地図と人物でたどる、日本の時間。

鎌倉時代 / 弘安8年

1285
弘安8年

霜月騒動

得宗家執事・平頼綱方が有力御家人・安達泰盛一族を鎌倉で攻め滅ぼした。元寇後の恩賞・改革をめぐる対立から、得宗専制が一段と強まった。

霜月騒動は平頼綱と安達泰盛の私闘ではありません。弘安徳政と呼ばれる幕政改革、御家人と得宗被官の利害、元寇後の恩賞不足が重なった政権内戦です。

場所
相模国・鎌倉
天皇
後宇多天皇第91代天皇
関係人物
2
北条時宗の肖像
北条時宗像騒動前年に没した第8代執権画像出典 ↗

OVERVIEW

霜月騒動を4段階で理解する

01 / 時代背景

元寇後、恩賞不足と異国警固で御家人の負担が増えた

新領地を得られない防衛戦だったため、幕府は御家人へ十分な恩賞を配れませんでした。北条時宗死後、若い貞時を誰が補佐するかも争点になりました。

02 / 起こった理由

安達泰盛の改革と、得宗被官平頼綱の権力が衝突した

泰盛は御家人救済と幕府秩序の再編を進め、得宗家の内管領・頼綱は被官組織を基盤に反発しました。泰盛が将軍権威を利用するとの疑いも広がります。

03 / 何が起こった

11月17日、頼綱方が泰盛邸を攻撃し一族・与党を討った

鎌倉の戦闘は短時間で決着し、安達氏の一門と支持者が各地で追討されました。事件名は旧暦11月=霜月に由来します。

04 / その後

平頼綱が幕府実権を握り、得宗被官による専制が進んだ

御家人合議より得宗家内の意思決定が強まりました。頼綱自身も1293年の平禅門の乱で貞時に滅ぼされます。

DEEP DIVE

霜月騒動は、元寇とどうつながっているのか。

元寇後の恩賞不足・防衛負担をどう処理するかが幕政改革を生み、その改革を担う安達泰盛と得宗被官の平頼綱が権限と利益を争ったからです。

発生1285年弘安8年
旧暦11月霜月
敗者安達泰盛有力御家人
勝者平頼綱得宗被官

LOCATION

地図で見る

ピンは安達氏邸跡とされる鎌倉市甘縄周辺の概略位置です。追討は鎌倉だけでなく各地の安達方へ広がりました。

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BACKGROUND

背景を掘り下げる

元寇後、恩賞不足と異国警固で御家人の負担が増えた

新領地を得られない防衛戦だったため、幕府は御家人へ十分な恩賞を配れませんでした。北条時宗死後、若い貞時を誰が補佐するかも争点になりました。

安達泰盛の改革と、得宗被官平頼綱の権力が衝突した

泰盛は御家人救済と幕府秩序の再編を進め、得宗家の内管領・頼綱は被官組織を基盤に反発しました。泰盛が将軍権威を利用するとの疑いも広がります。

11月17日、頼綱方が泰盛邸を攻撃し一族・与党を討った

鎌倉の戦闘は短時間で決着し、安達氏の一門と支持者が各地で追討されました。事件名は旧暦11月=霜月に由来します。

CHRONOLOGY

何が起こったのか

  1. 弘安の役

    防衛成功後も恩賞問題が残りました。

  2. 北条時宗死去

    14歳の貞時が執権となりました。

  3. 弘安徳政

    泰盛が幕政改革を進めました。

  4. 安達邸を攻撃

    泰盛方が滅ぼされました。

  5. 平禅門の乱

    貞時が平頼綱を討ちました。

KEY PEOPLE

霜月騒動を動かした人物

QUESTIONS

よくある疑問

用語

霜月騒動は正式名称か

事件が旧暦11月に起きたことから後世に広く呼ばれる名称です。

改革

弘安徳政は徳政令なのか

単一の債務帳消し令ではなく、泰盛期の政治改革全体を指す研究上の呼称です。

時宗

北条時宗は騒動に関与したのか

時宗は前年に死去しています。画像は元寇後政治の前提を示します。

IMPACT

その後、何が変わったか

01

得宗専制

得宗被官が幕府意思決定へ深く関与しました。

02

御家人層の分裂

有力家と被官層の対立が全国へ波及しました。

03

改革の中断

御家人救済と幕政再編の路線が後退しました。

SOURCES

根拠と参考資料

鎌倉市鎌倉時代ガイド霜月騒動と得宗専制を解説。一次情報を見る ↗鎌倉市鎌倉市の歴史元寇後の幕府政治を概説。一次情報を見る ↗国立公文書館吾妻鏡・鎌倉幕府資料幕府政治を伝える古典籍画像を公開。一次情報を見る ↗