鎌倉時代 / 弘安8年
弘安8年
霜月騒動
得宗家執事・平頼綱方が有力御家人・安達泰盛一族を鎌倉で攻め滅ぼした。元寇後の恩賞・改革をめぐる対立から、得宗専制が一段と強まった。
霜月騒動は平頼綱と安達泰盛の私闘ではありません。弘安徳政と呼ばれる幕政改革、御家人と得宗被官の利害、元寇後の恩賞不足が重なった政権内戦です。
- 場所
- 相模国・鎌倉
- 天皇
- 後宇多天皇第91代天皇
- 関係人物
- 2名

OVERVIEW
霜月騒動を4段階で理解する
元寇後、恩賞不足と異国警固で御家人の負担が増えた
新領地を得られない防衛戦だったため、幕府は御家人へ十分な恩賞を配れませんでした。北条時宗死後、若い貞時を誰が補佐するかも争点になりました。
安達泰盛の改革と、得宗被官平頼綱の権力が衝突した
泰盛は御家人救済と幕府秩序の再編を進め、得宗家の内管領・頼綱は被官組織を基盤に反発しました。泰盛が将軍権威を利用するとの疑いも広がります。
11月17日、頼綱方が泰盛邸を攻撃し一族・与党を討った
鎌倉の戦闘は短時間で決着し、安達氏の一門と支持者が各地で追討されました。事件名は旧暦11月=霜月に由来します。
平頼綱が幕府実権を握り、得宗被官による専制が進んだ
御家人合議より得宗家内の意思決定が強まりました。頼綱自身も1293年の平禅門の乱で貞時に滅ぼされます。
DEEP DIVE
霜月騒動は、元寇とどうつながっているのか。
元寇後の恩賞不足・防衛負担をどう処理するかが幕政改革を生み、その改革を担う安達泰盛と得宗被官の平頼綱が権限と利益を争ったからです。
BACKGROUND
背景を掘り下げる
元寇後、恩賞不足と異国警固で御家人の負担が増えた
新領地を得られない防衛戦だったため、幕府は御家人へ十分な恩賞を配れませんでした。北条時宗死後、若い貞時を誰が補佐するかも争点になりました。
安達泰盛の改革と、得宗被官平頼綱の権力が衝突した
泰盛は御家人救済と幕府秩序の再編を進め、得宗家の内管領・頼綱は被官組織を基盤に反発しました。泰盛が将軍権威を利用するとの疑いも広がります。
11月17日、頼綱方が泰盛邸を攻撃し一族・与党を討った
鎌倉の戦闘は短時間で決着し、安達氏の一門と支持者が各地で追討されました。事件名は旧暦11月=霜月に由来します。
CHRONOLOGY
何が起こったのか
弘安の役
防衛成功後も恩賞問題が残りました。
北条時宗死去
14歳の貞時が執権となりました。
弘安徳政
泰盛が幕政改革を進めました。
安達邸を攻撃
泰盛方が滅ぼされました。
平禅門の乱
貞時が平頼綱を討ちました。
KEY PEOPLE
霜月騒動を動かした人物
QUESTIONS
よくある疑問
霜月騒動は正式名称か
事件が旧暦11月に起きたことから後世に広く呼ばれる名称です。
弘安徳政は徳政令なのか
単一の債務帳消し令ではなく、泰盛期の政治改革全体を指す研究上の呼称です。
北条時宗は騒動に関与したのか
時宗は前年に死去しています。画像は元寇後政治の前提を示します。
IMPACT
その後、何が変わったか
得宗専制
得宗被官が幕府意思決定へ深く関与しました。
御家人層の分裂
有力家と被官層の対立が全国へ波及しました。
改革の中断
御家人救済と幕政再編の路線が後退しました。
SOURCES


