系図
父守貞は後高倉院と呼ばれますが、在位した天皇ではありません。後鳥羽は父の兄弟で、後堀河の叔父。後堀河と堀河も別人です。
皇室の系図(宮内庁) ↗PLACES
後堀河天皇の足跡を現地でたどる
後堀河天皇陵
所在地・陵名は宮内庁の案内で確認できます。陵域内へ自由に入れるという意味ではありません。参拝時は現地の区画と案内に従ってください。
RELATED PEOPLE
後堀河天皇と関わる人々
FAQ
後堀河天皇についてよくある質問
Q01父の後高倉院は何代天皇ですか?
皇位に就いていないため、在位した歴代天皇の代数には入りません。後堀河の即位後、太上天皇の尊号を受けて院政を行いました。
Q02後鳥羽の息子ですか?
息子ではなく甥です。父守貞と後鳥羽が高倉天皇の子にあたります。
SOURCES
