
PERSONAL FILE / 天皇
このえてんのう近衛天皇
鳥羽院政のもとで即位し、若い死が継承問題を残した天皇鳥羽天皇と藤原得子(美福門院)の子・体仁親王。幼くして崇徳から皇位を継ぎ、父鳥羽が院政を行いました。二人の后の擁立には摂関家の忠通・頼長の対立も絡みます。1155年に若くして没し、後白河が即位。翌年の保元の乱は、近衛没後に起きた出来事です。
- 在位
- 1141—1155
- 主な所属
- 平安時代後期・平安京
- 関わった出来事
- 3件
QUICK GUIDE
まず3分でわかる、近衛天皇
幼い天皇を取り巻く大人たち
父の院政、母美福門院、后を送り込む摂関家を分けると、本人の短い生涯と政治上の役割を混同せず読めます。
家系と皇位の順序を分けて読む
崇徳・近衛・後白河は鳥羽を父とする異母兄弟です。後白河は近衛の息子ではありません。母得子は美福門院とも呼ばれます。
LIFE TIMELINE
近衛天皇の生涯年表
体仁親王の誕生
鳥羽と美福門院の子。
幼少で即位
崇徳から皇位を継ぎ、鳥羽院政が続きました。
后の擁立
多子と呈子を支える摂関家の競争が宮廷に現れます。
死去
後白河が継承し、翌年に保元の乱が起こりました。
BIOGRAPHY
近衛天皇は、どんな生涯を送ったか
数え3歳の即位と父の院政
1139年に生まれた体仁は、1141年に崇徳から皇位を継ぎました。ここでの年は和暦年に対応させた表記で、西暦の換算により1142年と記す資料もあります。政治を主導したのは父鳥羽であり、幼児自身が政策を決めたという意味ではありません。
崇徳にとっては、自分の皇子ではなく異母弟へ皇位が渡ったことになります。天皇としての地位と、退位後に次代を支える立場は同じではなく、この継承はのちの宮廷内対立にも関わりました。
后の擁立と摂関家の争い
成長した近衛の宮廷では、忠通と頼長がそれぞれ后を支えました。皇后多子と中宮呈子の擁立は、后の父・養父が宮廷で地位を築こうとする動きと結び付いています。人物の名前だけでは、養女関係を介した政治のつながりを見落とします。
近衛は1155年に没しました。その死によって後継者を改めて選ぶ必要が生じ、後白河が即位します。若い天皇の死を、そのまま特定勢力による殺害の証拠とすることはできません。死の原因についての後世の説明と、継承の結果は分けます。
近衛の墓が伝える、母と子の関係
近衛の遺骨は、のちに安楽寿院の新御塔へ移されました。京都市の解説によれば、ここはもともと母美福門院の墓所となる予定の塔でした。母が高野山に葬られたため、息子の陵となったのです。
現在の多宝塔は1606年に豊臣秀頼が再建したものです。近衛の時代と建物の時代には隔たりがあります。父鳥羽の陵と合わせて見ると、院政の一族の記憶が、別の時代の人々によって維持されたことも分かります。
HISTORICAL ROLE
近衛天皇は、その時何をしたか
体仁親王の誕生
鳥羽と美福門院の子。
幼少で即位
崇徳から皇位を継ぎ、鳥羽院政が続きました。
后の擁立
多子と呈子を支える摂関家の競争が宮廷に現れます。
ACHIEVEMENTS & LIMITS
何を成し遂げ、何が分からないか
在位中に起きたことと、本人の行動を分ける
幼い即位者の場合、治世の政治事件をすべて本人の業績に数えるのは不適切です。近衛のページでは、支えた人々と没後の継承を中心に説明します。
RELATIONSHIPS
近衛天皇を取り巻く人と組織
鳥羽天皇人物詳細 →
在位中に院政を行いました。
後白河天皇人物詳細 →
近衛の死後に即位した後継者です。
MYTHS & UNCERTAINTIES
伝承と史実を分けて見る
病と呪詛の噂
病や死をめぐる噂は、対立する宮廷社会の認識を知る資料にはなりますが、そのまま医学的原因や他者の犯行を証明しません。
FAMILY TREE
近衛天皇の家系図
崇徳・近衛・後白河は鳥羽を父とする異母兄弟です。後白河は近衛の息子ではありません。母得子は美福門院とも呼ばれます。
皇室の系図(宮内庁) ↗PLACES
近衛天皇の足跡を現地でたどる
近衛天皇陵
所在地・陵名は宮内庁の案内で確認できます。陵域内へ自由に入れるという意味ではありません。参拝時は現地の区画と案内に従ってください。
FAQ
近衛天皇についてよくある質問
Q01保元の乱に参加しましたか?
参加していません。近衛は1155年に没し、保元の乱は1156年に起こりました。
Q02陵の塔は平安時代のものですか?
現在の安楽寿院南陵の多宝塔は1606年の再建です。墓所の由来と建物の年代は別です。
SOURCES